龍×琥オーヴァードライブ
第五章「龍吟虎咆」


 西の空に夜が消えようとしている。東から朝が立ち昇ってくる。黄赤色の光が、あたりを染め上げる。夏の熱さをもたらす光が、今日も生まれようとしている。
 玉髄ギョクズイは新しい衣に袖を通し、革鎧をつけた。朱色の衣、赤い鎧――馴染みのある紅龍隊の装備だ。籠手をつけ、剣帯をつける。
 一角もまた、新しい衣をまとう。白衣の袖は長く、黒い布で縁取りをしてある。袴は脛当てで絞り、動きやすい格好になる。短い外套をつけ、銀の額当ての結い紐を締める。
「あたしはお師匠様に拾われて育ったんだよね。お師匠様は、こんなあたしでも愛しんで、琥符の術を教えてくれた……」
「ああ。俺のことも、目をかけてくれた……」
 玉髄は黙り込んだ。夜光を死なせずに済んだ道があるのではないか――ふとした瞬間に、後悔が押し寄せてくる。責任を感じる。心が重くなる。
「ズゥちゃん」
 一角が、玉髄のうしろにまわり、その背にぽんと身を預けた。
「……ズゥちゃん言うな」
「ん、いつもの玉髄だ」
 一角の声が笑う。
「強いな、お前は」
「お師匠様のあとを継ぐの。だから」
 嫌でも、強くあらなければ。
「おい、準備できたか!」
「はい!」
 剛鋭の声に、二人は同時に答えた。
 一角は、夜光の亡骸のまえに跪いた。
「お師匠様……行ってきます。お守りください」
 一角は夜光の髪から、結い紐を外した。彼の右の鬢をまとめていた紐だ。手早く自分の髪をまとめ、その紐で結う。
「一角」
 玉髄は簪を外した。団子にしていた髷がばらけて、ただ根元で結っただけになる。
「これ、持ってろ」
「え、これ……?」
「翡翠も辟邪の力を持っている。お前、武器持ってないから不安で」
「……ありがとう、玉髄」
 一角は嬉しそうに簪を握り締めた。金茶色の髪は短すぎて、挿せない。外套の留め金を外すと、その簪で留めた。
 そのとき、二人の前に青河が現れた。黙って拱手する。一角が彼女の前に立った。
「お師匠様を、頼みます。奪われるのだけは嫌です」
「……必ず」
 青河セイガは短く答えた。それで充分だった。

「王国軍青龍隊、陛下のご命令により参陣!」
「同じく、黒龍隊、白龍隊、参上いたした」
 騎龍の数は、四倍ほどに膨れ上がっていた。知らせを受けた王国軍所属の騎龍たちが、援軍として参じたからだ。青、黒、白それぞれの色を基調とした装備で身を固めている。
「まずはあの結界を破ります」
 一角が、騎龍たちに宣言した。
 阿藍アランたちが潜む仙槎センサは、蟠湖ハンコに向かっている。その結界は健在で、いまも熱を失わない。
「そののち、あたしと玉髄で琥符を奪取します」
「ちょっと待て」
 別の隊の将軍から異論が出る。
「突入するなら、ほかの騎龍もともに行けばいい」
「……お師匠様の、仇なんです。それに、奴らのやり口はあたしと玉髄しか知りません」
「俺が責任ケツを持つ。こいつらの言う通りにしてやってくれ」
 剛鋭が言った。
「わかった。剛鋭がそこまで言うなら」
「感謝するぜ。俺たちは支援に当たる。奴らが妖魅を外に繰り出してきたら、容赦なく撃ち落とせ!」
「崩国の妖魅については!?」
「奴が出たら、ともかく全方向から撃て。動きを牽制し、湖より外に出させないようにするんだ。あとは、コイツらが奴を封印する」
コウ家の兵らはいかがいたします?」
「控えだ。普通の人間の軍は役に立たん。数なんて関係ない相手だ」
 剛鋭や古参の騎龍は、嫌というほど知っている。
 十年前、突如として峰国を襲った大妖魅。王国軍は壊滅的な打撃をこうむった。人がまるで塵芥ちりあくたのように死んだ。それは騎龍の部隊も同じだった。
 けれども、結局その戦いを治めたのは――たった二人の男だった。一匹の龍と一枚の琥符。その二つに、この国のすべてが救われた。
「よく聞け! ここで万一封印に失敗すれば、この国は滅びるだろう!」
 剛鋭が声を張り上げた。獅子吼と称される大声だった。
「何としても、この琥師――一角娘イッカクジョウを守れ!」
「はっ!」
 騎龍たちが、琥師を助けるという。怨恨を忘れ、心がひとつになっている。
 この国を守りたい。その何より強い一点だけが、全員の心をつなぐ。
「行くぞ、玉髄!」
「はい!」
 龍の群れが、空へと飛び立った。

 仙槎は蟠湖の上空に留まっていた。鳴蛇メイダの熱と霊気で形成された結界を張ったまま、空中に浮いている。球体状の結界は、まるで太陽がそこに浮かんでいるかのようだ。
「やはり、彈は吸収されちまって破れないな。どうする?」
 玉髄と一角は、剛鋭の龍に乗っていた。
「玉髄、あの結界を視て。もしかしたら、弱い部分がわかるかもしれない」
 玉髄は瞳を閉じた。全身の神経を、集中させる。体中の血が眼球に集まるさまを想像する。
 そしてカッと見開いた。鳴蛇の生気が見える。結界の上部に、鳴蛇の力が集まっている。
「下だ! 下のあたりは、力が弱い」
 一角がうなずく。
「あたしの妖魅で、結界を破ります。少しでも穴があいたら、そこから飛び込んでください」
「わかった」
「琥符を奪取したら、俺の龍で離脱します」
「ああ。だが玉髄、手前の力は三百を数えるほどしか使えない。気をつけろ」
「はい」
 玉髄が龍を出していない理由はここだ。彼の力には時間制限がある。
「我が友たる獣、ここに楽しみ来たり遊べ!」
 琥符が空中に舞い上がる。黄金の光を放ち、巨大な黒い鳥に変じた。足が三本ある、カラスに似た鳥だ。翼が赤味を帯びた金色に光っている。
金烏キンウ、行って!」
 金烏は一声鳴くと、結界に向かって突っ込んだ。玉髄が視た力の薄い場所に激突する。火花が散り、金烏の体が炎に包まれる。
 しかし止まらなかった。金烏は炎を得て、その体がますます大きくなる。結界を形成している霊気と熱が、その体に吸収されて歪み出す。
「開いた!」
 水泡が弾けるように、結界が消失した。即座に剛鋭の龍が肉薄する。玉髄が一角を抱え、仙槎に向かって飛び降りた。それと同時に、ふたたび結界が張られた。剛鋭の龍がその結界に弾かれ、もんどりうつのが見えた。
「朱将軍……!」
「大丈夫だ、俺たちは俺たちのつとめを果たそう」
「うん!」
 仙槎は、白玉だけで形成されていた。大きさはちょっとした屋敷ほどもある。半球状のとりでがその上に乗っている。大きな入口には扉がなく、難なく中に入ることができた。
 中は一室だけだった。部屋の中央に祭壇が築かれている。その壇に向かって、放射状に階段が続く。壁には無数の琥符が輝いている。これで外の鳴蛇を操っているのだろう。
 祭壇には、果たして阿藍の姿があった。隣に遷もいる。青玉は、無造作に床の上に転がされている。
「あら、夜光はどうしたのどうしたの?」
 阿藍はまるで、ご機嫌うかがいのように尋ねてきた。
「死んだ」
「何ですって?」
「お師匠様は……琥師夜光ヤコウは、死んだ!」
 一角は悲しみを振り払うように叫んだ。
 阿藍は袖で口元を覆う。まばたきを数瞬しなかった。驚いていたのだろうか。
「そう……死んだの、彼が……フフ、フフフクク。馬鹿な男」
 阿藍はやがて、心底おかしそうに笑った。一角は怒りで顔を歪ませる。
「崩国の妖魅が復活する。阿藍、あなたが造った琥符で奴を封印する!」
「封印ですって? そんなもったいないこと、誰がさせるものですか」
「黙れ!」
 玉髄が剣を抜いた。
「遷!!」
 阿藍の横に控えていた遷が、放たれた矢のように玉髄に斬りかかる。
 玉髄もそれを予見していて、真正面から受ける。二人はもつれながら、塞の外へ飛び出した。剣花(ひばな)が散る。相手の足を払う。即座に体勢を立て直す。また切り結ぶ。
「玉髄!」
「一角、俺にかまうな! うしろ!」
 一角はうしろから首を絞め上げられる。阿藍の手がかかっていた。
「クゥッ!」
 一角はもがく。阿藍の力は信じられないほど強かった。
(はなしてッ!)
 一角は胸元から簪を引き抜き、腕を大きく反らせて阿藍の首に突き出した。皮膚に当たる感覚と同時に、突き飛ばされるように解放された。翡翠の簪を取り落とす。
「い、い……」
 阿藍の首に、赤い筋がついている。簪でついた傷だ。血が溢れている。
「痛いじゃないのォッ、この小娘があ!」
 阿藍は激昂し、ふたたび一角に襲いかかろうとした。
 一角はそれをかわし、琥符を取り出す。
「我が友たる獣、ここに楽しみ来たり遊べ!」
 琥符が光を放ち、大虎が現出した。鮮やかな金色の毛並みに、黒の縞模様。前脚の付け根の毛は特に長く、まるで翼のようにも見える。牙を剥いて咆哮し、阿藍に対峙する。
「ク……!」
 阿藍が我に返ったように歯噛みした。どうやら、琥符がないらしい。おそらくすべて鳴蛇の制御に使ってしまっているのだろう。金虎の威嚇に動くことができず固まっている。
 一角はそのスキに、青玉のもとに急いだ。床に横たえられた青玉は、目を閉じたままピクリとも動かない。
「青玉ちゃん、青玉ちゃん!」
 何度も呼びかける。青玉の前髪を掻き上げると、額に白いものが喰い込んでいる。玉髄の牙――常人よりも鋭くなった犬歯だ。
「これを抜けば、もしかしたら!」
 その牙を指先でつまみ、ゆっくり慎重に抜く。かなり深く、しかもきつく喰い込んでいるらしく、指が何度も滑った。
「抜けた!」
 その瞬間、青玉の瞳にカッと光が戻った。ゆるゆると起き上がる。
「一角……? わたし、いったい……?」
「青玉ちゃん!」
 一角は思わず、青玉に抱きついた。
「玉髄は?」
「大丈夫、生きてる!」
「夜光殿は……?」
 一角はうつむいた。青玉はそれですべてを悟ったようだ。
「――!」
 そのとき、阿藍が駆け寄ってきて腕を振り上げた。翡翠の簪を握っている。
「一角、危ない!」
 青玉がとっさに腕を上げ、一角を自分のうしろに引っ張り込む。青玉の白い腕に、簪が突き立った。遷の曲刀さえも防いだ皮膚が、翡翠の簪に貫かれている。
「痴れ者めッ!」
 青玉が腕を振った。鞭のように阿藍の顔を打つ。阿藍は弾かれたように倒れ、階段を数段落ちた。
 青玉は無造作に腕から翡翠を引き抜いた。
 阿藍が打たれた頬を押さえて起き上がる。金虎のスキを見て、二人を襲おうとしたのだろう。青玉が間一髪で気づいたが。
「ここを撃たれて、いやなことを思い出してしまった」
 青玉は額を指し示す。傷はすでにふさがっているが、小さな痕がある。
「阿藍、あなたは二十年前、わたしを騙して傷つけた」
 ――かつて、夜光が言っていた。
『龍師に手を出しおった』
 その龍師を、青玉は知らないと言った。
「わたしは逃げて、玉仙に助けられたけど、二十年も眠ることになってしまった」
 しかしそれは違っていた。二十年の眠りが、彼女の記憶を奪ったのだろう。
 青玉が、祭壇の上から何かを手に取った。辟邪獣の面――彼女が玉仙に与え、そして玉髄にも受け継がれた面だった。
「あなたは欲が強すぎる。友を死なせ、妖魅を従え、死者を操り、それで崩国の妖魅も欲する?」
 青玉の青い瞳が、まるで氷のように澄み渡っていく。
「崩国の妖魅は死なないといった。ならばそれは、神代より生き残りし者だ。あなた程度の小者に、どうこうできる者じゃない」
 青玉がゆっくりと面を顔につけた。
 面がパキパキと音を立てて、その縁をまるで木の根のように伸ばしていく。青玉の皮膚にその影が落ち、ぴったりと貼りつく。
 面が透けた。額が青く輝いている。璧の輝きだ。青玉の額の中に吸い込まれていく。
「青玉……」
 面が外れた。青玉が瞳を開く。いままでとは違う、強い光が宿っている。
「来い、我が龍よ!」
 青玉の髪の毛の一部が、彼女から離れた。否、別のものが、青い毛をひるがえしたのだ。
 龍が現出していた。純白の鱗におおわれ、その背になびくのは、青色のたてがみ。青玉と同じ、蒼穹そらのような色の大きな眼。世にも珍しい、二つの体色を持った龍だった。
 龍が顎門あぎとを開いた。その鳴き声は、女の歌う声に似る。
 青玉の瞳が、澄み渡っている。一角も同じだ。
「ひ……」
 阿藍は後ずさった。青玉の手が閃いた。阿藍の太腿に、翡翠の簪が突き刺さる。
「ああああああッ!」
「我が眷族を、跪かせたお返し」
「うう……遷! 遷!」
 阿藍は頼みの綱を呼ぶ。しかし遷は、玉髄と戦うことに夢中になっている。外で剣の打ち合う音がするばかりだ。
「あ……あ……」
 代わりに、一角の金虎がうなりながら阿藍の背後に迫る。
「阿藍! 琥符の術を、解きなさい!」
「なぜ!?」
「玉髄や、遷や、可哀想な妖魅たちを、解放するの!」
「そんなことして、妾に何が残る!?」
 阿藍が声を荒げる。
「誰も彼も妾を侮って! 妾は、妾は、この世の王になるんだッ!」
「悲しいひと
 青玉が冷たく言い放った。
「あなたの仲間は、妖魅か死者。どうして人の、生者のうちで生きようと思わなかった?」
「黙れ! 龍師なんぞに何がわかる! 逃げたくせに! 妾の計画を邪魔したくせに!」
 子供がわがままを言って泣くように、阿藍はわめいた。
「夜光にも逃げられた! もうやだ! どうして皆、邪魔をする!」
「阿藍……もう一度だけ言う。琥符の術を解いて」
「いやだいやだ!」
 青玉が大きくため息をついた。
「あなたは、あまりに罪を重ね過ぎた」
 青玉は祭壇の上から、金色の箱を取った。
 否、箱ではない。琥符だ。玉髄の血を使って創られた、最高の琥符。青玉はそれを一角に持たせる。そして自分はぐっと手を握った。
「あなたが本当に夜光にしようとした方法で、琥符の術を解く」
 手を開く。白い牙が転がる。玉髄の牙だった。ピン、と無造作に投げ上げる。
「撃て」
 青玉の瞳が氷青色に澄み渡った。
 純白の龍の周囲に、青色の霊気が渦巻く。そして一点に集約されて放たれ、牙に当たる。霊気が牙を包み込み、阿藍の額に撃ち込まれる。
 そこで終わらなかった。阿藍の首が、青白い炎に包まれた。髪を焼き、皮膚を焼き、助けを求めて開かれた口にも火が入り込む。舌が焼けている。
 阿藍の首が焼け落ちると、一角の金虎が襲いかかった。阿藍の体を噛み千切り、破壊していく。ただの死ではない。肉体をバラバラにし、首を落とし、舌も失わせる。
 それは不死も、復活さえも許されない、完全なる死を意味していた。
「終わった……」
 一角は金虎を琥符に戻す。顔が蒼くなっている。青玉が彼女を抱き寄せた。
「よく、目を逸らしませんでしたね」
「うん……」
「彼女は、多くの魂を弄び過ぎました。これも当然の報いです」
「うん……うん……」
 一角はしゃくり上げる。しかしすぐ両手で目をこすった。
「泣かない。泣いちゃだめ」
 壁中の琥符が割れ、床に落ち始める。阿藍の死によって、琥符が無力化したのだ。
 そして仙槎全体が揺れた。大きく傾く。白玉の壁にヒビが入っている。
「ここも危ない。脱出しましょう。琥符を持って!」
「で、でも玉髄がまだ!」
 玉髄が戦っている。あの死者の戦士、遷と対して。
「大丈夫、勝ちます」
 青玉が微笑んだ。何かを確信している。
「もう、彼を痛めつけるものはありませんから」
 青玉は自分の龍を呼び寄せ、一角を乗せる。自身も辟邪獣の面を持って、龍にまたがる。
「行って!」
 純白の龍は、青いたてがみをなびかせ、仙槎から脱出した。



 青玉らが脱出したときより、やや時間は戻る。
 舟の外に転がり出た男たちは、間合いを取って対峙する。
 自分と同じ顔――否、センのほうがやや年上に見えるか。玉髄ギョクズイは未来の自分を見ているような気分になった。
「兄が死んだせいで、それがしコウ家を継がざるを得なかった」
 唐突に、遷は語り始めた。
「家を継ぎ子を生すは、貴族の義務。だが陰陽交接を禁じられた騎龍の身ではそれができない。だから某は、俗人として過ごさざるを得なった。お前が生まれるまでの一年が、やけに長かったよ」
 遷は饒舌だった。
「そして死んで、甦って、わかった。某はもう自由だと――」
「それが、阿藍アランに従った理由か」
「わかるだろう、お前にも」
 お前もまた、騎龍になるための修行を積みながら、あの家に縛られた身なのだから。
 遷の言葉に、玉髄は心が沈んでいくのを感じた。しかし怒りでも落胆でもない。冷静になっていくのを感じていた。
「……俺も『家を継げ』と言われたときは荒れたよ。何もかも思い通りにならなくて、毎日寝て起きるのさえ腹立たしかった」
 生きることは、思い通りにならないことの連続だ。
「おまけに、俺は不孝者だ。父祖の廟を守れず、子もなく騎龍となり、友人の師を死なせた」
 そして、後悔を重ね、無力さを痛感していくことの連続でもある。
「でも、それでも」
 それでも、玉髄は踏みとどまっていた。理由がある。仕えるべき王が、支えるべき仲間たちが、ともにあるべき友が、そして――愛する者が。
「俺にはまだ、守りたいと思うものがある!」
 思い通りにならずとも、もがいて、あがくだけの理由がそこにはある。
「来い、遷! 黄泉こうせんへ、叩き返してやる!」
「抜かせ!」
 また数合渡り合う。そして間合いを取る。
「なあ、遷。なぜ、龍を出さない?」
 上がった息を整えながら、玉髄は問うた。
「龍の彈なら、俺を難なく焼き殺せるだろうに」
「…………」
 遷は息こそ上がっていないが、答えない。
「人を彈で撃つべからず――騎龍の掟を、守ってるつもりか?」
 玉髄はわざとらしく両肩をすくめた。
「青玉を撃ったくせに」
「あれは赦しがあった」
「阿藍の赦しが? あの女は王でもなんでもねぇ」
 遷にまだ、騎龍としての誇りが一抹でも残るなら。
 玉髄はそれに賭けて、遷を挑発した。
「某を復活させてくれた。この腕と、脚をくれた」
「あんたの体じゃないだろう。空洞の鎧のどこがいい?」
「……貴様」
「俺は調子がいいぜー、青玉に騎龍にしてもらってから。体切り刻まれても生きてるし」
 玉髄は笑った。目は決して笑ってはいないが。
「何が言いたい?」
「何もかも中途半端で、片腹痛いんだよ! この腕なしのバケモノが!」
「黙れェェェッ!」
 遷が激昂した。
 玉髄の思惑通りだった。遷の中に虹玉仙コウギョクセンとしての記憶が残るならば、どう言えば怒りを誘発できるか。それを考えて、玉髄は彼を最も侮辱する言葉を放ったのだ。
「貴様に、貴様に何がわかる! 某の何が!」
「わっかんねーよ! テメーなんざもう親でも子でもない!」
「このオオオッ!」
 だが、挑発は半ば失敗だった。遷の技は大ぶりになるも、威力もまた上がっている。
 下から斬り上げられる。防いだ剣でその力を逃がし損ねる。玉髄の手から剣が飛んだ。
「しま……っ!」
 遷が腕を振りかざす。玉髄は咄嗟に腕を上げた。
 斬られる――!
 しかし、その瞬間は訪れなかった。遷の腕が止まっている。
 パキン、と何かが割れる音がした。玉髄は肩に違和感を感じる。右の肩口だ。
「琥符が……」
 カツン、と小さな音がした。皮膚から琥符が外れ、衣の隙間から床に落ちた。
「琥符が、外れた?」
 阿藍の琥符が外れる。それが意味するのは。
「……阿藍が、死んだ」
 遷が、呆然とつぶやいた。
「お……オオ……!」
 次の瞬間、遷の顔半分に筋が浮かんだ。急激に皮膚の張りが失われ、筋肉のスジが如実に現れる。眉間が割れた。ぶつけた水瓶のように、細かなヒビが顔中に走っている。
 彼の右腕が、だらりと垂れ下がった。曲刀が床に落ちた。
「くう……!」
 遷が歯噛みしたのと同時に――仙槎が大きく揺れ始めた。結界が消え、大きく傾く。それと同時に、鳴蛇が仙槎から離れていく。
 振り返ると、白い龍に乗って一角と青玉が離脱するのが見えた。玉髄は勝利を確信した。
「どうやら、そっちにはあんまり時間はなさそうだな」
「まだだ……!」
「そう、まだだな」
 仙槎が崩壊し始めている。しかしまだ戦わなくてはならない。
「その顔を晒したまま、ここにいてもらっちゃ困る」
「やっと、解放されたと、思ったのに」
「そうだ、あんたを解放してやる! 俺たちが引き継いでやるから感謝しろ!」
 玉髄も見栄を切った。もはや、さえぎるものは何もない。
「来い、我が龍よ!」
 二人の騎龍が、龍を呼ぶ。黄金と翡翠の光が交差する。
「シィイイィィ――……」
 噛み締めた歯のあいだから息を吐き出す。鋭く尖った犬歯がのぞく。
 たがいの両腕が、それぞれの龍と同じ色に覆われる。鋭い爪をもつ霊気の籠手が現出した。遷の右腕も、ふたたび動き出す。どうやら霊気で動かしているようだ。
(戦いたい)
 心を突き動かす感情が、ひどく単純なものになる。
(戦いたい戦いたい戦いたい!)
 次の瞬間、仙槎が爆発した。砕けた白玉の瓦礫が飛び散り、結界の外にいた騎龍たちを襲う。琥符から解放された鳴蛇も彼らに襲いかかる。
 玉髄も遷も無事だった。二匹の龍がそれぞれの主を乗せて、大空へと舞い上がる。霊気が彈となり、幾筋もの尾を引いて、相手に襲いかかる。ぶつかっては弾け、大気に波動が重なった。
「でぇい!」
 すれ違いざま、竜頭の上に火花が散った。玉髄と遷の拳がぶつかり合った。次の瞬間には、龍が反転し鱗と鱗を激しく擦り合わせながら、たがいの主を接近させる。人間が拳を交差させる。うねる蛇体の上を無尽に動き回りながら、戦士たちは火花を飛ばした。
 誰も邪魔できない一騎討ちだった。
(次で決める!)
 玉髄は拳を構えた。
「おおおおおおオオオっ!」
「イイイェエエエエエッ!」
 ぱし、と玉髄の頬から血がほとばしった。横一文字に傷が走る。遷の爪は玉髄の頬をかすめたものの、空に突き立っている。
 玉髄は低く身を沈め――その右腕で、遷の胸を貫いていた。手の中に、彼の玉龍を奪って。
「――はあっ」
 遷が大きく息を吸い、そして吐き出した。風のような音がした。
 ずる、と遷の体が玉髄から離れる。数歩あとずさって、遷はみずからの龍の上に倒れた。
「や、った……」
 玉髄は、数歩うしろに下った。頬を血が濡らしているが、そんなことは感じていない。
 不思議と勝利に酔うことはなかった。ただ、封じていた感情が溢れかけている。
 ――後悔。
 これでよかったのか。そう思う心が、玉髄に染み出してくる。
「これで終わる……」
 遷は穏やかな声でつぶやいた。
「何という顔をする。もっと誇らしい顔をしろ」
 玉髄の顔には、まるで敗れた者のような暗い影が落ちていた。
「某は遷。玉仙ではない……」
「わかっている。父さんは十年前に死んだ。俺は、俺が倒したのは、遷だ」
 感情を封じる。玉髄はうつむいた。黒褐色の前髪が、顔にかかる。
「……父さん」
 顔を伏せたまま、玉髄はつぶやいた。
「夜光殿から聞いた。父さんの遺言」
「…………」
「……『我が子の重みを知っているから、戦えた』と」
 ずっと疑問だった。父は本当に自分を愛してくれていたのかと。
 夜光は死の間際、玉髄に告げた。玉仙は赤子だった玉髄を抱いて、それから騎龍になった。だから妖魅退治に命を賭けられた。守りたい者がいるから、と。
「俺はちゃんと、愛されてた。それを知ったから、あんたを倒せたのかもしれない」
 もうあれは、父ではないのだ――そう、悲しく思えたから剣を向けられた。
「十年間の迷いが、晴れたから」
「十年……」
 遷の顔に、初めて苦悶の色が浮かぶ。
「たった十年か……我らが守った時間は……」
「心配、するな。今度は俺たちが守る。もっともっと、長い時間を守ってみせる」
「ふ、ふふ……」
 遷が腕を伸ばす。玉髄は応えず、ただ立ったまま見下ろしただけだった。
 黄金に覆われた腕が落ちる。遷の瞳が閉じられた。
 金龍が吟じた。主を失い、暴走して応龍から離れる。遷の体が空中に投げ出され、まもなく金龍も玉龍に戻ってともに落下する。
 深い青色をたたえた湖が、その二つを受け入れた。小さな水柱が上がる。落ちた者が浮かび上がる。異形の人間が、安らかな顔で眠っていた。
「さらばだ、遷」
 決別の言葉。応龍の上に立った玉髄は、もう決して彼を父とは呼ばない。
 父の名誉のために。英雄という幻影を消さないために。いま死んだのは、ただの創られた人形――遷でなければならない。
 玉髄は冷めた心で遷の亡骸を見つめていた。悲しみを感じること、それを頭が拒否していた。
(いずれ亡骸も沈む……)
 ざあ、と風が吹いた。湖の表面を撫でる。
 とうに三百の時間は過ぎている。けれども応龍は散じず、空に浮いている。
 琥符が割れたときわかった。もう騎龍としての自分を縛るものはないと。
「ズ――ちゃ――んっ!」
 声が降ってきた。
「一角、青玉!」
 青いたてがみと青い瞳をした、純白の龍が隣に浮かぶ。
「青玉、無事だったか! よかった……」
「ありがとう、玉髄。心配してくれて」
「一角も」
「うん! ほら、琥符もここに!」
 一角が阿藍から奪った琥符を示した。
「これ、使えるんだろうな?」
「うん、大丈夫」
「ほかの琥符は、阿藍の死によって無力化したみたいですが……」
「これが力を持つのは、琥師がこれを妖魅に使ってから。これまだ使ってないもん」
「よし、一角。お前だけが頼りだ」
 三人がうなずき合ったとき、地鳴りが響いた。湖の表面に、巨大な波紋が浮かび上がる。
「何だ!?」
 湖面を、四つの山が割った――ように見えた。水が渦巻き、山の中心に吸い込まれていく。
 遷の亡骸もまた、その渦の中に消える。なまぐさい魚の臭いが、漂う。
「ゴホ……ッ、何、あれ!?」
「あれは……あれが!」
 呆然とする玉髄らに向かって、山が延びてくる。激突され――三人も龍たちもそれに巻き込まれた。



「ズゥちゃん! ズゥちゃんってば!」
「……一角、ズゥちゃん言うな!」
「よかった、いつもの玉髄ギョクズイだ!」
 しばらく気を失っていたようだ。玉髄は一角の声で目覚めた。
 とたんに、なまぐさいい空気にむせた。おまけに全身がぬるぬるしている。龍も消え去っている。
「うわっ気持ち悪っ! 何だこりゃ!?」
「妖魅の体液です。毒はありません」
 青玉だった。青い髪を、強い風になびかせている。
「青玉……大丈夫、だったか?」
「はい。ありがとう」
 玉髄はそう言うのがやっとだった。もっといろんなことを、と思ったが言葉が出なかった。
「ここは……」
 三人は小山のような、茶色くぬるぬるとした地面の上にいた。周囲には岩山や枯れ木に見えるものがあちこちに突き立ち、陰気な沼地にいるようだ。
「これはコン、まさしく神代かみよの妖魅です」
「!?」
 玉髄はあたりを見回す。湖の中心に小山ができて、その上にいるようにしか見えない。
「水の中から頭を出して、それから動きがありませ……」
 ありません、と青玉が言いかけたとき、地面――否、鯤が動いた。
「うおっとっと!」
「きゃあっ!」
 何せ足元はぬめぬめとした体液に覆われていて、すこし傾斜が増しただけで滑る。玉髄が踏ん張ると、そこに一角と青玉が反射的にしがみついた。
「だ、大丈夫か?」
 玉髄は改めて思う。この二人を守らなければ。
 青玉があたりを見回す。地面の揺れはおさまっていた。
「どうやら、復活直後でかなり鈍化しているようですね」
「そうだな、こいつが……国を崩す妖魅、なのか?」
「絶好の機会です。一角、早く封印してしまいましょう」
「うん! やるよ!」
 一角は手に持っていた琥符をパン、と鯤の皮に押しつけた。
「……あれ?」
 ぬるぬるぬる、と鯤の体液が噴き出してくる。琥符は皮にめり込むことなく、その体液に押し戻されて虚しく滑る。
「あれ? ま、待って、ちょっと待って!」
 危うく琥符が滑って流されるところだった。あわてて拾い上げる。
「おい! まさか、琥符が使えないんじゃ……」
「ち、違うよ!」
「体液に阻まれて、琥符が皮まで届かないようですね」
「どうする?」
「邪魔ならば排除すればいいのです。龍の力ならば、できる」
 たがいに視線を合わせ、うなずきあう。言葉はなくとも、心が通っている。
「来い、我が龍よ!」
 玉髄がおのれの龍――漆黒の応龍を呼び出す。二人の少女を乗せ、ともに鯤から離脱する。
 応龍は高度を上げた。
「でっかー……」
 小山にしか見えなかった鯤の姿がようやく見える。
 蟠湖は峰国に数多く存在する湖の中でも、大きい方だ。その湖の半分を埋めて、巨大な頭部が水面から持ち上がっている。体中に、古木や岩が張りついている。十年湖底に沈められ、蓄積され続けてきたものだろう。
『玉髄、無事だったか!』
 玉髄の頭の中に、思念が響く。剛鋭の声だ。
「将軍、琥符の奪取に成功しました。しかし、体液にはばまれて撃てません」
 玉髄は口で発声しながら、それを思念として送る。一角や青玉にも状況を伝えるためだ。
「彈で頭部を集中して攻撃してください。体液をそれで蒸発させ、琥符を皮に撃ち込みます」
『わかった。全部隊に通達!』
 剛鋭の思念が、空に浮く騎龍たちに伝えられる。
「一角、攻撃が始まる。収まったらすぐに鯤を封印するぞ」
「うん!」
「青玉は、彼女を助けてやってくれ」
「はい、必ず」
 晩春の朝日がどんどん高くなっていく。空気が張り詰める。
『撃て――!』
 龍から一斉に彈が放たれた。赤、黄、青、緑、紫――おおよそこの世を覆う鮮やかな色彩が、雨霰と降り注いだ。
 彈は次々と鯤の表皮に着彈する。そのたび、水が蒸発して白い煙が上がり、皮はボロボロになってささくれ立つ。岩や枯れ木も弾き飛ばされる。
「よぉし、行くぞ!」
 カッと鯤の口が四つに割れた。――その瞬間、山がひとつ消し飛んでいた。
 玉髄らがそれを認識したときには、暴風と土煙が大気をかき混ぜ、応龍はまるで木の葉のように流される。ほかの龍も同様だ。
「きゃあああっ!」
「うおおッ!?」
 玉髄はとっさに身を伏せ、一角の手をつかんだ。にもかかわらず、彼女の体が大きく舞い上がる。琥符がその手から離れる。
「しまった!」
「来い! 我が龍よ!」
 青玉が応龍から飛び降りた。衝撃波の中に、青玉の白い龍が現出する。龍が青玉を受け止める。青玉は、琥符をしっかりと捕まえていた。
「あ……あぶな……!」
 ど、と玉髄は冷や汗をかく。琥符を撃つどころではない。
 崩国の妖魅――その力を目の当たりにした。あたりは一転、巻き上げられた土と水、そして風が渦巻く戦場となる。
 鯤が口を閉じた。頭部からは白い煙が上がっている。そこから割れ目が入った。茶色い皮が裂ける。全身にその裂け目が広がっていく。
「何だ!?」
 風に引きずられるように、ずるずると鯤の皮が剥がれ落ちていく。中から黄金の光がほとばしり、新たな鯤の体が生まれる。口はくちばしに、ヒレは翼に、尾は尾翼に。
「し、しまった! 鯤が目覚めます!」
 青玉が珍しく狼狽した。
「鯤は目覚めて、生きながらにそのせいホウに変える……!」
 まさにその通りのことが起こった。巨大な魚は、巨大な鳥へとその生を変えた。
 鵬の全身は、瑠璃色だった。そしてその体の頭から背、尾にかけてを、白い一筋の縞が貫いている。円錐型のくちばしは、鈍い銀色に光っている。炯々けいけいと光る眼は、それだけで雷さえも呼び起こしそうだ。
 翼は孔雀の尾羽を広げたような形で、六枚ある。うち前方の二枚はひときわ大きい。
 最も大きい翼は、真横に広がったまま動いていない。だが、そのうしろについている四枚の翼が、細布のはためくようにゆっくりと動いている。ぬらりと光っている。
 それを見た龍たちが吟じた。強大な敵を見つけた、生命のうなりだ。倒すべき敵だと、龍たちは鳴いた。
 鵬もまた咆哮した。水面に巨大な波紋を呼び、大地を震わせる。
「うわっ!」
 玉髄と一角は思わず耳を手で塞いだ。その咆哮だけで、暴風が起こった。しかもその風は、肺腑が腐りそうなほどの臭気を帯びている。思わずせき込む。
 風の中を、龍の彈が斬り裂いた。
 鵬は、騎龍たちの攻撃などものともせず、今度は翼を広げ、ゆっくりと羽ばたかせる。
 暴風が起こった。騎龍らがその風に流される。攻撃の手がゆるむ。風に流された仲間に彈が当たるのを懸念して、撃てないのだ。
「どうする、このままじゃ封印どころか……止められないぞ!」
 ただでさえ強く吹いていた風が、大きく乱れている。その乱れた空気に、龍たちは胴を流され、尾を取られ、ひげとたてがみをかきまわされている。玉髄の龍も例外ではない。翼を風に取られ、何度も体勢を崩しかけている。
「玉髄! 力を合わせましょう。鵬を押さえるだけの力を出さなければ、琥符も撃てません」
「どうやって!?」
「すべての龍の力を合わせます」
 青玉は辟邪獣の面を取った。自分の顔につける。
「一角、玉髄にしっかりつかまって」
「う、うん」
 一角は玉髄の背につかまった。
『騎龍の皆さん、聞こえますか?』
 青玉の声が、はっきりと頭の中に響き渡った。
『我が名は青玉、身に一千の龍を飼う龍師です』
 青玉の思念は、まるで水晶のように澄んでいた。頭の中に、彼女の表情さえも浮かび上がりそうな明朗さをしている。
『いまより、鵬を押さえることのできる龍を現出させます。あなたがたのやることは一つ。白い大龍が現出したのち、そこに彈を撃ってください』
 自分たちを彈で撃て――青玉はそう言っていた。
 誰かが抗議の思念こえを上げるかと思ったが、不思議とそれはなかった。青玉の意思に迷いがないことを感じ取ったのだろう。
「玉髄、やりましょう」
「ああ、いつでもいいぜ」
「応龍!」
 漆黒の応龍と、純白の龍が垂直に伸び上がった。跨る青玉と玉髄は落ちないように太腿に力を入れる。一角も必死にしがみついている。
 黒と白の龍が、たがいの尾を絡み合わせる。青玉が腕を伸ばす。玉髄もそれに応じた。
 手をつかんだ瞬間、玉髄は自分の中に力が流れ込んでくるのを感じた。否、流れて、出て、また戻ってくる。手から入った流れが、玉龍を経て、足に下りて応龍に流れる。応龍から白龍に注ぎ込み、それが青玉に戻る。
 青玉の衣服が消滅する。白い体に長い髪、両足の金環と、左腕の腕輪だけの姿になる。足首の金環は浮きあがって回転し、鈴に似た音を立てる。
 青玉の体から光が放たれる。その体が、爪先から脚、腰、胸――と順々に、青く光る菱形に覆われていく。全身を鱗に包まれていくようにも見える。
 そしてその菱形は、一枚一枚異なる色に変化していく。白、灰、赤、黄、翠、青、紫――同じ系統の色でも、ひとつとて同じものはない。光が織り成す色のすべてを、ここに描いているようだ。雨上がりが起こす、虹のように。
 虹色の輝きに、その澄んだ美貌まで包まれて、無機質になった彼女は、唱える。
「来い、我が龍たちよ」
 言葉が散った瞬間、彼女の体からいっせいに鱗がはがれる。彼女らから一定の距離を取って、銀河のごとき輝きが大気に浮かぶ。
 青玉が面を外し、投げ上げる。その瞬間、絡み合った二匹の龍の周囲に、数百頭の龍が現出した。投げ上げた面を追うように、まるで組紐のようにたがいに絡み合っていく。どの龍からも光が放たれ、あたりを輝きで満たす。
 そして龍たちは応龍と白龍をも取り巻き、その光を増していく。光が増すたびに、バラバラだった龍の色が淡くなり、白に近づいていく。
 白い光が、二匹を包み込む。玉髄らもその中に内包される。
 青玉の手が、玉髄から離れる。その姿が光の中に消える。あらゆる色の光が同化し、白さはますます高まる。
 さらに、外から流れ込んでくる力がある。ほかの龍たちの力だ。
『行って』
 青玉の声がした。途端、玉髄は外に放り出される。
「――!」
 玉髄の目に入ったのは、巨大な白龍――鵬と同等の大きさを持つ龍だった。
(これが……龍師の……いや、青玉の力!)
 応龍はその白龍から急速に距離を取る。
 それと同時に白龍が動いた。鵬に巻きつく。白い光の体が、紺色の大鳥を締め上げた。
 鵬のくちばしが八つに割れた。まるで花が開くようだ。また山を吹き飛ばすか。
「――!」
 しかしその前に白龍が動いた。鵬の口を、巨大な口で噛みつき、押さえ込む。その口から放たれようとした力が行き場を失って暴発する。湖岸が大きくえぐれ、落雷よりも凄まじい轟音を上げて土と水を巻き上げる。
 そこまでだった。白龍は完全に鵬を押さえた。鵬の翼が止まり、風が弱まる。
 その機会を待っていたかのように、応龍――玉髄が動いた。鵬に迫る。
「一角! できるな!」
「やってみせる!」
「よぉし、撃て!」
 玉髄が腕を振り上げた。応龍の周囲に、翡翠色の彈が浮かび、鵬を撃った。頭部に着彈し、その体液が蒸発する。
「玉髄、これを!」
 一角は琥符を鵬に向かって投げつけた。玉髄がふたたび彈を撃たせ、援護する。
 翡翠色の彈が琥符を乗せて、鵬の頭に激突する。鵬が悲鳴のような声を上げた。しかし琥符は落ちずにそこにある。喰い込み始めている。
「よし!」
 一角は玉髄から離れ、応龍の上に立ち上がった。玉髄が支える。応龍は空中でとどまり、一角の安定が保たれるように体を水平に伸ばした。
「我が名は一角娘、師は九陽門主夜光!」
 両手を広げ、天地に宣言する。金茶色の髪が風とみずからの霊気で巻き上がる。
黄帝コウテイが琥の術を用いて、ここに妖魅を封ず!」
 銀色の額当てが輝く。
「亀足の山が崩れ、東海が埋もり果てるまで、この場所を出ること罷りならぬ!」
 見開いた瞳に、決意が浮かぶ。この国の守護者となる覚悟――かつて彼女の師がそうであったように。一角は、その呪文を叫ぶように唱えた。
「封琥!」
 鵬の叫びが上がった。
 琥符を基点として、黄金の光が幾筋も鵬の全身に回る。翼を束縛し、口を塞ぎ、浮力を封じて湖底に引きずりこむ。水が大波となり、崩れた湖岸の土砂が流れ込む。
「白龍が!」
 鵬が沈んでいくのに引きずられるように、白龍もまた湖に沈んでいく。しかし鵬と違い、その体が徐々に霧散していく。純白だった蛇体が、虹色を帯びる。それぞれの龍が、それぞれの色を取り戻し、解けて消えていく。
「……青玉!」
 玉髄はその名を呼んだ。龍はすべて消え去り、彼女の姿はどこにもなかった。



「青玉、青玉――!」
 玉髄ギョクズイは湖面に向かって叫んだ。鵬の沈んだ湖は、波がいまだに収まらず、土砂で濁りきってしまっている。青玉の姿は見えない。
 風は収まりつつあるが、空中にはまだ鵬が巻き上げた土くれが飛んでいる。
「ちょ、玉髄、危ない!」
 比較的大ぶりの石が、玉髄の後頭部を直撃した。目から火花が飛ぶ。意識も一瞬飛んだ。その集中力の乱れが、応龍に伝わった。
「き、消えちゃう!?」
「わっちょっ待て! いまのなし!」
 そんな言葉も虚しく、応龍は霧散した。二人は空中に投げ出される。玉髄はとっさに一角を引き寄せた。
「きゃあああああっ!」
 どぱ、と水柱が上がった。玉髄は即座に水面に浮かび上がる。一角もまた、玉髄につかまって水面に顔を出す。
「おい、一角、無事……」
「ひゃっ玉髄、たすけっごほっ」
「おい、そんな強くつかまるな! 泳げないだろ!」
「あ、あたし泳げないのぉ!」
 一角が玉髄にしがみついた。意外なまでに強い力だ。溺れる人間にしがみつかれると、泳ぎの達人でも溺れるという。おまけに上空からではわからなかったが、波が思いのほか強い。
「おい、玉髄! つかまれ!」
 これぞ天の助け、剛鋭が水面すれすれまで龍を下してくれた。
「さ、さきに一角をお願いします!」
 玉髄は一角を託す。自身は上がらない。水の中で四苦八苦しながら革鎧を外す。
「青玉を探してきます!」
「おい、馬鹿! やめろ!」
 剛鋭の制止も聞かず、玉髄は大きく息を吸い、水に潜った。
 水はほぼ泥水と化していた。視界などないに等しい。それでも深く深く潜る。水がズンと冷たくなる。圧迫感も大きい。心のせいでも、まやかしもでない。水の中は自然とこうなのだ。
(冷たい、暗い)
 玉髄の背に、水のせいではない悪寒が走る。
 玉髄は目を閉じた。
(青玉、いるならどうか答えて!)
 目を見開く。望気の瞳――自分自身の力。その力は、濁った水の中でも発動した。
 瞳に、青い霊気が映る。水の中を、小さな青い塊が沈んでいくのが見える。
(青玉!)
 玉髄は必死で水をかく。息がつまる。それでも手を伸ばし、つかんだ。
 細く柔らかな感触。人の腕だ。顔を引き寄せる。視界が歪んでよく見えないが、指で探ると目と口をぎゅっと閉じている。
(帰ろう、青玉。帰ろう!)
 片腕でその体を抱え、玉髄は水面へと上がっていった。
「ぶわぁ!」
 玉髄は思い切り息を吐き、そして吸った。肺に新鮮な空気が入り込む。
 青玉もゴホゴホとせき込んでいる。
「玉髄……?」
「よかった……青玉……」
 人目もはばからず、玉髄は青玉の体を抱き締める。水で濡れた体が重い。泥水で濡れた顔は、きっとひどい有様だろう。
「玉髄、大丈夫!?」
 剛鋭の龍が、二人を回収する。赤い龍の上で、青玉も玉髄もぐったりしていた。
「青玉ちゃん、平気?」
「はい。一角も、無事でしたか」
「うん!」
 大気がさざめく。龍と騎龍たちの、勝鬨の声だ。
「よくやった、玉髄。親子二代で、妖魅を封じたな」
「俺の功績じゃありません」
「そうだな……琥師一角娘イッカクジョウ
 剛鋭がその名を呼んだ。そして拱手する。
 一角が目を丸くした。玉髄もだ。あんなに嫌っていた琥師に、騎龍が敬意を払っている。
「峰国の新たな英雄、ともに戦えたこと、誇りに思う」
「……ありがとう、騎龍の皆さん。あたし、絶対に忘れません」
 一角も拱手する。それを見て、一角と玉髄が微笑んだ。
 空が明るくなり始める。風がなくなる。
「あれ……何?」
 一角が、空の彼方を指差した。全員がその方向を見上げる。
 土埃が晴れ始め、陽の光がその筋を大気に描いている。まるで天から光の道が降りてきたかのような光景だ。
 その光の道の中を、泳ぐものがいる。
 それが金色の龍であることに、誰もがすぐに気がついた。
「父さん……?」
「お師匠様!」
 金龍が悠然と天に昇っていく。その背に、二人の男が乗っている。
 やがてすべては、太陽の中へ溶けていった。
「……終わったな」
 誰からともなく、そう口にする。
「帰ろっか、王都へ」
「ああ、帰ろう。俺たちの場所へ」
 俺たちの出会った場所へ。俺たちが重なり合って生きていく場所へ、帰ろう。

 宮廷琥師一角娘、紅龍隊辟邪ヘキジャ虹玉髄、龍師青玉とともに、「崩国の妖魅」ホウを封印。
 第百七代ホウ国王峯晃耀ホウコウヨウ、瑞雲二年三月末のことだった。


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