龍×琥オーヴァードライブ
第四章「白石蒼苔」


 一晩中馬に揺られていたが、不思議と疲れはなかった。この馬の姿をした妖魅は、乗る者への負担も少ないらしい。
 朝日が、右頬を温め始める。街道を走り、林を抜け、田畑の続く道をひたすらに走る。
「待て。一角、止めてくれ」
 田園の中に、小さな集落が見えてきた。と、夜光が一角に馬を止めさせる。
「お師匠様、どうかしましたか?」
「あの村……何か、悪い予感がする」
「俺が見てきましょう」
 玉髄ギョクズイは馬から下りた。
 ありふれた農村だった。この時期は、日の出とともに農作業が始まるはずだ。
 しかし、村の雰囲気はそんなのどかなものではなかった。村のはずれで人々が騒いでいるようだ。
 玉髄は、ふと家の軒先に座る幼子に目を止めた。寂しそうな顔で、膝を抱えている。
「何かあったのか?」
 幼い少女は、一瞬おびえたようにみじろぐ。 
「旅の者だ。警戒しなくていい」
 玉髄はできるかぎり優しく微笑む。その品のある顔に安心したのか、少女は村の外れを指さした。
「あすこに、この村のお墓があるの」
 どうやらそちらで村人たちが騒いでいるらしい。けれども葬式などではなさそうだ。
「墓荒らしでも出たのか」
「うん……お供えだけじゃなくってね、ムクロまで取られたんだって」
 供物や副葬品目当ての盗賊は、そう珍しい話ではない。しかしむくろ、すなわち死体まで持ち去られたとなると、まるで屍を喰う妖魅の仕業だ。
「おかーさんのムクロも取られたって……」
 玉髄は眉を寄せた。
「何してるんだい、家にお入り」
 その時、老婆がやってきて少女を屋内にやる。老婆は怪訝そうな目で玉髄を見たが、彼の整った顔立ちに警戒心はすぐに解けたようだ。
「あんた、旅人かい?」
「ああ。墓荒らしが出たそうだな。誰の墓だ?」
ハクさんとこの嫁さんだよ。病気でコロッと逝っちまってね。でも埋めて三日も経たずに……もう可愛そうで可愛そうで」
「領主には訴えたのか?」
「訴えたところでどうにもなんないよ……人死にが出てるわけじゃないし」
「だが、墓荒らしは立派な泥棒だ。領主には捕まえる義務があるだろう」
「あんた! 大きな声じゃ言えないけどねぇ」
 老婆はわざとらしく声をひそめ、顔を近づける。
「ここ最近、墓が荒らされるのはよくあることなんだよ。骸まで取ってっちまう。でも領主に訴えたってダメさ。何せ、犯人と領主様が繋がってるらしいんだよぉ」
「何だと!?」
「しー! 声が大きいよ!」
「もっと、話してくれないか」
 玉髄の真剣さに気圧されつつも、老婆は口軽く話してくれた。
「いや、噂なんだけどさぁ……士山シザンの西側に変な方士どもが居ついて、領主様に取り入って、死体あさりを黙認させてるらしーのさぁ」
「その噂、どこで聞いた?」
「さぁ誰だったかねぇ。でも、このあたりじゃ皆噂してるさ。士山に近づく奴ぁ、いやしなくなったらしいし。やっぱ英雄の血統ったってさ、子孫になると腐っちまうもんなのかねぇ」
 玉髄は、全身がざわつくのを感じた。一瞬――この血を流しているおのれの体が、忌まわしいものであるかのように錯覚していた。
 青河セイガは、このことを知っているのか。
(いや、さすがの祖母様もそこまで外れてはいないはずだ)
 こんなことが領内で行われ、悪い噂が出ていると知れば、烈火のごとく怒るだろう。
(だが、祖母様は……)
 彼女はよくも悪くも無頓着な性格なのだ。いくら女傑と呼ばれようと、苛烈な武人というだけ。決して統治者として優秀なわけではない。彼女が気にしているのは、戦争の有無と荘園の収穫量くらいだ。領地内で広がる噂は、取り巻きが伝えるものくらいしか聞かないだろう。
(取り巻き連中は、悪い噂は告げねーだろうしな)
 そして、彼女が知らないことは――王都にいる玉髄も知らなかった。そう思うと、腹の底から怒りがわきあがる。
「話してくれたこと、感謝する」
 玉髄は腰の剣を取った。青河の取り巻きから奪ったものだ。柄の端は環状になっており、そこに金色のよう――揺れるように作った装飾具がついている。
 玉髄は無造作に、その揺を取った。黄金でできたそれを、老婆に渡す。
「少ないが、これで死者たちを慰めてやってくれ」
「ひ、ひえっ!」
 突然金を渡されて、老婆は枯れ木のような手を震わせた。

「そうか……墓荒らしが」
 ふたたび、三人は馬を走らせていた。その道中、玉髄は見たことをそのまま夜光に告げた。
 玉髄は恥じていた。自分の領地で起こっていることを、まったく知らなかった。
(俺は……俺はコウ家当主になる意味を知らなかった)
 騎龍になりたくてなれなかった虚しさを埋めるだけの毎日を過ごしていた。それだけで当主の重責を担ったつもりになって、愚痴を零していた。
 現実は、もっと重いものだったのに。
阿藍アランの、仕業でしょうか」
「そうかもしれない。あやつの術を見ていると、な」
 夜光の答えに、玉髄の表情が沈む。
「我々を襲った人妖……玉髄君は、気付いているか?」
「ええ。奴らには、生気がありません」
「生気がない? 玉髄、どゆこと?」
「気をてわかったんだけど、あれは生者じゃない。信じられないけど、動く死者なんだ」
「おそらく、死体を加工して術をかけ、動くようにした人形だ」
 馬蹄の音が、ひときわ高く響いた。
「人形……そう言えば、阿藍もアレを『人形。辟邪の力は効かない』と言っていました」
「もとは人だからな。妖魅退治の血は作用しないのだろう」
 無言が三人を支配する。
「玉髄君。士山は本来、虹家の墓だそうだな」
「……はい」
 夜光の言わんとするところを、玉髄は察していた。
 阿藍は、この近隣の墓を荒らしている。ならば、根城とする士山にある墓に手を出していないことがあるだろうか。いや、出しているだろう。
「確かめるか?」
「……はい!」
 玉髄はしっかりとうなずいた。
(何が起こっているのか、俺の目で確かめる!)
 峻嶮しゅんけんな山の頂が、視界に入り始めた。

 士山の南側に到着した。三人は馬から下りる。一角が術を解くと、駿馬は琥符に戻った。
 そのまま玉髄らは、徒歩で士山に入った。
「虹家の墓があるのは、こっちです」
 玉髄の案内で、山を登る。しばらくして塀のようなものが見えてきた。虹家の墓を守る塀だ。
 三人は慎重に、内外の気配を探った。人はいないようだ。
「よし」
 塀を超えるのには苦労しなかった。そのまま墓の入口に向かう。
 入口と言っても、普段は土で埋めてある。死者の棺を納めるときのみ、掘り返して入口を作るのだ。
 しかし――いまそこは、ぽっかり口を開けていた。
「……やられて、いるな」
「中を、確かめます」
「ああ。一角、中を照らせるか?」
「はい」
 一角がまた別の琥符から、小さな炎を呼び出した。松明も何もないのに、空中で揺れる不思議な火だ。
 墓の中は、冷たく重い空気が淀んでいた。天井が低い横道が続く。そこを抜けると、かなりの広さがある室に出た。棺が多数納められている。
 どれもぴったりと蓋が閉じられている。土埃が積もり、開けられた形跡もない。
 そう、それでいいはずだった。
「蓋が開いてる!」
 玉髄が声を上げた。いちばん端に置かれた、まだそう古くない棺。その蓋だけが、横にずれている。
「……失礼、いたします」
 玉髄は棺に向かって拱手し、棺の蓋を完全に開いた。
「……な、い……」
 呆然としたつぶやきが、土壁に吸い込まれる。
 玉髄の中で張り詰めていたものが、切れた。へたり、と床に座り込む。
「ない……父さんが、いない……!」
 棺の縁に手をかけ、うなだれる。表情は誰にも見えないが、声が絶望に沈んでいた。
「何で、何でだ。形見の刀も、玉龍もない……!」
 中身がなくなっている棺――それは、玉髄の父、虹玉仙コウギョクセンのものだった。中には亡骸はおろか、ともに埋葬した品までなくなっているようだった。曲刀、玉龍――どちらも、優秀な騎龍であった玉仙が、その命を預けたものだ。
「玉髄……」
「玉髄君、気を確かに持つんだ」
「くそお!」
 二人の琥師の言葉も聞こえぬように、玉髄は床を殴りつけた。
「阿藍、絶対に許さねえ! 一族を侮辱した罪、絶対に償わせてやる!」
 怒りの声が、まるで死者を起こさんがばかりに、墓の中にこだました。



 玉髄ギョクズイたちは山の中を辿り、士山シザンの西側に至っていた。
 西側には、やや開けた場所がある。人の気配がした。木々に紛れ、様子をうかがう。
「な……」
 玉髄は絶句した。
 開けた場所には、質素な家屋がいくつも見える。そこにいるのは、どれも方士のようだった。皆でわいわい酒盛りなどに興じている。あちらでは木簡を広げ、あちらでは碁に興じている。まるで宿場町のようでもあった。
「あそこが、阿藍アランの巣でしょうか?」
「いや、修行する方士たちが集まって、自然とできた集落に見える」
 阿藍は数多くの妖魅を従えている。それを隠すだけの余裕は見当たらない。
「阿藍の術は、一角と似た召喚術だ。どこかで妖魅や人妖を創り、琥符に封じているのだろう」
 その妖魅らの気配がない。夜光はそうも言った。
「俺が確かめましょうか?」
「できるか? 無理はするな」
「ええ」
 玉髄は斜面を下り、藪の中から集落の端に飛び出した。――まるで、山中を歩いていた旅人が、足を踏み外して滑り落ちたと言わんばかりに。髪を留めていた簪を取り、わざとらしく被髪ぼさぼさになる。
「いてて……」
 わざとらしく尻餅をつき、体についた草を払う。
「まあ、どうかされましたか?」
 一番近くにいた女が、玉髄のもとに近寄る。どうやら、玉髄の正体はバレていない。
「山道に迷ってしまって……ここが見えたと気が緩んだら、足を踏み外してしまいました」
「まあ、それは……。お怪我はありませんか?」
「ええ、大丈夫そうです」
 玉髄は苦笑して見せた。彼自身、嫌というほど自覚している女の心をざわつかせる笑みだ。
 その女もまた、クスクスと笑う。嫌みのない笑顔だった。どうやら、玉髄の正体には気付いていない。阿藍の仲間ではないのだろう。
「ここは、いったいどういう場所ですか? 普通の村とも思えませんが……」
「我らは方士の集まりです。修行のために、共同生活を営んでいます」
「へえ……」
「こちらにいらっしゃって」
 女は玉髄を伴い、集落の奥へと案内する。
 奥へ行くほど、真面目そうな方士たちが目に入る。誰も彼も目を閉じ、瞑想している。
 集落の奥は、行き止まりだった。白い岩の絶壁が、高く高くそびえている。かなりの高さまでその壁は続き、上はもやがかかってよく見えない。
「ここで修行していると、時折、紫雲とともににじの橋が下りてきます」
「虹の橋?」
「はい。選ばれた方士だけが、その橋に乗って、この崖の上まで行くことができます。そうして天に昇り、仙人になれると言われています」
 昇天によって、人から仙に変わる。方士が夢見る到達点だ。そのための場所がここにあるというのだろうか。
「崖の上には、何がある?」
「さあ……私も、いまだ行ったことはありません。昇天された方だけが、見ることができます」
「昇天した者は、ここに帰ってきたか?」
「ほほ、天に昇られたのだから、地上には戻ってこられませんよ」
 女が笑った。
「さあ、戻りましょう。今日はここでお休みになっていけば、よろしゅうございますわ」
 また、集落の方へ戻る。誰も玉髄らを不審に思っていないようだ。どこからも殺気を感じないし、不穏な空気も感じない。
(ハズレ、か?)
「こちらへ」
 女は、軒下に置かれた卓に、玉髄を誘った。
「おお、どちらの方士殿かな?」
 白髪白鬚、典型的な隠者の姿をした老人が座っている。
「ええと、俺は……」
「道に迷われた方のようですわ」
「そうか、それは難儀なことじゃったな」
 玉髄は、髪をまとめ直す。
「よい簪をしておられますな」
「そうですか?」
「上等な翡翠の簪ですわね。翡翠は辟邪の玉です。大切になさって」
 女が薬湯らしき湯気の立つ杯を差し出した。
 その時、女の顔が一瞬だけ伏せられる。それを見て――玉髄はハッと気がついた。
(この女……どこかで会ったか?)
 既視感がある。
(阿藍? いや、違う)
 ここへ来るまでに寄った村。そこで見た少女に、よく似ている。
(……どういうことだ?)
 玉髄は望気の力を使うことにした。グッと目を閉じる。全神経を目に集中させる。ゆっくり開いて、その気を見極める。色や濁りを見れば、その者がどのような性質をしているかおおまかにわかる――筈だった。
「ん……?」
 玉髄は動揺した。
(どうして視えない?)
 玉髄は周囲の気を視ようとした。けれどもできない。彼らを包むであろう気が、視えない。
(俺が気を視ることができないのは……)
 玉髄が視る「気」というのは、生物の生気だ。当然ながら、生きていない者の気は見えない。
(俺は、俺は――)
 玉髄は固まっていた。
「どうされました?」
 女が顔を上げる。
 あたりがシンと静まり返っている。先ほどまで、あんなににぎやかだったのに。その場の全員が、玉髄を見ている。氷のように冷たく、光のない目を見開いて。
 ぞく――と玉髄の背中を、氷の滝が滑り落ちる。悪寒だけではない。嫌悪と困惑を含む焦燥感。冷や汗がにじむ。
「これをお飲みになったら、阿藍尊師にお会いなさいませ」
 女の目の奥にあるのは腐った眼底。
「ようこそ――虹玉髄コウギョクズイ殿」
 玉髄は剣を抜いた。ためらいなく女の首を狙う。細い首が飛ぶ。しかし血が出ない。
(やはり人妖か!)
 方士たちが襲いかかってきた。ある者は素手で、ある者は杖で。
「ハッ!」
 突っ込んできた相手を横に躱して、うしろ回し蹴り。右の踵が男の顔面に入る。鼻が潰れて歯が飛び散る。間髪入れず体の回転を利用して、左の拳を別の者に入れる。下ろした足を踏ん張り、先とは逆の方向に回る。右手の剣が攻撃を弾き返す。
「うおおおおッ!」
 玉髄の口に鋭い牙がのぞく。殴り飛ばし、蹴り落とし、そこらの椅子やらはたやら振り回す。
(いける!)
 玉髄の心のどこかが、冷静につぶやいた。
 腕力も脚力も視力も格段に上がっている。一対多数で戦っているいま、それが如実にわかる。
 何より確信が違う。絶対に躱す。絶対に当たる。絶対に次はこう来る。絶対にこうやってやる。絶対に勝つ。――闘争本能が、彼の体の芯を突き動かす。
「うおおおおおおッ!」
 最後の者を殴り飛ばす。息が上がっていた。
「玉髄君!」
「玉髄!」
「夜光殿、一角! こいつら、人じゃなかった」
「ああ……」
 駆けつけた夜光が、倒れ伏した方士のそばにしゃがむ。
「玉髄君、剣を貸してくれ」
「はい」
 夜光は方士に向かって拱手すると、その腕に剣を突き立てた。皮膚を切り開き、その肉を調べる。
「土を膠で固めた肉か……」
 ボロボロと、黒茶色のカスのようなものが、切り口からこぼれる。
「琥符も、あります」
 一角が方士の胸元を示した。黄金色の琥符が、皮膚にめり込んでいる。
 集落で楽しげに会話していた方士たち。彼らはすべて、人の手で生み出された偽物だった。楽しげに会話していたのも、遊んでいたのも、修行していたのも、すべて作り事だった。
 吐き気を催しそうな邪悪が、ここにある。
「……玉髄君」
 夜光が剣をぬぐい、玉髄に返す。
「これから、さらにおぞましいものを見るかもしれない。ここで、朱将軍やほかの騎龍らを待った方がいい」
「夜光殿」
 玉髄は剣を鞘に納める。動かなくなった方士を見下ろして、眉を寄せた。
「阿藍は、不老不死を目指していたと言っていましたね」
「ああ」
「これが、阿藍の到達した不老不死なのではないでしょうか?」
 あまりにおぞましい方法だ。死体をあさり、土を詰め、琥符を打って偽物の命とする。
「満足して死んでいった者、悔いを残して死んだ者、いろいろいると思います。でも、こんな茶番に付き合わされる筋合いは、どこにもない」
 怒りと悲しみが、心臓に流れ込んで留まり、沈んでいくようだ。
「阿藍を捕まえて、術を解かせます。青玉も、父さんも、取り戻す」
「……わかった。そなたがそこまで言うなら。私も、彼女を許せない」
「お師匠様……」
「一角も来るな?」
「もちろんです!」
 
 ワアッと人の声がした。三人は反射的に身構える。
「祖母様……?」
 虹青河コウセイガだった。取り巻きを何人も連れ、彼らを追いかけてきたのだろう。
 取り巻き連中をかき分けて、青河が前に出る。玉髄の姿を認めると同時に怒鳴った。
「玉髄、あれほど手を出すなと言ったじゃないか!」
「黙りなさい!」
 玉髄は、真っ向から怒鳴り返した。
「これでもまだここの連中がマトモだと言い張りますか!」
 玉髄は、足元に転がっていた首を取った。最初に首を刎ねた女のものだ。無造作に突き出す。
「な……ッ」
 青河たちが絶句した。
 女の首が笑っている。死に顔がそうなのではない。「くきゃくきゃ」と壊れた声を上げて笑っている。やがて女は白目を剥いて黙った。だらりと舌が垂れ下がる。
「何だい……これ……!?」
「これが、この山にいる方士の正体。領地内の墓場から盗んだ死体を、人形に造り直したもの。紛い物の生者だ!」
「そんな馬鹿な……!」
「もちろん、よその墓をあさる気力がある連中だ。最も近い場所の墓も……わかりますね?」
「――!」
 青河が目を見開く。
「ここは死者の巣です。生きてちゃおかしい連中が、狂った琥師の意で巣を作った!」
 倒れ伏す、方士たちの亡骸。どれもこれも、本当は方士などではない。琥符の力によってそれを演じさせられていた、哀れな死者たちだ。
「俺はこれからこの山の上に行きます。この上にいる琥師と戦います。大切な友人が、助けを待ってるんです!」
「だ、だけど、玉髄。お前は……」
「黙れ!」
 玉髄から敬語が消えた。キレている。漆黒の瞳は、憤怒が沸騰して狂気の湯気で曇っている。妖魅でさえ、これほど恐ろしい目はしないだろう。
「ここからは常人の出る場所じゃない。老将軍、常軍を率いて山を下りよ」
「あんた、誰に向かって……!」
「俺が上だ。俺が一族の当主で、一族に命令する者だ」
 一角たちも初めて見た。見た目はさりげなくしていても、本当は腹に据えかねている。
「だから命ずる。虹青河、領地の異常を速やかに把握し、それを鎮める手立てを考えろ。場合によっちゃ、王家に詫びを入れて王国軍でも寄越してもらえ」
 阿藍への怒りだけではない。不甲斐ない自分への怒り、自分を役立たずにしようとする身内への怒り、そんなものが入り混じっている。
「もし拒否すれば、俺は虹家当主としてあんたを斬らなきゃいけない。じゃなきゃ、王家より賜った土地をみすみす穢された罪を贖えない。祖霊にも申し訳が立たない。父さんの名誉も地に落ちる」
 父さん――虹玉仙を出した途端、青河の顔に動揺の色が浮かんだ。ようやく忸怩じくじたる思いを胸に宿したらしい。
「わかりましたね?」
 玉髄は迫った。青河は黙り込んでいる。言葉に詰まり、明らかに困惑している。それが明らかにわかるあたり――玉髄によく似ている。
 そのとき、あたりに黄金の光が満ちた。
「何だ?」
「紫雲が……?」
 光とともに、崖の上から雲が下りてくる。まるで霧のように草木を隠し、家屋の中まで満たす。倒れた方士たちの亡骸も、かすむ。
「――来る!」
「あっ、玉髄!」
 玉髄は怒りを放棄し、踵を返して走り出した。絶壁の前に急ぐ。虹の橋が迎えに来ると言う、聖なる壁の前に。
(紫色の雲、黄金の光――)
 紫雲で視界が霞む。玉髄はカッと目を見開いた。
 虹が落ちてくる。断崖絶壁の上から、まるで橋を架けるように。その先端が玉髄の真上に伸び、影を落とした。
(まやかしだ!)
 玉髄は飛んだ。三日月のように体を伸ばし、一回転する。虹の頭が地面に落ち、その上に玉髄は降り立った。重い音が響き、大地に虹が突き立つ。
「蛇か!」
 虹だと思われたのは、大蛇だった。長さも太さも、常識を遙かに超えている。
 玉髄はひるまず、その蛇の体を駆け上がる。湾曲した丸太状の蛇体は、最悪の足場と言わざるをえない。しかし騎龍の力が、体の均衡を保ってくれているのがわかった。
「玉髄!」
 うしろから、一角もまた駆け上がってくる。彼女は白毛の豹に似た獣に乗っていた。尾が三本、風に揺れる。鋭い爪が蛇の鱗に喰い込み、難なく昇る。
「あたしたちも行く!」
「一角、その獣は!?」
『私だ。このまま行くぞ!』
 豹の口から、夜光の声がした。妖魅を憑依させる術――彼独自の、琥符の使い方だ。
「はっ!」
 ついに崖の上に到達した。平らな地面が出迎える。蛇の体から飛び降り、玉髄は顔を上げた。夜光は術を解き、背に乗っていた一角を降ろす。
 三人の目に入ってきたのは、真っ白なとりでだった。
「玻璃の城……」
 玉髄はそうつぶやいた。
 しかしその前庭は地獄だった。いたる所に白骨が積み重なっている。
「……なるほど。普通の方士がここに迷い込んだとしても、ここで殺されて」
「人形にさせられるわけですね、お師匠様」
 玉髄は半ば呆れつつ、嫌悪感も覚えた。怒りも嫌悪感も限界に近い。すぐにでも殴り込みたい気分だ。
 大蛇の尾がピクピクと動いている。頭が下でめり込んだままなのだろうか。
「……下の祖母さまたちに、こいつの相手ができるのかね?」
 ただのでかい蛇なら、倒せないこともないだろう。だが、それ以外の力を持っているならば厄介だ。
「玉髄、あれ!」
 一角が、玻璃の城を指差した。
 玻璃の城の上を、大きな鳥が旋回する。遷が乗っていた一本足のフクロウだ。
「間違いない、か」
 フクロウは羽音を立てて、玻璃の城に降り立つ。人間じみた顔がこちらを見て、まるで嘲笑うかのように歪んだ。背には何も乗せていない。見張りといったところだろうか。
「お師匠様、どうします?」
「おそらく、ただでは通してもらえないだろうな」
 その時、玉髄の頭の中に素晴らしい考えが閃いた。否、素晴らしいかどうかはわからないが、すくなくとも彼の欝憤をいくばくか晴らす考えだった。
 玉髄は大蛇の尾をつかむと、足を踏ん張った。
「フン!」
 筋肉が一挙に盛り上がる。そのまま蛇の尾を引っ張る。
「玉髄、何をするつもり!?」
「二人とも、端に避けていて!」
 ガリガリガリガリと岩を削る音がして、大蛇が引きずり上げられた。腹を削られながらも、大蛇は口を開けて玉髄に襲いかかる。
「フッ!」
 蛇の牙が迫ると同時に、玉髄は大きく息を吸って、唾液を噴きかけた。自分の牙で口の中を傷つけ、そうして出した血が混じった唾液だ。血混じりの唾液は霧のように蛇の目を襲う。
「シャ――――ッ!?」
 バケモノを退ける辟邪の血。その血を浴びて、大蛇は悶絶した。
「うおおおおおおおおおッ!」
 その悶絶も押さえ込み、玉髄は全身に力を込めた。尾を持ち上げ、思い切りぶん回す。虹色の円が描かれる。存分に勢いをつけたのち、玉髄は大蛇を玻璃の塞に向かってブン投げた。蛇体は綺麗に弧を描く。
「喰らいやがれ――ッ!」
 フクロウは慌てて翼を開いたが、遅かった。大蛇が激突する。二匹の妖魅は、ともに塞から滑落し、動かなくなった。
 宣戦布告。
 そう呼ぶには十分すぎる。
「玉髄、やるぅ……」
「これでも足らねえ」
 玉髄は、玻璃の城にまっすぐ対した。
「王国軍紅龍隊辟邪ヘキジャにして虹家当主、虹玉髄! 悪しき琥師阿藍をここに討滅せん!」
 朗々と名乗りを上げる。
 夜光が苦笑した。一歩前に出て、フッと真顔に戻る。
「峰国宮廷琥師、九陽門クヨウモン主夜光! 阿藍よ、そなたに琥師たる資格はなし!」
 張り上げた声は、玻璃の城に反射する。
 一角も、キッと表情を引き締める。
「同じく九陽門下、一角娘イッカクジョウ! 琥符を私利私欲に使う琥師は許しません!」
 二人の琥師もまた、覚悟を決めたようだ。
「ここまで来たら、小細工も無駄だ」
 夜光がそう言った瞬間――玻璃の塞が、その扉を開いた。
「向こうも、わかっているようだ」
「行こう、玉髄!」
 三人は、しっかり大地を踏みしめ、そして白く輝く塞へと入っていった。



 玻璃のとりでの中は、すべて白く輝く壁に覆われていた。乳白色のとろりとした色の回廊が続く。窓はなく、分厚い玻璃の壁は外の景色を歪ませている。
「……ずいぶん静かだな」
 もうしばらく歩いているが、何者とも接触していない。
「何だか……」
「一角、どうした?」
「う、ううん。何でもない」
 一角が少しだけうつむく。怖いのだろうか。
「大丈夫、一角。俺も、夜光殿もいる」
「うん。そうだね」
 二人の様子を、夜光が見つめていた。
「すまぬ」
「え?」
「本当は、私が止めるべきだった。二十年前に、阿藍アランを」
 阿藍と行動をともにしていた、と言っていた。それがどの程度の関係だったのか、夜光は語らない。けれども後悔しているようだった。
「私はもう誰も失いたくはない。大切に思う者を、誰も」
「お師匠様……」
「そして私も死なない。この国のために」
 短い言葉の中に、夜光の決意があった。
 塞の中を半周して、ようやくさらに奥へと向かう扉を見つけた。
「水……?」
 床のほとんどが深く掘り下げられており、あたかも池のように水が満たされている。蓮が浮かび、薄紅色の花をつけている。
 足場は、部屋の奥に向かってまっすぐ伸びた橋だけだ。奥には、また扉がある。
「……大丈夫そうだな」
 玉髄は足で、橋をコツコツと叩く。
 足音が高く響く。玉同士が触れ合うような、玲瓏れいろうとした音だ。
 奥の扉を開くと、ふたたび池の上に橋がかかる部屋があった。今度は蓮ではなく、石像がいくつか水面の上に建っている。異形の獣が伏せた姿を模した、玉の像だ。
 部屋の最奥は、まるで王の玉座だった。金色の紗を装飾として垂らし、白玉の壁には虎を意匠化した文様が黄金の線で刻まれている。
「青玉!」
 その部屋に入った瞬間、玉髄が叫んだ。
 玉座のそばに建てられている、獣人の像。そこに青玉が縛りつけられていた。口には布を噛まされたままだ。
 玉髄はそのまま進もうとして足を止めた。玉座に、人影を認めたからだ。
「よく、来てくれたわね。歓迎歓迎」
「……阿藍!」
 宮廷琥師阿藍――忘れようにも忘れられない、艶めかしい美貌が薄く笑った。
「夜光も来てくれたの。嬉しいわ」
「阿藍、我々がこれまで見てきたもの、説明してもらおう!」
「見ての通り。わたしのお人形たち、気に入ってくれた?」
 玉髄はいまにも阿藍に飛びかかりそうだ。それを察して、一角が制す。
「何が目的だ? 何をしようとしている?」
 夜光もまた、その瞳に怒りを宿らせている。
「……崩国の妖魅」
 阿藍は頬杖をつき、こともなげにその言葉を口にする。
「あなたが封じたんでしょう? 妾は、それが欲しい」
「なぜだ!?」
「くく、くくく」
 阿藍は肩を震わせる。
「なぜ? なぜって聞くの?」
 笑った阿藍の顔には、まるで覇王のような自信が溢れている。心底、この状況を楽しんでいる。そう見えた。
「妾は不死に到達した。いずれすべての方士も貴族も、妾にひれ伏す」
 不死――琥符を使い、死体をあたかも生者のように動かすこと。そのために、どれだけの生者が苦しむか。しかし、そんなことは彼女には関係ないのだろう。
「それでね……あなたの封じた崩国の妖魅も、不死だったのでしょう?」
 阿藍は軽く身を反らし、玉座に座り直す。
「不死だったから、倒せなかった。友人の龍を使って押さえつけさせ、その血で作った最高の琥符でようやく封じることだけできた。そうでしょう?」
 阿藍の言葉に、夜光の髪が揺れた。見開いていた瞳に、怒りが宿る。
「妾の使う妖魅に、相応しいと思わない?」
「……狂ってやがる」
「狂ってなんかないわ。妾は真面まとも真面」
 そう、彼女の顔には自信はあっても狂気はない。心底、自分のやっていることを肯定している。だから状況を楽しみ、笑っていられる。
 まともなままの狂人。だから彼女は、十年も宮廷琥師として勤めていられたのだ。
「馬鹿なことを! 阿藍、貴様、自分が何をしようとしてるか、わかってるのか?」
「ええ、よぉくわかってるわよ」
 ニイ、と阿藍の目が細く歪む。
「あなたもわかってるんでしょう? 妾がそうするためには、あなたの命が必要だって」
「あいにくだが、私は殺されるつもりは微塵もない。そなたを捕え、おおやけに引きずり出して罪を償わせる!」
「……崩国の妖魅にかけた琥符の術、解いてくれると嬉しいんだけど」
「断る!」
「でしょうね」
 阿藍はスッと手を上げた。
 突如、池の水が割れて水柱が上がった。飛沫が琥師らの視界を遮る。
「――!」
 その中から、センが飛び出した。放たれた矢のごとく三人に迫り、夜光に蹴りを入れる。
「ぐあッ!」
 夜光は弾き飛ばされ、壁に激突する。気を失って倒れる。
「キャアッ!」
 遷は関髪入れず一角に向き直り、彼女を引っつかんで飛んだ。濡れた体から雫が飛び散る。
 入ってきたときには気付かなかったが、壁の高い場所に足場があった。遷はそこに降り立つ。一角を左の小脇に抱えている。
「離して! 離してよぉ!」
 一角はもがくが、遷の左腕はびくともしない。完全に抱えられて、足さえつかない状態だ。
「テメッ……一角を離せ!」
 玉髄はまったく何もできなかった。夜光を助け起こし、遷に向かって怒鳴る。
『断る』
 夜光は鎧で覆われた手先を、一角に向けた。指先は鋭い爪になっている。
 一角が身をすくめる。
「夜光、玉髄。武器を捨てなさい」
 阿藍は勝ち誇ったように要求する。
「その剣と、袖に隠した琥符を。ああ怖い怖い」
 玉髄は剣帯ごと外す。夜光は両手を差し出す。金色の琥符が数枚乗っている。
「池の中に捨てるのよ」
「く……」
「玉髄君、言う通りにしよう」
 夜光が両手を無造作に振った。ポチャポチャポチャ、と水が砕ける。玉髄も剣を放った。バシャ、と少し重い音が響いた。
「そう、いい子いい子。そして、ひざまずいてくれると嬉しいんだけどな」
「ふ……ざけるな!」
 玉髄は思わず声を荒げた。しかし阿藍はまったく意に介さず、不敵に笑うばかりだ。
「跪くの。我が愛しきモノ」
 阿藍がそう言った瞬間――玉髄は床に崩れ落ちた。
「玉髄君!?」
「うう、ぐうううううッ!」
 膝をつく。額を床にこすり付け、うめき声を上げる。
 衣の肩口が光っている。皮膚に喰い込んだ琥符が発光している。
「しまった、琥符か!」
「うおおおああ――ッ!」
 玉髄は苦悶の叫びを上げ、床に突っ伏す。意識が曖昧になり、起き上がることもできない。
「阿藍、そなた!」
 玉座から、阿藍が立った。傲岸不遜に笑い、両手を広げる。
「ようこそ、我が宮へ!」
 水中から人妖が飛び出し、夜光に襲いかかった。

『起きろ』
 顔に水をかけられて、玉髄は意識を取り戻した。気絶していたらしい。
 一角と夜光は、池の上の石像に縛り付けられている。数人の人妖がその周りに控え、何もできないように見張っている。
「一角! 夜光殿! くそっ、離せ! 離せ!」
 玉髄は上半身を裸にされ、台に乗せられて固定されていた。鎖で拘束されている。
「どう思う、青玉?」
 阿藍が、獣の像に縛りつけた青玉に尋ねていた。青玉の口から、布は外されていた。
「三人に……手を出さないでください!」
「だから、さっき話したことをしてくれれば、許してあげるわ」
「遷に玉龍を与えろと? 彼にその資格があるのですか!」
 遷を騎龍にする――とんでもない要求をしている。玉髄は叫んだ。
「青玉、俺に構うな! 龍を呼び出して――」
 龍を呼び出して戦え――そう叫ぼうとした瞬間、彼の腹に遷が拳を入れた。息がつまり玉髄は言葉を失う。
「邪魔をするな」
「やめて! 手を出さないでと言ったでしょう!」
 青玉は、龍を呼び出す呪文を封じられていた。仲間の命、という呪詛で。
「大人しくしないから悪いのよ」
 阿藍は呆れたようにため息をつき、首をかしげた。
「それにそれに、資格ならあるわよ。……遷」
 遷はうなずき、左手で右手首をつかむ。そして無造作にひねる。鎧に包まれた右手が、パキンと音を立てて外れた。
「な……っ」
 玉髄は言葉をなくす。
 遷の鎧の中には、あるはずの腕がなかった。鎧の中は空洞で、暗い空間がどこまでも続いているかのように見えた。
「……どういう術だ」
「可哀想でしょう? 遷のもとはいい素材だったのに、右腕と右脚がなかったの。だから、妾が新しいのをあげた。素敵素敵」
「右腕と右脚……?」
「おまけに前あった騎龍の力も失ってるから、青玉に頼むのよ」
 阿藍は不敵な笑みを崩さない。
「力さえあれば、遷もそんな面に執着しなくていいの」
『そう、力さえあれば。某も……』
 遷は腕をもとに戻し、面に手をかけた。ゆっくりと外す。異形の辟邪獣の下から、人間の顔が現れる。黒褐色の髪、整った容貌――そして漆黒の瞳には、墓場の火のごとき暗い光が宿っている。けれども人を蠱惑する魅力がそこにはあった。
 水面に、遷の顔が映る。彼の顔は、玉髄に瓜二つだった。
「……!?」
 玉髄は言葉を失った。青玉が顔をしかめ、逸らす。
「父……さん……?」
 玉髄は呆然とつぶやいた。漆黒の瞳が限界まで見開かれ、揺れる。
 虹玉仙コウギョクセン――元王国軍紅龍将軍。峰国の亡き英雄、崩国の妖魅を封ぜし騎龍。
 遷はまさしく、その人であった。
「そう、素材はね。ああ、記憶も結構残ってるのよ。だから、とっても上手くいったわ」
 阿藍は遷から面を受け取る。
「王宮で妖魅を暴れさせれば、玉髄はしゃしゃり出て大怪我するだろうって」
 玉髄は悟った。遷が騎龍の体術を駆使するのも、そして何より玉髄と同じ辟邪の血を持っていたのも、説明がつく。剛鋭の利き腕を知っていたのも、またしかり。
 すべては阿藍のたなごころにあった。
 暴れた妖魅を押さえようとして、玉髄は腕を折った。青河セイガは統治を任されていたのに、領地の異変を知らなかった。その二つは、阿藍の計算のうちだった。彼らの性格を嫌というほどわかっている遷――玉仙が話した情報をもとに予測したのだろう。
「父さん! どうして!? 父さんはこの国の英雄だって……!」
「某は遷だ。新たな腕と脚を頂き、我が思いのままに生きろと言われた」
 遷はにべもなく突き放した。
「だが、足らない。いまのままでは足らないのだ。某は欠けている。某には魂がない」
 彼の眼底にもまた、狂気がある。
 阿藍は玉座を立つと、遷にまとわりつく。
「可哀想な遷。もう大丈夫、あなたの魂を分けたものはここにある」
 言いながら阿藍が取り出したのは、黄金色の玉龍だった。
「騎龍になった者は、龍と魂を共有するという。ならば前のあなたが使っていたこれに、あなたの魂はある」
 玉龍を龍師から与えられることで、人は騎龍となる。
 その龍師は、いま彼女らの手の内にいる。
「だから、青玉。彼を騎龍に戻してあげて」
「約束、してください。三人を返してあげて」
「ええ。あなたが約束を果たしたら、ね」
「青玉、やめろ!」
 玉髄の制止を、青玉は聞かなかった。
「玉龍を、前に出して……」
 青い髪が、霊気によって揺れ始める。
「金なる龍、彼の者の龍となれ!」
 青玉の体から、霊気が渦となって放出される。
 黄金の玉龍が宙に浮いた。遷の胸に向かって放たれる。
「おお、おお……!」
 遷が初めて興奮した声を上げた。
 胸についた傷に、玉龍が貼りつく。遷の全身を、金色の霊気が包み込む。山吹に似た黄金の霊気が集約し、蛇体をなす。遷の瞳に、赤味を帯びた金色が宿る。同じ色の光鱗が、彼の喉に刻まれる。
 金龍が現出した。池に飛び込み、水の中を周回して頭を水面からもたげる。
「ああ……某の龍!」
 遷は喜びにうち震えている。
 一方、青玉はぐったりと頭を垂れた。
「三人を解放してください」
「まあ、待ちなさい。ほら、遷!」
 遷はやや興が削がれたようだったが、それでも阿藍に従う。玉髄が拘束された台に近付く。人妖たちが寄ってきて、玉髄の口を無理やり開かせた。
「うがっ!?」
 噛みついてやろうと顎に力を込めた。人妖がそれ以上の力で押さえつけてくる。
 遷が無造作に玉髄の口に手を突っ込んだ。ボキン、と歯の折れる音がした。
「!」
 玉髄の口の中に、血の味があふれる。左上の犬歯を折られていた。
「何をするのですか!? 三人には手を出さないと!」
「知ってる? あなたみたいに頑強な仙人は、翡翠か眷族の牙でないと傷つかないの」
 青玉の言葉など聞こえていないように、阿藍は笑った。
「遷」
 遷がうなずいた。青玉が拘束された石像の真ん前に立つ。池の中から金龍が首をもたげ、そのうしろに控える。
 遷が牙を空中に放り上げた。金龍の周囲に、霊気が渦巻き始める。
「撃て!」
 遷の声に合わせて、金龍が彈を放った。針のように集約された力が、空中に浮いていた牙に当たる。もろともに青玉の額に撃ち込まれる。
「――!」
 青い瞳が見開かれる。長く豊かな髪が逆立った。白い体がのけぞる。
「ア……」
 青玉の瞳から光が失われた。全身から一気に力が抜ける。髪も垂れ下がる。
「これでよし。これでもう、逃げられることはない」
 最初から、そのつもりだったのだ。阿藍は四人を逃がす気など微塵もない。
「次はあなた」
 阿藍の目は、すでに玉髄らを人とは見ていない。自分の望みを叶えるための、ただの素材と見なしている。
「琥符を作るの。あなたの血で」
 人妖たちが、手に手に刃物を持っている。蟻のように、玉髄の周囲に群がる。
「うわあああああアア――ッ!」
 胸に突き刺さる刃物の感触。喉を逆流する血が、気管に入って息が詰まる。
 流れ出た血は、集められて玉の箱に注がれる。人の頭部ほどもある、四角い箱だ。
 その箱が満たされるまで、玉髄は身を切り刻まれ続けた。



「できた」
 まるで子供が砂山を作った時のような声で、阿藍アランはその符を手に取った。
「んー重い重いね」
 阿藍や夜光らが普通使っている琥符は、掌に収まるほどの大きさだ。しかし、その琥符はその数倍はある。表面は金色に輝き、獰猛な虎の意匠が刻まれている。その中には玉髄ギョクズイの血が使われ、どんな妖魅でも封印できるという。
「う……あ……」
「生きているの?」
 玉髄は虫の息だった。しかし意識は失わず、そのの口から呪詛がこぼれる。
「ゆるさない……お前ら……ころしてやる……!」
「元気ねぇ。玉龍を直接身につけると、そんなに力が出るのね」
 阿藍は玉髄の脇腹を撫でた。翡翠色の玉龍が、わずかに光を放っている。
「鎖を外しなさい。お人形にしましょう」
 人妖が指示を受けて、玉髄の拘束を解く。玉髄にもはや抵抗する気力はないと見えた。
「このあとは、夜光に術を解かせて……妖魅が復活したら、琥符を撃つの」
 そのために、夜光のみならず一角も生かしているようだ。弟子の命を盾に取れば、夜光も従うか。そう考えている。
「ふふ――でも、夜光は解かないでしょうね」
 夜光が絶対に応じないだろう、ということも予見している。
「ふふ――そのときは、夜光に死を。そっちの方が早い早い」
 阿藍が笑ったそのとき、突如床が揺れた。池の表面が波立つ。地震か。否、爆音も聞こえる。そのたびに床と壁が振動する。
「なに!?」
 白玉の扉に無数のヒビが入った。関髪入れず扉は砕け、衝撃波と煙が襲い来る。
 その煙を割って、紅の光が部屋に飛び込んできた。玉座後方の壁に当たり、文様を削り紗を焼く。誰にも当たらなかったのが、幸い――とここでは言うべきか。
「なに、何なの!?」
「この力……騎龍だ!」
 遷が叫ぶ。
「我が力となる者、ここに承知し降り来たれ!」
 呪文が響く。夜光が意識を取り戻していた。
「馬鹿な、琥符はすべて捨てたはず!」
 その琥符の一枚が、水を割って夜光の上に飛び出す。黄金の光が彼を包み、夜光の姿が魚に変じた。六本の足と馬に似た耳を持った魚だ。鎖が解け、夜光は池に飛び込む。
「しまった!」
 遷が池の中を覗き込む。
 魚が跳ね上がった。足に剣を一本つかんでいる。そのまま、玉髄に向かって剣を投げる。
「――はあっ」
 虫の息だった玉髄が、大きく息を吸い込んだ。剣を受け止め、即座に抜き放つ。
 銀の輝きが弧を描いた。青玉を拘束していた鎖を断ち切る。細い体が、獣の石像から滑り落ちた。玉髄は即座にその体を抱えようと手を伸ばす。
「待てェェ!」
 遷が動いた。黄金の腕が玉髄を殴り飛ばす。
「ク……!」
 玉髄は部屋にかかる橋の中ごろまで弾かれた。変化を解いた夜光と、その手で助けられた一角がそばに降り立つ。
「玉髄君!」
「夜光殿……一角、無事か?」
「う、うん。平気!」
 そのあいだに、遷が青玉の体を担ぐ。
 また塞全体が揺れた。見れば、二つの部屋の壁はぶち抜かれ、回廊の外壁まで穴が開いている。白玉と玻璃の瓦礫が積み上がっている。
「おのれェェエェッ!」
 いままで余裕があった阿藍の表情から、笑みが消えた。髪の毛が逆立つほど激昂している。この塞を傷つけられたことが、何より許せないらしい。
 彼女の怒りとともに、池の水の色が変わった。夕陽に似た赤黄色に染まり、凄まじい熱を放ち始める。
鳴蛇メイダ!?」
 水の中から、四枚の翼ある蛇が飛び出す。否、もう水とは呼べない。まるで溶岩だ。
「逃げろ!」
 夜光が一角と玉髄を促す。熱気のせいか、足元の橋が溶け始めている。回廊に向かって、三人は走る。灼熱に足がすくみそうだ。わずかな距離が遠い。
「あ……っ」
 あと数歩、というところで、一角が足を取られた。その瞬間、橋が溶けて足元がなくなる。
「一角!」
 夜光が一角を引き寄せ、外に突き飛ばす。
「うおおおお――ッ!」
 夜光が苦悶の叫びを上げた。溶岩の色に変わった水に、足が浸かっている。
「夜光殿!」
 玉髄が、即座に夜光を引き摺り、部屋から出る。回廊は壁が破壊され瓦礫が山になっていたが、熱水はない。
「夜光殿、しっかり!」
「お師匠様、お師匠様!」
「う……ぐ……!」
 夜光が唇を強く噛み締めている。左脚に火傷を負っていた。否、火傷などという生やさしいものではない。肉が焦げ、骨も焼かれている。
 とりでの揺れが止まった。壁の壊れたところから、鮮やかな赤色の龍が頭を出す。
「おい、玉髄! 生きてるか!?」
「朱将軍!」
 紅龍将軍朱剛鋭シュゴウエイだった。瞳が鮮やかな血紅色になっている。龍を現出させたとき、騎龍の瞳はその龍の瞳と同じ色になる。先の攻撃は、彼の龍が放った彈だった。
「中に、まだ青玉が!」
 部屋の水位が、一気に上がり始めた。池を満たすのはもはや水ではない。溶岩そのものだ。いまにも回廊に溢れんとしている。
「いったん退くぞ、乗れ!」
 剛鋭は強引に三人を自分の龍に乗せる。玉髄は歯噛みしたが、もはや猶予はない。
 溶岩が回廊に押し寄せた。間一髪、赤龍は塞を離脱した。
 空には何匹もの龍が浮かんでいる。王国軍紅龍隊の騎龍たちだ。
「おい……嘘だろ!?」
 その時、大地が揺れる音がした。空中にいる彼らにはわかりづらいが、士山が震えている。岩が割れ、木々が倒れる。遠くで鳥たちが飛び立つ音がする。
 玻璃の塞が、山から浮き上がった。白玉と玻璃の瓦礫が次々と落下し、土煙を上げる。
 半分よりもやや小さくなって、塞は宙に浮き上がった。その形は、半月状の小舟に椀を伏せたようだ。そしてゆっくり南下を始める。
 怪異には慣れているはずの騎龍たちが、呆然とそれを見守っていた。
「なん……っだありゃ!?」
仙槎センサ……」
 一角がつぶやく。仙槎とは、仙人の乗るいかだのことだ。仙人が乗るのだから、当然水に浮かべるものではない。空に浮き、天に昇るための舟だ。
「いかだ? あれがか?」
 仙槎の周囲を、四枚の翼ある蛇の大群が周回しはじめる。熱気があたかも障壁のように渦巻く。騎龍たちが距離を取ると、金色の光がの中心から発され、仙槎を包み込んだ。熱気と光がたがいに絡み合い、球体上の結界になる。
「撃て!」
 ほかの騎龍が、たまを撃ち込む。結界はその表面がゆらゆらと揺れはしたが、破れることはなかった。
 剛鋭がフッと黙った。目が遠くを見ている。仲間の騎龍と交信している。彈を撃ち込んだ手応えを訊いているのだろう。
「駄目だ、あの結界は彈を相殺しやがる。いったん退くぞ」
 空には二匹の龍が残り、仙槎の動きを警戒する。
 残りは地上へと戻った。

 士山シザン西側の麓に、陣が立てられていた。
 紅龍隊の兵士たちが集まっている。彼らも剛鋭を援護して、塞を撃ったという。彼らは玉髄の帰還を喜んでくれたが、夜光が重傷と知って、すぐに雰囲気は重くなった。
「夜光殿の様子はどうだ?」
「駄目です」
 答えたのは、虹家の部曲に所属する医術兵だ。医術の心得をもって兵らを支援する。いまは夜光の容体を診ているのだが、彼は首を横に振った。
「熱が引きません。信じられないことですが、火傷から熱が出て、無事だったところを侵食しています。このままでは遠からず……」
「何だって!?」
「どうすりゃいい?」
 医術兵は答えなかった。手立てがないのだろう。
 夜光はそのそばに寝かされており、火傷を負った足は水で濡らした布で覆ってある。一角が何度もその布に水をかけている。気休め程度にしか、ならないのだろうが。
「一角……」
 苦しげな息の中で、夜光は一角を呼ぶ。
「一角、私のつとめ、継いで、くれるか?」
 夜光は何度も息を継ぎながら、愛弟子に尋ねる。
「私が死ねば、私の琥符も、力を、失う。妖魅が、復活、す、る……だから」
「――!」
 夜光が封じた妖魅――崩国の妖魅。それが夜光の死によって封印が解けるという。
「おい、それは本当か!」
「ああ……」
 夜光の答えに、誰も彼も息を呑む。
「はは……申し訳、ない」
「夜光殿、死んではなりません!」
 玉髄は声を張り上げた。夜光は薄く笑っただけで、それには答えなかった。
「そなたに、ずっと伝えていなかった……言葉がある」
 夜光は、玉髄に顔を近づけるように、招いた。玉髄は彼の口のそばに耳を寄せる。囁くように、夜光はその言葉を伝えた。
 玉髄の瞳が見開かれる。漆黒の瞳に宿す虹が、驚愕によってぴんと張り詰めるようであった。
 対して、夜光は微笑みさえ浮かべていた。
「どうか、彼にも、眠りを……」
「お師匠様、お師匠様!?」
「夜光殿、しっかりしてください! 何か、何か手があるはずです!」
「一角……すま……ぬ……」
 夜光が腕を伸ばす。一角の金茶色の髪にふれる。
「生きろ……わたし、の、愛する……子……」
 弱々しく伸ばされていた腕が、落ちる。夜光のまぶたがゆっくり閉じられる。
 その瞬間――パキン、と音を立てて、彼の袖の中から一枚の琥符が零れ落ちた。黄金の符は真っ二つに割れ、帯びていた輝きも曇っている。
 力を失ったのだ。
「お、師匠様……?」
「夜光殿! 夜光殿!?」
 夜光は閉じた目を決して開けることはなかった。誰が、何度呼びかけても。
「あたし、の、せい……?」
 一角の肩が震える。
「あたしが、のろまだったから……」
「一角! 馬鹿を言うな!」
 悲しみにうち震える一角の肩を、玉髄が強く抱いた。
「う……うう……」
 一角の瞳に涙が溜まっていく。肩が大きく揺れる。
「あああああっ」
 せきを切ったように、大きな瞳から涙がこぼれた。
「うわああああああ……」
 一角は泣いた。玉髄にすがり、ぼろぼろと涙を流す。
 玉髄もそれを受け入れる。他人に泣かれると戸惑う性格なのに。固く瞳を閉じ、強く一角を抱き締めた。

「……こうなったことは、俺たちにも責任がある」
 剛鋭が、重々しく言った。
 任務は、完全に失敗だった。阿藍の行方はつかめたが、夜光が死んだ。
「どうか……ご自分を、責めないで、ください」
 一角が、うつむいた。目元は泣き腫らし、髪は乱れてひどい有様だ。
 夜光は、自分の命が失われれば妖魅が復活することを知っていながら、阿藍に対した。自分の意思で、だ。おめおめ殺されるつもりはなかった。死ぬつもりなどなかった。
 その筈だった。
 最後の最後で――自分の命より、弟子の命を選んだ。使命より情を選んだ。ひとりの人間としての選択だったのだろう。それがたとえ、誉められないものだったとしても。
「崩国の妖魅は、復活するのか」
「……はい」
 一角がうなずいた。
「でも、湖深く封じられていますから、すぐには出てこないと思います」
「なら、まだ時間はあるってことか。どれくらいかわかるか?」
「おそらく、明日の朝には」
 外はもう陽が暮れかけている。あの陽がふたたび昇るとき、妖魅は復活する。
「緊急事態です。急ぎ王都に龍を飛ばし、別の騎龍の部隊を呼び寄せましょう」
「間に合うか」
「はい」
「わかった、手配してくれ」
 騎龍たちは行動を開始した。後悔するとき、誰かを責めるときはいまではない。
 いまはこの国を守るために動くのが最優先だ。
 だが、剛鋭の表情には曇りがあった。
「十年前、俺はあの妖魅と戦った。そして勝てなかった」
 そう――彼は、崩国の妖魅と対して生き残った騎龍のひとりだ。苦々しい記憶は、将軍になった彼の中に確かにあった。
「二の舞にしたくない。どうすればいい?」
「手はあります」
 けれども十年前とは違う。方法がわかっている。
「阿藍から琥符を奪い、それを使って封印します」
「そうか、俺の血で作った琥符を奪って……。しかし、それで封じることができるのか?」
「うん。できると思う」
「違う術師が作った琥符だぞ?」
「琥符はね、基本的な作り方は同じ。玉に、妖魅が嫌うものを入れて、金で覆って虎の文様を描くの」
 確かにそうだった。
「琥符はただの道具。重要なのは呪文と術者の霊力なの。だから、阿藍が作った琥符でも、あたしが使うことはできるはず」
 一角の顔から、悲しみが消えていく。
「あたしがやります。崩国の妖魅、かならず封印してみせます」
 夜光は、一角に託した。一角は託された。
「その言葉、信じよう。我ら騎龍の誇りに賭けて、力を貸す」
 騎龍たちが全員うなずいた。
「よし、しばらく休め」
 そう言われて一角は、夜光の亡骸のそばに座り込んでいた。その隣に玉髄もいる。
「一角……」
 玉髄は、かける言葉を見つけられなかった。後悔ばかり浮かんでくる。
「玉髄」
 一角は顔を上げた。どこかすっきりとした表情だった。
「青玉ちゃん、助けよ?」
 他人を気遣える優しさがある。いや、強さと言うべきか。泣きそうなのに、崩れ落ちてしまいそうなのに、それに耐えてやるべきことを見据えている。
 玉髄は、ひどく切なくなった。
「俺が守る」
 その言葉とともに、玉髄は一角に腕を伸ばし――抱き締めた。
「お前も、青玉も、この国も――俺が」
 一角は瞳を見開いて――そしてすぐ細める。
「ずるいよ……全部、しょい込もうとするなんて」
 一角の腕が、ゆるゆると上がって、玉髄の背中の衣をぎゅっとつかんだ。
「あたしだって、あたしだって……背負う、から」
 仲間でしょう、と一角はつぶやいた。
「だから、青玉ちゃんも助けよう? 青玉ちゃんのこと、好きなんでしょ?」
「へっ!?」
「大丈夫、生きてるよ。青玉ちゃんは、本物の仙人様だと思うから」
 一角が笑っている。その笑みに、玉髄は元気づけられる気がした。
 たがいの右手をぐっと握る。
「やろう」
「うん、やろう。この国を守ろう」
 悲しみはいまは忘れよう。後悔はあとにしよう。償うときはいずれ来る。
 いまは。いまはただ、次の戦いを見据えよう。
「絶対守ってみせる」
「ありがとう、玉髄」
 夜が深まり始めていた。


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