第一幕 玉髄と青玉 一



 彼は見世物だ。
 松の下には舞台。舞台の後方にそびえる松は、豊かに葉を茂らせていた。ここが舞台になるずっと前から、松の影はここに落ちていたのだろう。舞台の周囲には幕が垂らされている。客席にも――といっても、地面をならしただけの場所だが、全体を囲むように幕が垂らされている。俗世間と隔絶した状況が生まれている。 
 彼は舞台にいた。
 彼の役どころは、牛若丸。源義経の少年時代だ。黒褐色の髪を結い上げ、身には白い水干。顔には若い娘を模した面を着けている。面に松の影が落ちている。
 牛若丸が笛を吹く。もちろん面をつけているから、本当に吹いているわけではない。彼の動作に合わせて、舞台端に控える楽人が演奏している。
 牛若丸が舞台の上を進む。風景は五条大橋を模し、橋の欄干もある。
「そこな稚児、止まれい!」
 大男が舞台に現れる。役は武蔵坊弁慶。僧兵の扮装をし、面は着けていない。眉が太く、くちびるも厚い。素顔でもすごみのある男だ。
「止まれというのが聞こえぬか!」
 牛若丸は答えない。
 弁慶が跳躍し、牛若丸の前に降り立つ。笛の音が止まった。
「刀を置かねば、この橋は渡さぬぞ!」
「なぜ刀を求める?」
 牛若丸がようやく答える。
「我が満願成就がため、一千本の刀を求める。昨日までで九百九十九本、お前の刀で千本目よ!」
 弁慶がギラリと薙刀を抜いた。
 一方、牛若丸は刀も抜かない。
 舞台を緊張感が包んだ。客席もぐっと息を呑む気配がする。
「ケッ、どうせ作りモンの刃物だろ!」
 客席から野次が飛んだ。侍だ。身分は低くなさそうだが、下品な男だった。隣に女を侍らせ、悪そうな仲間とニヤニヤ笑っている。
 牛若丸が舞台から飛び降りた。男に向かってズンズン歩いていく。
「お? お?」
 男の前に、牛若丸が立った。するすると太刀を抜く。
「なんだ、なんだぁ? 気に障ったかい?」
「きゃーこわーい」
 男がおどけると、女がわざとらしい声を上げて男にすがる。
 牛若丸がスッと刀を上げる。
 ヒュッと。
 風が切れた。
「――あ?」
 ぷつ、ぷつ、ぷつ――バサッ!
 男の髻を結った紐が切れた。
「な、な、な……?」
 男はなにが起こったかわからない顔をしている。――牛若丸が刀を鞘に納めるまでは。
 ワアッハッハッハ――!
 客席から爆笑が起こった。
「ななな、なにしやがる!」
 侍は慌てた。落ち武者のようになってしまった頭を押さえる。
「これは真に刃をつけたる太刀なれば、あの僧兵も欲しがるというもの」
 牛若丸はしれっと答える。
 舞台の上から、弁慶が笑いながら叫んだ。
「おい! そこな稚児! 拙僧のことは無視で、その侍の相手にはなるのか!」
 ドッと客席が沸いた。
「き、き、貴様――!」
 侍の顔がドス黒く染まる。
 その鼻先に、牛若丸は刀の切っ先を突きつけた。
「う、うう……」
 男の目がつつ、と寄る。顔色を赤く黒くしながら、男がうなる。女も取り巻きも動けない。
 本物の刀を突きつけられた。しかも牛若丸の動きにはスキがない。美女の面を着けているため、表情もわからない。
「お、覚えてやがれー!」
 頭を押さえて、アタフタと仲間と出ていく。
「みっともねぇぞ!」
「二度と来んなー! ワッハハハ!」
 その背中に、観客からの野次と笑いが飛んだ。
「稚児! 相手をせよやぁ!」
「言われるまでもなく!」
 牛若丸が刀を鞘に戻し、答えた。跳躍し、身を伸ばしたまま空中で一回転する。
 おおっと感嘆の声があふれる。
 牛若丸が舞台に着地する。弁慶が構えなおす。
「せいやぁッ!」
「ハッ!」
 仕掛けたのはやはり弁慶。薙刀の一撃は重い。床板が割れ、破片が飛び散る。
 牛若丸は時に優雅に、時に俊敏に、弁慶の攻撃を避ける。
 観客は息を呑みっぱなしだ。役者の持つ武器は真剣、殺陣は紙一重の間合い。劇とわかっていても、胸を躍らさずにはいられない。
「ハッ!」
 パアン!
 扇が、弁慶の額を打った。牛若丸が懐に忍ばせていた扇だ。
 牛若丸は太刀を抜き、鞘を投げ上げた。鞘は、茂った松の枝の中へ吸い込まれる。
 弁慶と牛若丸が斬り結ぶ。数合火花を散らし、離れる。
 牛若丸が橋の欄干に足をかけ、飛んだ。その瞬間、松から鞘が落ちてきて、牛若丸が受け止める。舞台に降り立ったときに、太刀は鞘に収まっていた。
「ええい、なんと素早いこわっぱよ!」
 弁慶が迫る。薙刀が牛若丸の真上に振り下ろされる――!
「なんと!」
 牛若丸は紙一重でさけていた。しかも弁慶の薙刀の上に乗り、笛を弁慶に突きつけていた。
「参りもうした……」
 弁慶が脱力して平伏し、牛若丸が勝利する。
 こうして五条大橋で牛若丸は弁慶を下した。二人は主従となって、源平の争乱へ身を投じていく――。
 演目『牛若丸』は今日も大盛況のうちに終わる。
 牛若丸と弁慶が客席に向かって礼をする。やんややんやの大拍手で観衆は応えた。


「ふうー」
 舞台袖に下がった牛若丸が、面を外して息をついた。
玉髄ぎょくずい、休んでるヒマはないわよ」
 牛若丸に声をかけたのは、艶やかな美女だった。天女のような薄い衣をまとっている。
「次の舞が待ってるんだから」
「わかってます、朝日殿。童子が汗をかいてたらおかしいでしょうが」
 玉髄と呼ばれた牛若丸が応えた。
 牛若丸は水干を脱ぎ、全身に浮いた汗を拭き取る。
 上半身は裸のまま、袴を変える。白い袴だ。髪をほどいて異国風に結い直す。
 鏡に顔を写す。自分の目元を見て、牛若丸は自嘲するように笑った。すぐさま真面目な顔に戻り、まぶたに紅を塗る。
 金の腕輪や首輪ネックレスをつける。上半身には細布をひっかけるようにまとう。
 牛若丸は姿を消し、異国の神人しんじんが生まれ出た。端正な顔で、今にも飛翔しそうな艶男。そのはっきり開いた瞳の色は、翡翠の色。淡いようでいて深い緑色だ。
 そう、まさに彼は異国の風貌をしていた。
「綺麗な目よ、玉髄」
「思ってもないことを」
 神人はちらりと舞台の様子を見る。
 楽人たちが幕間の歌を歌っている。歌に合わせて舞うのは、身の丈三尺(九〇センチ)の小男だ。赤ら顔の小男は、蛾に似た衣装を纏って面白く舞う。

  赤きは酒の咎ぞ 鬼と、なおぼしそよ
  恐れたまはで、我にあい馴れたまはば、興がる友と
おぼすべし


  顔が赤いのは酒のせいだよ。 鬼だなんて思わないで。
  
恐れず馴れてくれれば、私はあなたのおもしろき友。

「……興がる友と思すべし」
 謡に合わせて、神人――玉髄は小さくつぶやく。
 玉髄。彼の本当の名前だ。
 しかし彼の名は、舞台に上がるとき、変わる。
「出番よ!」
「はい!」
 ワアアアアッと大歓声が上がる。
剣鎧童子けんがいどうじ!」
 ふたたび舞台に飛び出した彼の名は、「玉髄」から「剣鎧童子」に変わる。
 「剣鎧童子」とは、その身に剣でできた鎧をまとう、仏法の守護者のことだ。雲に乗って飛天する。ときには聖僧ひじりの使いとして、魔を退治したりもする。
 玉髄は「剣鎧童子」として剣舞を披露する。まさに空を飛ぶようだった。優雅に回転したかと思うと、力強く宙を飛ぶ。

  鉢・倉飛ばせたまひし山の聖は
  剣の童子を遣わしもうしたてまつる
  御帝を悩ませし疫の鬼を退治したてまつる


  鉢や倉を飛ばすほどの霊能力を持つ、山に住む仏僧は
  剣鎧童子を使役し、つかわしもうしあげなさる
  時の帝を病気にした、疫病神を退治もうしあげなさる。


 謠の題は『信貴山聖しぎさんのひじり』。大和国信貴山に住んでいた命蓮という僧侶の起こした奇跡の一節を舞にしたものだ。命蓮の使役した護法童子が、命蓮と仏法を讃える歌とともに舞う。
 両手の直剣が交差し、回り、閃く。舞が絶頂を迎え、太鼓が激しく打ち鳴らされる。玉髄は力強く待った。汗が玉となって宙に舞うほどに。

  これにて童子は山へとまかり
  世の人みな、これを貴びてとぶらふ


  これにて剣鎧童子は、仏僧の住む山へと帰ってゆき
  世間の人は皆、この聖人を貴んで供養した。


 彼の舞いが終わる。これも好評であった。


 一座の最後の演目が始まる。
 座一番の美女が、天女に扮して優雅に袖をひるがえす。音楽もゆったりと伸びやかな旋律で、ここが極楽浄土であるという錯覚さえ起こさせる。興奮とも陶酔ともつかない感覚に支配される。
 ここまで来ると、涙ぐんだり、手をすりあわせ拝む観客もいるほどだ。

  一切の有為法は夢幻泡影のごとく
  露のごとくまた雷のごとし
  まさにかくのごとき観をなすべし


  すべての存在とは夢や幻、泡、影のようで
  露のようで、または雷のようだ。
  まさにこのような見方をするべきなのだ。


 天女の口から発せられる『金剛般若経』の一節が、舞を締めくくった。


 すべての演目が終わり、楽人や舞手が舞台に居並ぶ。
 赤ら顔の小男が進み出て、観客に礼を述べる。
「さぁて皆々様、本日もおこしいただき、恐悦至極に存じたてまつりまする。次の縁も、われら一座の者どもで、夢かうつつか幻か、憂き世の嘆きを晴らします舞台を演じもうしあげます」
「よろしゅうお願いもうしあげまする」
「もうしあげまする――」
 いっせいに平伏する。
 観客は拍手と歓声で一座を讃えた。
「よっ、天下一!」
「次も絶対、見に来るえ!」
 芸人一座――極彩異形座の舞台が、終わった。


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初出:2012年壬辰10月08日
古典参考:『大江山酒呑童子』、『信貴山縁起』、『今昔物語集』、『金剛般若経』