龍×琥オーヴァードライブ |
第三章「山平水遠」 |
栞‖一|二|三|四 |
一 |
玉髄は、いったん白水という土地に向かうことを提案した。
蟠湖に近く、何より玉髄自身が管理している荘園がある。言わば玉髄の身内ばかりの土地だ。そこなら情報も得やすく、何より変幻自在の敵が紛れ込んでも区別しやすいだろう。そういう理由だった。
紅龍将軍朱剛鋭、辟邪虹玉髄、龍師青玉、そして琥師一角娘。四人で白水へ向かう。いまは時間が惜しい。動ける者から出発する。残りの騎龍は、あとから合流することになった。
二日ののち、舟を手配し、四人は王都を出発した。
峰国は水の国――河川があちこちを流れ、湖と呼べるものも多数ある。そして、その流れを利用した水路が発達している。王都からは陸よりも舟で行く方が早い地域も多い。
白水へは、三日ほどで到着できるだろう。
「青玉ちゃん!」
一角と青玉は、直接会うなり打ち解けていた。一角の人懐っこさゆえだろう。
無言の男二人を無視して、異色の少女たちは戯れ始めた。
「青玉ちゃんって、涼しそうな色してるよねー」
言いながら一角は青玉に抱きついた。
「いやーん、ひんやりー」
「一角もとても綺麗な髪ですね。太陽みたいです」
「えへ、ありがと」
金茶色の少女と、青色の少女。二人が抱き合うと、その胸元がふにんふにんと押し合っている。たいへんな目の保養だ。ただ保養をしているのは玉髄だけで、剛鋭の眉間にはシワが寄っている。
「それに綺麗な飾りですね。いい細工物です」
「これね、お師匠様に作ってもらったの。いいでしょ!」
「でも、どうして龍の模様なのです? 琥師なのだから、虎の方がいいのでは?」
「琥」とは本来、玉を彫って作った虎を意味する。琥師らの使う琥符には、必ず虎の文様が彫られている。
「お師匠様は、騎龍と協力して妖魅と戦ってた頃があるの。『騎龍の力は素晴らしい。あの力があったから、私は生きていられる』って、お師匠様いつも言っているもん」
剛鋭の眉間からシワが消えた。褒められて悪い気はしないのだろう。
「それをあたしも忘れないようにって、龍を彫ってくれたの」
「いいお方なんですね」
「そうだよー。だってあたしを育ててくれた人だもん!」
一角は誇らしげに胸を反らした。
(おい、何で龍師も連れてきた?)
(王都に残したら、方士どもが何をするかわかりません)
剛鋭がごくごく小さく囁く。玉髄も囁き返す。
「玉髄の体については、わたしに責任がありますから」
「……聞こえてやがったのか」
一角と戯れていた青玉が、剛鋭に答えた。
「それに、玉髄の面が盗られました。あれに着けていた玉龍は、わたしの大切な龍です」
「あ……」
すっかり忘れかけていた。が、大事なことだ。
「わたしは龍師ですから、複数の龍を操ることはできます。でも、一番大事なのを取られたので、取り戻さないといけないんです」
「なるほど、犯人を追うには十分な理由だな」
騎龍にとって、玉龍とはおのれの魂に等しい大切なものだ。命を預け、心をともにして戦う戦友でもある。それを奪われることは、身を引き裂かれるのと同じだった。
全員に、東部へ向かい阿藍を追う理由がある。仲間意識が芽生えていた。
それから二日ばかりは、何事もなく進むことができた。舟に揺られるのも、慣れたものだ。 その日も陽が落ちて、月が昇る。
「明日の朝には、白水の船着き場に着けそうだな」
一角、青玉は横になって眠り、剛鋭も座ったままではあるが顔を伏せている。玉髄だけは起きて、屋形の中から空の月をうかがっていた。
「うおっ!」
突如、舟が大きく上下した。あまりの揺れに不吉な予感が走る。
「ギャッ!」
「うわあっ!」
水手の悲鳴が聞こえた。バシャン、と水に落ちる音もする。
「何だ、どうかしたか!?」
玉髄は屋形から出た――その瞬間、銀色の光が目に入り、玉髄は素早くかがんだ。頭上を刃が通り過ぎる。屋形の壁が大きくえぐれた。
「……!」
剣で薙がれたのを反射的に避けた。
あとからそう認識して、玉髄はどっと冷や汗をかいた。一瞬でも遅ければ、首を持っていかれていただろう。
「誰だ! この舟を王国軍紅龍隊と知っての……」
玉髄は誰何して――そして瞳を見開いた。
背の高い人影が、舟の舳先に立っていた。体つきからすると男だろう。右腕と右脚は、黄金の鎧で覆っている。それ以外は白い衣をまとい、顔には銀色の獣の面をしている。
「俺の面!?」
「わたしの龍!」
玉髄と、様子を見に来た青玉の声が重なった。
男の面は、奇妙な獣をかたどったものだ。蜻蛉のような大きな眼、鹿のような角、牙を剥いた口元――青玉が玉髄に与えた、辟邪獣の面だった。
「賊か!?」
剛鋭も剣を抜き放ち、外に出てくる。それを見越していたかのように、男が舳先を蹴った。
「うおおッ!?」
旋風が大気を貫いたかのようだった。剛鋭は反射的に飛び下がる。男の斬撃が襲う。剛鋭はそれを受け流し、剣を振り上げる。その剣を男は鎧の右肩で受け、刀を突き出した。反りのある曲刀だ。
剛鋭の左腕から血しぶきが飛ぶ。
「クウッ!」
「将軍!」
「玉髄、どうしたの!?」
「馬鹿っ! 一角、出てくるな!」
男の刃が一角を狙う。駄目だ避けられない――そう思った瞬間、キインと高い音が響いた。
「青玉!?」
青玉が割って入っていた。男の剣を、なんと素手で防いでいる。銀色の刃が確かに青玉の皮膚にふれているのに、その白い皮膚には傷ひとつついていない。
青玉が唇を開く。
「来い、我が――」
その言葉が終わる前に、男が動いた。曲刀を素早く引いて、拳を青玉の腹に叩き込む。
「かっ……」
青玉は腹を押さえてうずくまった。
――速い!
騎龍が龍を現出させるための呪文は、極めて短い。しかしその発声を遮る攻撃を叩き込んできたのだ。騎龍の戦い方を熟知し、しかもそれを阻害するところまで策を練っている。
剛鋭、青玉の二人を抑え、男は玉髄と一角に狙いをつける。
「一角、中に入ってろ!」
「でも」
「入ってろ!」
玉髄は一角を屋形の中に押し込むと、あたりに素早く視線を巡らせる。舟を漕いでいた水手たちは、斬り伏せられてすでに絶命している。恐らく何人かは河に落とされたのだろう。
次は俺だ。玉髄は剣を構える。
「遷! 挨拶は済んだよ! 帰ろう!」
突如、女の声が響いた。
遷と呼ばれた戦士は、その声に応じるように飛んだ。舟が大きく揺れる。
「貴様……阿藍!?」
空に、人の数倍はあろうかという鳥が羽ばたいている。その背に忘れられない顔があった。
琥師阿藍――玉髄を一度殺した、女琥師である。
阿藍の隣に、舟を襲った男は舞い降りた。仲間なのだろう。
「手前が阿藍か……ずいぶん部下が世話になったようだな、ええ、おい?」
剛鋭が左腕を押さえながらうなった。
「おまけに水夫どもを殺しちまいやがって。武人じゃねぇ奴を殺るたぁ、つくづく外道と見える」
剛鋭の声に、怒りという名の溶岩が混じっている。味方さえも焼き焦がす熱だ。
だが、阿藍はフッと笑みを浮かべただけだった。
「我が愛しきモノ、ここに承知し来たり遊べ!」
阿藍の呪文が、月を反射する水面に吸い込まれた。
突如、舟の後方に巨大な穴が生まれた。水が吸い込まれていく。舟が揺れ、その穴に向かって流れ始めた。
「なッ!?」
「これぐらい、超えてみせてよ。騎龍、琥師」
阿藍はキャラキャラ笑うと、男とともに東の方向へ飛び去っていった。
「マズイな、引き寄せられてるぞ!」
剛鋭が叫ぶ。波が舟を大きく揺らす。
「何だ、何がどうなってるんだ!?」
「巨大な魚です!」
小山ほどもある魚が、水を呑み込んでいる。舟はそれに引かれているのだ。
「どうする!?」
「適当なところにつかまって! 逃げます!」
青玉が額の前で両手を交差させる。いつの間にか、それぞれの手にひとつずつ光るものがある。玉龍――龍を封じた璧だ。
「来い! 我が龍たちよ!」
青玉が両手を広げた。白い指から玉龍が離れ、水の中に落ちる。
水柱が上がり、二頭の龍が現出する。ゴン、と船底から鈍い音がした。舟特有の浮遊感が薄れる。見れば、二頭の龍が舟を挟むようにして水面下に並んでいる。
「……まさか、青玉!」
「行って!」
青玉の命令は簡潔だった。
「どうわぁぁぁぁぁぁ!」
玉髄は悲鳴を上げた。
二頭の龍が、舟を支えたまま加速する。戦車のごとく舟が揺れ、速度が上がる。舳先が大きく水飛沫を上げ、その反動でいまにも弾け上がってしまいそうだ。
「青玉、無茶すんなーッ! あ痛ッ! 舟がバラけるぞー!!」
水を割る轟音の中、玉髄は船縁にしがみつきながら叫んだ。
「うおおおおああああ――ッ!?」
「きゃ――――ッ!!」
舟のあちこちから悲鳴が上がる。
船の後方から、気配がする。大魚が追いかけてきている!
「嘘だろ……来るぞ!」
魚が躍り上がった。ひとつの頭に、十の体を持っている。もちろん、ただの魚でないことは明確だった。こちらに向かって飛んでくる。
「青玉!」
「だめ、追いつかれる!」
青玉が右腕を前に差し出し、盆の上を滑らせるように空中で半回転させた。舟が大きく横滑りしながら、「し」の字に反転する。
「おおおおぉお!」
回転中にまた盛大に悲鳴が上がったが、もはや気にしている場合ではない。舟はそのまま、飛び上がった魚の下をすり抜けた。
「青玉、これホント逃げれンのか――!」
「ダメです、振り切れない! あれは、わたしたちを狙ってます!」
いまさら速度は落とせない。落とせば追いすがられて、この舟は沈むだろう。
「何度も同じ手が通用するとは思えねーぞ! やっぱ倒さないと! 俺が行く!」
「ダメ! 玉髄、戦ってはダメです!」
「次に奴が飛んできたとき、俺が倒す! 青玉は舟をどこか安全なところに!」
「おい、玉髄! やめろ!」
水が割れる音がした。その瞬間、玉髄は叫んだ。
「来い! 我が龍よ!」
それは黒雲だった。
玉髄の影から、漆黒の霞がわき起こる。それは集約して蛇体となった。
――鱗の境さえ見えない、漆黒の応龍。その前脚には、まるで焔か翼のように霊気が漂う。玉髄の瞳が、鮮やかな翡翠色に変わる。喉元に菱形の光鱗が刻まれる。
「行くぞ、応龍!」
その瞬間、大魚がふたたび水面を割って躍り上がった。
龍もまた飛んだ。大魚と同じ高さだ。一方、舟は彼らの下をすり抜ける。
龍の頭が、魚の鼻先に激突した。魚の顔面が大きくひしゃげ、肉と血が飛び散る。そのまま双方、川面に落下した。水柱が上がる。
先に体勢を立て直したのは、応龍だった。が、魚もまだ生きている。空中では敵わぬと見て、水中から龍に突進する。龍は素早く水中から離脱し、それを躱した。
玉髄はその龍の上にいた。
(これが……騎龍の力!)
玉髄は高揚していた。憧れの力は、思っていたよりもずっと強い。
「くそっ、魚めどこに隠れた?」
大魚は水底深く潜ったらしい。水面の波が消えていく。
『玉髄! 彈を使うのです!』
青玉の声が頭の中に響いた。騎龍の力のひとつ、思念での交信だ。
「そうか!」
玉髄は、かつて騎龍になるための訓練を受けたことがある。いま、その知識を使う時だ。
(彈を出すには……)
騎龍となった者は、魂を龍とともにすると言われる。頭の中で想像したことが、龍に伝わって顕現する。
玉髄は息を吸い、右手をかざした。それに応じるように、応龍の周囲に翡翠色の球体が十個、浮かび上がった。
玉髄は目を閉じた。全神経を目に集中させる。望気の(きをみる)力を使うときの仕草だ。
そして一息。カッと見開いて水面を見ると――大魚の気がぼんやりと視認できた。
「撃て!」
玉髄の声とともに、翡翠色の光があたりを貫いた。
水が蒸発する音に混じって、大魚の断末魔らしき音も響いた。川面が紅に染まる。
「出てこい!」
水面を割って、大魚の頭が浮かぶ。
玉髄はふたたび手をかざした。翡翠色の球――彈がひとつ、浮かぶ。
「撃て!」
大魚の頭が、柘榴のごとく弾け飛んだ。
「やった……!」
玉髄はふたたび望気の力を使った。大魚の生気は消え失せていた。
「……!?」
突如、玉髄の右肩に激痛が走った。思わず龍の上でうずくまる。
「こ、琥符、か……!?」
もうほとんど忘れていたのに――それを思い出す。右肩に打たれた琥符のあたりが、貫かれたように痛む。意識が薄れる。
制御を失った応龍が、一声吟じると霧散した。
|
二 |
「玉髄、玉髄」
龍が突然消えたため、玉髄は水中に落下した。それを青玉が龍を使って引き上げさせた。気を失っている玉髄の頭を膝枕で支え、頬を軽くペシペシと叩く。しかし玉髄は中々意識を取り戻さない。
「起きろ、玉髄!」
「い……って――!!」
ゴガッと剛鋭の拳骨を喰らい、玉髄は飛び起きた。
「そうか、終わったのか……」
玉髄はすぐに力を抜いた。剛鋭も一角も疲労困憊といった態だ。あれだけ派手に左右に振られれたのだから無理もない。投げ出されなかったのだけが幸いだ。
「将軍、お怪我は?」
「すこし深くやられた。ザマァねえ」
「かなり深いですよぉ」
一角が剛鋭の傷口に布を縛りつけている。
「ともかく、白水に向かいましょう」
青玉が龍を操り、ゆっくりと舟を進ませ始めた。
「玉髄、何で空中で龍を消した。落ちるに決まってるだろーが」
玉髄は屋形の中でぐったりと横になっていた。青玉が、その手を玉髄の額に乗せている。彼女の手はひんやりとして気持ちがいい。
「急に肩が痛くなって……あまりに痛くて、意識が遠のきました」
「痛くなった……? 一角、どう思いますか?」
「うーんとね、龍を現出させて霊力が高まると、琥符もそれに応じて束縛を強めようとするのかなぁ。推測だけど」
青玉がはあ、とため息をついた。
玉髄は頬をわずかに赤らめる。彼女の制止を振り切って、龍を現出させてしまった。呆れられていても無理はない。
「けど、これは厄介です。これじゃ一日に一回、三百を数える程度の時間しか龍を出せないでしょう」
「そ……んな」
「自分の体もよく理解してないうちに、デカい力を使おうとするからだ」
自業自得、と言わんばかりに剛鋭は右肩をすくめた。
「将軍、できましたよー」
「すまん」
一角が包帯を巻き終わった。剛鋭は上着を羽織り直す。
「不可解なのはあの男だ。まっすぐ俺の利き腕を狙ってきやがった」
剛鋭は、この国では珍しく左利きだ。
「剣の握り方で判断したのでしょうか」
「そうあってほしいな」
その瞬間に判断したのでなければ、事前に知っていたことになる。敵にどこかで見張られていたなど、考えたくない。記憶に留めておく必要はあるが。
白水の船着き場に到着した。
剛鋭は思っていたより傷が深く、いったん離脱することになった。迎えに来ていた役人があたふたと医者の手配をしている。
「玉髄、手前は先に向かえ。事態は思ったより深刻そうだ」
「将軍は?」
「俺は王都の連中と連絡を取る。追跡隊をこちらに寄越させよう」
「わかりました。これを」
玉髄は一通の書簡を差し出した。数行の文とともに、虹家当主の印が押してある。
「こいつは?」
「虹家当主の命令書です。これを持つ者に人夫・馬・武器・食糧などの支援をするように書きました。これがあれば、我が一族は協力を惜しまないでしょう」
「わかった。ありがたく使わせてもらう。気をつけろよ」
「はい、将軍も」
「玉髄、準備できたよ〜」
青玉と一角は、衣を被いて旅の女人風だ。二人の髪色は目立つので、こうする。
荘園までは馬で向かう。三人は、朝焼けの中を出発した。
白水の荘園に到着する頃には、すっかり太陽が高くなっていた。
「若様!」
「若様、ようこそお越しに!」
「すまない、皆。急な話でね」
荘園の人々は、玉髄を「若様」と呼んで歓迎してくれた。
「すっごいね〜。玉髄、ちゃんと貴族だったんだ……」
「どーゆー意味だそりゃ」
通された部屋は、客人を泊めるための部屋だった。寝台がある。床は硬く土足で入るものだが、部屋の一部は一段上げてある。正座して書見などをするための場所だ。
「つかれたぁー……」
一角はその座に腰掛けると同時に倒れた。
「おい、寝るなよ……ふぁ」
そう言いつつ、隣に座った玉髄もあくびを止められない。またその横に座った青玉も、うっつらうっつら舟を漕いでいる。
「あ……ダメだ」
玉髄も横になった。眠気が心地よい眠りに誘う。
「くー……」
三人の寝息が立つまで、そう時間はかからなかった。
「……ん」
一番最初に目が覚めたのは、玉髄だった。
玉髄を挟むように眠っていた二人の少女。二人とも、玉髄側に寝返りをうったらしい。結果、二人の胸が玉髄の顔を両側から挟んでいる。
「うあ」
玉髄はボッと顔を赤らめた。
右頬に一角娘の豊かな胸、左頬に青玉の綺麗な胸。おのおの個性的なやわらかさが、玉髄の顔を両方から挟む。
「……き、気持ちいいんだけど、いやそうじゃなくて、起きてくれー」
玉髄は片腕を上げてふよふよと意味不明に動かした。が、少女二人は起きない。
座ってそのままうしろに倒れた形になっていたので、足は床に着いている。その足先に力を入れて体をゆっくりずらす。そのままズリズリと抜け出し、玉髄は起き上がった。
「ふう」
ひとつ息をつく。
「それにしても……」
玉髄はチラリと少女たちを見た。まだ安らかに眠っている。
「……いい感触だった」
本人はいたって大真面目だ。つぶやいたのちに、やましいことだと気づいたようだったが。
「どうかしましたか?」
「あっいやっ何でもないっ!」
青玉が、ぱちりと目を開けて起き上がった。やましいつぶやきを聞かれはしなかったか、と玉髄はあたふた手を振った。
「すっかり、眠ってしまっていましたね」
「ああ……しまった」
陽が傾いている。もう今日はここから動けない。
青玉の横顔が、部屋に差し込む赤い日に照らされる。彼女の両足に、金環が光った。
「青玉、ごめん」
「え?」
「面のこと……忘れかけてた。君が俺にくれたもので、俺はずいぶんあれの世話になったのに。それに、玉龍は騎龍の命。ないと、すごく苦しい筈なのに」
玉髄は理解していた。
――玉龍は騎龍の魂。かつて、知識では知っていた。けれどもいまは実感できる。玉髄もまた、騎龍としての生を歩み始めたのだから。
来い、我が龍よ。
その言葉だけで生まれるものは、力だけではない。左腹を押さえる。そこに埋まる玉龍の硬い感触が伝わってくる。いまはこれがないと、落ち着かない。
「なのに俺は自分の力とか、阿藍の行方とか、そんなことばっかり考えてた」
「玉髄は、とても優しい人ですね」
青玉が微笑んだ。けれども、その微笑みはすぐ夕陽の中に消えた。
「謝るというなら、わたしの方もです」
「え……?」
「わたしは、あなたの意志なしにあなたを騎龍にしました。龍師として、本当はしてはいけないことなのです」
騎龍になると、制約も多くなる。結婚、戦闘、立場……常人よりも、苦しい目に遭うこともまれではない。
「ごめんなさい」
「あ、謝らないで!」
玉髄は思わず声を上げた。
「俺は、ずっと騎龍になりたかった。君が俺の龍師になってくれて、とても嬉しいんだ」
それが素直な気持ちだった。確かに、貴族の当主として、騎龍という立場から生まれる制約は放棄すべきものだ。憧れと現実のあいだで、玉髄はこれから葛藤しなくてはならない。琥符を体から追い出すのと同様に、玉龍の力を失うことも考えなくてはならない。
けれども、玉髄はずっと憧れていたものになったのだ。それは嬉しい。そう思っていた。
「ありがとう、玉髄」
何よりも、この少女が好きだった。王宮の女たちとはまったく違う。化粧せずとも美しく、香を焚かずともよい匂いがする。この少女に惹かれていた。
(でも、俺はこの人のことをほとんど何も知らないんだよな)
三年間、玉髄だけが言葉を話せる関係だった。もちろん、彼女の視線や仕草である程度のことはわかった。しかし、彼女の過去などは知らない。言葉なしに説明するには、あまりに難しいことだから。
「青玉……」
玉髄は、急に狂おしい気持ちに襲われた。初めて自分から少女の手を取る。
青く澄んだ瞳が見上げてくる。それよりも淡い色の髪が、少女の白い頬にかかる。
(ああ、俺……)
玉髄は目を細める。
(やっぱり、好きだ。この人が……)
繋がる手。温かい手と、ひんやりとした手。
(何も知らなくとも、この人に惹かれてる)
二人の距離は、確実に近かった。
「ふわ……お腹すいた〜」
「!!」
あまりに場違いな声がした。一角が目をこすりこすり、身を起こす。玉髄はさっと青玉の手を離した。
「あ、あれ? 二人とも起きてたの〜? 起こしてよぉ」
「ごめんなさい、よく寝てましたから」
一角が唇を尖らせると、青玉は先のことなどなかったかのように微笑む。
「い、一角、体は大丈夫か?」
「うん! お師匠様迎えに行くまで、弱音は吐けないもん」
できればあとすこし寝ててほしかった……と玉髄は心の中でつぶやいた。
|
三 |
日の出とともに、白水から屯日へ向かう。
屯日は、白水から北東にすこし行ったところにある山間の土地だ。
「この山に、お師匠様の庵があるの」
「たしか、結界があるんだったな」
「うん。道から外れると迷って出られなくなるから気をつけてね」
竹林を抜け、森を抜け、岩肌が目立つ山をひたすら登る。人が踏み分けてできたような道を、ひたすら外れないように辿る。
途中の難所といえば、断崖絶壁にかかる橋だけだった。
否、橋というにはいささか語弊がある。それは橋げたのあるものでも、吊っているものでもない。自然に削れて板状になった岩が、谷の合い間に一本の道を作っている。それだけだ。もし橋の上で均衡を崩せば最後、白いもやのかかる谷底にまっ逆さまだ。
やや離れたところからは、瀑布がどうどうと音を立ててはるか下に注いでいた。
そこを抜けると、平らな場所に出た。質素な庵が見える。
「おお、一角か。どうしたんだ?」
「お師匠様!」
夜光とは、あっけなく再会することができた。
「なぜ、玉髄君が? それに、そなたは……」
夜光は、青玉に目をやった。青玉は頭巾を下し、拱手する。
「龍師青玉と申します」
「おお……!」
夜光には、青玉が何者であるか如実にわかったようだ。丁寧に礼を返す。
「入りなさい、どうもただごとではなさそうだね」
夜光は、三人を庵に招き入れた。
「私が王都を離れているあいだに、そんなことが起こっていたとは……」
事情を聞いて、夜光はうなる。
「夜光殿、このようなことはお尋ねしたくないのですが」
玉髄はそう前置きした。
「夜光殿は、阿藍と何らかの繋がりをお持ちですか?」
夜光は目を閉じ、しばらく何かを考える。
「近頃は、ないな」
「近頃は? ということは……」
「あの者とは行動をともにしていた時期がある」
「何ですって!?」
一角は、あっさりとんでもないことを言ってのけた。
「だが、もう二十年以上も前の話だ。ともに山中で修行していた。あやつは琥符よりも、不老不死の術に強い関心を示していたな。もとは普通の方士を志していたようだから」
「方士から、特に琥師を志した理由は?」
「野心、かな。いや、それが正しい言葉かどうかはわからないが……」
夜光は視線を下に落とした。
「二十年前の峰国といえば、琥師の名声が高まりだした頃でね。腕のいい琥師はそれはもう尊敬されたものだ。彼女は華やかなことが好きだったから、ちやほやされるこの道を選んだんだろう」
「さいてーです」
一角が唇を尖らせた。幼い頃から琥師になる修行を積んだ彼女には、不純な動機に聞こえたらしい。
「だが、不老不死の探求も続けていたようだ」
「不老不死、というのは……どのような?」
「不老不死にもいろいろある。老いる肉体を捨てるとか、薬で体を金属に変えてしまうとか、あるいは天に昇るとか。彼女の場合は、生まれ持った肉体をひたすら老いないようにできないか、考えていたようだ」
「どうして、関わりを持たなくなったんです?」
「龍師に手を出し、ひどい傷を負わせおった。騎龍の術を、琥符に応用したいと言って」
「龍師に!?」
一角と玉髄は、同時に青玉を見る。青玉はポカンとした顔だ。
「青玉、知ってた?」
「いえ、記憶にはありません」
夜光は、わずかに目元を細めた。
「私は恐ろしくなって、あやつとの付き合いを断った。山を下り、俗世間に交わり、琥師以外の者と友人となり、気がつけば王宮に出入りするようになっていた」
その頃、玉仙と出会ったという。ウマが合ったこともあり、玉仙の支援を受けながら、夜光は琥師としての地位を確立していった。
「それから十年……崩国の妖魅を封印した頃に、あやつは宮廷琥師として私の前に現れた」
龍師を襲った件は、世間には知られていないようだった。
「十年のあいだ、一体何をしていたかは知らぬ。そして宮廷琥師になったあとの十年も、交流はなかった」
「そうですか……」
「お師匠様、なぜ阿藍は玉髄を狙ったのでしょう?」
「話を聞く限りだが……玉髄君の辟邪の血を狙っていたのだろう。廟のことはついでだな。玉髄君の血で、琥符を作るつもりだったのだろう」
「俺の血で!?」
思わず声を上げた。
「だって……人間の血ですよ?」
「血というのは、生命の輝きが溶けるものだ。はるか古から、神への供物に使われることさえあった」
「神への供物……」
「だから、わたしも力を取り戻したんですよ」
青玉が口を挟む。
「一番最初は、あなたの指の血。そしてこの前は、あなたの心臓から流れた血で、わたしは力を取り戻したんです」
「玉髄君、彼女に血を捧げたのか?」
「偶然というか、怪我の功名といいましょうか……」
玉髄はぽりぽりと頭を掻いた。
「ともかく、辟邪の力を持つ者の血で作った琥符は、最高の力を発揮する。普通の妖魅に対してはもったいないほどの力をな」
つまり、普通以上の力を持った妖魅に対するためのものということだ。
「私も辟邪の血を使ったのは、ただ一度だけだ……」
急に、夜光の表情が暗くなった。
「崩国の妖魅を封じたときの琥符。あれには、そなたのお父上の血を使っている」
「父さんの……?」
「そうだ。思えば、玉仙こそまことの英雄だった」
血を捧げ、命を捧げ、国を守った。夜光も戦ったのは同じだが、死んだ者を尊く感じるのは、感傷が混じるからだろうか。
「あの女は、崩国の妖魅の封印が間もなく解けると言っていました」
「ありえぬ」
夜光は即座に否定する。
「私が生きて健在でいる限り、琥符の力は失われぬ。意図的に術を解く気もない」
「それを聞いて、安心しました」
「しかし、君を襲ったという点からして、阿藍が何かしようとしているのは間違いないだろう。琥師として見逃せぬ」
「協力していただけますか」
「もちろんだ。我が友と守りしこの国で、無法な行いはもうさせぬ!」
夜光には、ほかの琥師にはないものがある。この国を守ろうという強い意志だ。彼の友がそうしたように、彼もまた命を張ることのできる心の持ち主だ。
「それに、そなたらを守るのは我が誓いだ」
「お師匠様、それはあたしたちも一緒です」
一角が、キッと表情を引き締める。
「お師匠様は、大妖魅封印の要。何としても、お守りいたします」
「ありがとう。すっかり頼もしくなったな」
夜光は一角の頭を撫でる。どこか子供扱いされているような気がするが、一角は嬉しそうにニコニコしている。
「ともかく、山を下りよう。阿藍への手がかりを探そう」
『その必要はない』
突然、四人以外の声が庵の外からした。窓からうかがうと、庵の前に人影があった。
『出てこい、夜光、一角、青玉、玉髄』
それぞれの名前を呼ばれた。思わずぞっとするような嫌悪感を覚える。
様子をうかがうと、すでに庵のまわりは包囲されていた。多数の人妖が、四人が出てくるのを待っている。
「馬鹿な、この山には結界を張ってある! 妖魅は入れぬはず!」
『生憎と、某らは妖魅じゃない。人だよ』
愕然とする夜光の声に、戦士のくぐもった声が答えた。中の会話まで聞こえている。余計な相談もできない。
「か、囲まれてる。どうしよう?」
「一角、落ち着いて。わたしと玉髄で、道を開きましょう」
「できるか、青玉?」
「ええ」
まず、玉髄と青玉が庵を出た。玉髄は剣を抜き、青玉は被いていた衣を取り払っている。
「お前は!」
人妖の中に、異彩を放つ者がいた。銀色の辟邪獣の面、金色の鎧。曲刀を携えた男――阿藍とともに一行を襲った戦士だった。
「……俺たちの名前は知ってるだろう。貴様も名を名乗れ!」
『遷、とでも呼んでもらおうか』
その名乗りを聞いた瞬間、玉髄と青玉は飛びかかった。
玉髄の剣が、遷の曲刀で防がれる。流され、弾き返される。そのスキを狙って、青玉の蹴りが遷を狙う。両足首の金環が、軽やかな音を立てる。しかしその一撃は、遷もたじろぐほどの重さを秘めている。
戦士の動きを玉髄が封じると、青玉が人妖らを片づける。玉髄の攻撃が弾かれると、青玉が戦士と対峙する。玉髄の剣が、人妖の首を次々と刎ねる。
「ハッ!」
青玉が、両手を地面についた。両の脚を、まるで花が旋風に遊ばれるかのごとく、大きく開いて回転させる。その足首がふれた人妖の首が飛んだ。両足の金環が刃になっている。
二人の連携は、まるで舞うかのごとく絶妙なものだった。
「夜光殿、一角を連れて逃げてください。俺たちが喰い止めます!」
「すまん、無理はするな!」
夜光と一角が庵を脱出し離脱する。二人を追おうとした遷の前に、玉髄と青玉は回り込んだ。
人妖はすでにあらかた片づいている。
「玉髄、ここはわたしに!」
そうだ、あの面の内側には青玉の玉龍がある。この間合いなら、呪文を唱えられる。
「来い! 我が龍よ!」
青玉が叫んだ。彼女の言葉に、玉龍は反応するだろう。そう、遷の顔を覆う面、その額にはまる玉龍から、彼女の龍が現出する――筈だった。
しかし何も起こらなかった。
遷がゆるゆると刀を上げる。
『ハアアアア――ッ』
轟音とともに、曲刀があたりを薙いだ。さほど太さのない木々が斬り飛ばされて倒れる。
「わ――ッ!!」
玉髄らも逃げ出した。一目散とはこのことだ。
「青玉、どういうことだ! 龍、どうして出ない!」
「こ、ここの結界です! ここまで強力とは思ってなくて……!」
夜光の結界は、龍師たる青玉の霊力をも封じているらしい。彼の術は超一流ということか。
「橋だ!」
行きがけに渡った、岩の橋が見えた。
頭上を影がかすめた。橋の中ほどに、遷が降り立つ。行く手をさえぎられた。
「どうする……? ほかの道に逃げるか?」
「山の結界はまだ健在です。ほかの道は迷うそうですから……」
「やるしかねぇか……」
遷は左手を上げ、指先で招く。誘っている。戦いを望んでいる。
青玉が飛んだ。空中で回転して、遷のうしろに降り立つ。腕をひと振りすると、細長く白い布が現出した。青玉はそれを両腕に絡める。
玉髄も覚悟を決め、剣を抜いて橋に足を踏み出した。
挟み撃ちだ。
数合、三人は技を交えた。青玉と玉髄は、龍を使う者だ。細い足元には慣れている。
しかし、遷も一歩も引かなかった。体の均衡を上手く保ち、玉髄の剣を受け、青玉の攻撃もしのぎきっている。
(この体術、この剣技……)
刃を交えるうち、玉髄の中に疑問が生じた。遷の使う技を知っているような気がしたのだ。
「あんた、騎龍か?」
玉髄が問うと、遷の動きが一瞬止まった。
「ハッ!」
そのスキを狙って、遷の後方にいた青玉が細布を飛ばした。まるで鞭のように布は伸び、遷の曲刀に絡みついた。
「玉髄!」
「ああ!」
玉髄は一気に間合いを詰める。
遷が柄から手を離し、曲刀を放棄する――かのように見えた。
「ハッ!」
遷が柄から手を離した瞬間、その刀環から鎖が伸びた。袖の中に隠していた鎖は、遷の腕の動きにあわせて大きく弧を描く。青玉と遷を二点にした半円が、玉髄の後方まで飛ぶ。
遷が腕を引いた。鎖は玉髄の足元をすくい上げる。
「うおッ!」
玉髄は均衡を崩した。足が滑る。橋から落ちかける。
「く……っ」
どうにか橋の縁をつかみ、玉髄はぶら下がった。どうどうと滝の落ちる音が、妙に恐ろしく聞こえた。
「玉髄!」
青玉は曲刀から布を解き、玉髄のもとへ走ろうとした。しかしそれより一瞬早く、遷が大きく鎖を振った。曲刀は重量を感じさせる旋風となって、遷の手元に戻る。
『動くな!』
遷の一喝に、青玉の動きが止まる。
遷は悠然と玉髄に近づいた。橋にしがみついている玉髄の手を、ガッと踏みつける。
「うあッ!」
『お前も、騎龍となる修練を受けた身であろう。こういう手があるのを忘れるとは情けない』
遷は、刀に繋がった鎖をじゃらりと鳴らしてみせた。
騎龍は龍に乗って戦闘する。そのため、武器に鎖や紐を着けて、投擲してもまた手元に戻せるように細工している者は珍しくない。
「くそ……!」
『死にはしない。死を超えて、望むままに生きられる』
「玉髄――!」
青玉が遷に突進し――飛びかかった。青玉の細布が、遷の首に絡まる。
『何ッ!?』
そのまま青玉は大きく体を傾けた。谷底へ飛び込むように、微塵の躊躇いもなく。
「青玉!?」
青玉と遷はもろともに均衡を崩し、空中に投げ出される。
『うおおおお――ッ!』
「青玉――ッ!!」
玉髄はただ、二人が落下するのを見ているしかなかった。
|
四 |
「龍師殿が落ちたと!?」
夜光らと合流した玉髄は、青玉が谷底に落ちたことを告げた。
「道を外れたら迷う、と仰いましたね? 青玉たちはどこに……」
「川の流れまで、私は動かせない。水から出ず、そのまま流されれば山から出るはずだ」
「どのあたりですか、お師匠様?」
「ここよりすこし北だ。行ってみよう」
『その必要はない』
また、あの声がした。今度は頭上から。三人が見上げると、人の数倍はあろうかという大フクロウが羽ばたいていた。その頭部はどこか人間じみており、足は一本しかない。妖魅だ。
「あれは……青玉!」
フクロウの足に、青玉がしっかり捕えられている。全身を白い細布で拘束され、口にはその布を噛まされている。武器にしていた布を逆手に取られたのだろう。
「青玉を……青玉を離せッ!」
玉髄は大きく息を吸った。
「来い――」
「駄目、玉髄!」
突然、一角が玉髄の口を塞いだ。
「一角、そのまま玉髄君を押さえていろ!」
夜光が袖を振りかざす。
「我が力となる者、ここに承知し降り来たれ!」
夜光は呪文とともに、琥符を取り出した。黄金の光があたりを穿ち、夜光の身に降り注ぐ。
夜光の全身を、羽毛が覆った。夜光の姿は、やはり人の数倍ある大鴉へと変化していた。その翼が広がると、朱色の後光が鴉を覆う。
大鴉がフクロウに向かって、彗星のごとく突進した。フクロウはそれを紙一重で避けたが、朱色の光がフクロウをかすめると、羽根が飛び散った。後光にも相手を攻撃する力があるらしい。しかしフクロウは青玉を離さなかった。
『妖魅を憑依させたか……厄介な』
フクロウの背に乗っていた遷が、突如みずからの胸に刀を突き立てた。柄が胸板にふれるまで深く刺す。すぐさま引き抜いて、構え直す。
『ハッ!』
遷の曲刀が鴉を襲う。鎖をつけた刃だ。銀色の弧が空に描かれる。
鴉はそれを避けようとしたが、翼を軽く斬られる。
大した傷には見えなかったが――突然、鴉が空中でもんどり打った。あっという間に失速して、地面に叩きつけられる。
「お師匠様!?」
「夜光殿!」
地上にいた玉髄と一角が、夜光のもとに急ぐ。夜光は術が解けて、人間の姿に戻っていた。
「くう……」
『甘い、夜光。どんな姿になろうと、空中で某と戦えはしない』
遷はまるで諭すような口調だった。その胸には、大きく刀傷がある。だが血は出ていない。
「テメエ……一体何者だ!?」
玉髄が叫んだ。
『人だよ。ただ、血が出づらいから、心臓を刺す必要があるが』
「心臓を刺して生きられる人間がいるか!」
怒鳴ってから、玉髄は自分もそうだったと思い直す。
「って、それは青玉のおかげで!」
「玉髄、落ち着いて!」
玉髄らの動揺はそ知らぬように、遷は静かに告げた。
『我らが住処は士山。お前たちが尋ねれば、我が主の望みは果たされる』
阿藍を追えば、それが阿藍の野望を叶える。遷はそう言っていた。
「士山……だと!?」
『来訪を待つ。できれば、早めにな』
「待て! 青玉を返せッ!」
フクロウが大きく羽ばたいた。高度を上げ、北の方角へ飛び去っていく。青玉はついに離さなかった。
「……くそ!」
玉髄は歯噛みして、近くの木を殴りつけた。
「士山か……厄介なところに巣を作られたな」
ようやく起き上った夜光だが、眉を寄せている。体が痛むのだろう。
「厄介って、どういうこと?」
「……士山は、虹家の墓があるところなんだ」
人が死ぬと、その魂は廟に祭る。が、それとは別に亡骸を葬るための場所もいる。虹家は、士山という名の峻嶮な山に、その場所を持っていた。
「つまり、虹家の領地の中でも神聖な場所だ。阿藍はそこに潜伏している」
玉髄は、木を殴りつけた手を強く握りしめた。
「知らなかった、じゃ済まない。俺が行って阿藍を捕まえなければ、虹家は阿藍と繋がりがあったと言われるのは間違いない。……最悪だ」
玉髄は頭を抱えた。
玉髄を襲い、王国を混乱に陥れようとしている琥師、阿藍。その憎むべき相手が、ほかならぬ玉髄の領地にその拠点を置いている。
当主たる玉髄の胸には、ただ憤怒と忸怩たる思いがあった。
「すぐ士山に向かいましょう! 蟠湖の北です。そう遠くない!」
「待て、はやるな」
夜光が制止する。
「ですが、青玉も助けないと!」
「さらっていった、ということはすぐ殺す必要がないということだ。時間に猶予はある」
「で、ですが……」
「焦るな。みずから居場所を明かしたということは、何か企みがあってのことだろう」
「…………」
夜光は冷静だった。その落ち着いた様子に、玉髄も毒気を抜かれる。
「白水にそなたの荘園があるといったね? そこで装備や人員を整えよう」
「わかりました。ともかく、急ぎましょう」
白水の荘園に戻る頃には、陽が落ちていた。
しかし休んでいる暇もなく、玉髄は士山へ発つ準備を始めた。剛鋭に状況を報告した書簡を送る。そして荘園の長を呼び寄せる。
「若様、いかがなされましたか?」
「祖母様に連絡して、部曲の連中を集めさせろ。なるべく早く」
部曲とは、私兵集団を言う。領主が治安維持のために、公権力とは別の軍事力を持つのは珍しいことではない。虹家も、そうした兵隊をいくらか持っている。
玉髄は、地元の統治を祖母にほぼ一任している。その兵隊も彼女が率いていた。
「部曲を? いったいどうして?」
「もう話したと思うが、我々は阿藍という琥師を追っている。その琥師が、士山に潜伏しているらしい」
「何ですと!?」
「だから、我々の兵を差し向ける」
夜光が口を挟んだ。
「玉髄君、私は賛成できない。妖魅に普通の軍隊を当てても、返り討ちにされるだけだ」
「仕方がないんです! 我々が独自に動いたことを示さなければ、言い訳が立たない」
玉髄は、明らかに焦っていた。夜光の諌めも、それを募らせただけのようだ。
「それに、これは虹家の名誉回復の意味もあるんです」
王都の廟を破壊された。言わば、虹一族に対する最高の侮辱である。建国七公、そして武家の名門で知られる虹(コウ)の名に泥を塗られた。その汚名を返上するには、武力しかない。
「……このまま動かなかったら、祖母様にも何と言われるか」
その時、荘園の表がにわかに騒がしくなった。ドヤドヤと多数の者の声がする。
「表が騒がしいようだが……」
「もしかしたら、朱将軍かもしれません。見てきます」
玉髄はそう言って、部屋を出て行って――またすぐ戻ってきた。何かから逃げるように、早足で。扉を閉め、開かないように背で押さえる。
顔が蒼ざめている。尋常な様子ではない。
「ど、どうしたの?」
「もしかしてまた敵が!?」
「……がきた」
あまりに小さい声で、よく聞こえない。
「ガキタ?」
「ば――」
玉髄が口を開いた瞬間――扉が吹っ飛び、その前にいた彼も吹っ飛んだ。
どんがらがっしゃ、と盛大な音を立てて、玉髄は部屋の真ん中まで吹っ飛んだ。一角と夜光はただぽかーんとするばかり。頭が状況認識を拒否したらしい。
「玉髄!? うわああ、大丈夫!?」
ピクピク痙攣している玉髄を見てようやく我に帰り、あわてて彼を助け起こす。
吹っ飛んだ扉の方を見れば、何者かが片足を上げて立っている。蹴りだけで、扉を破壊し玉髄を吹き飛ばしたというのか。
ズン、と重い足音が響く。かの者が足を下ろした音だった。
「珍しく領地に帰ってきたと思ったら、挨拶のひとつもしにこない……」
入ってきたのは、武装した女人だった。結い上げた髪は白髪が多く、目元の皺は彼女の歳を示している。決して若くはない。
「ずいぶん偉くなったもんだねぇ。ええ? 玉髄よ」
女人は、床に伸びた玉髄を見下ろした。
「この歳で、孫に躾をしないといけないのかねぇ」
「ままま待った! 待ってください、祖母様!」
玉髄が、がっぱと起き上がった。
玉髄が祖母様と呼ぶ。すなわち彼女は――。
「もしや……元鎮東将軍の虹青河殿か?」
虹青河――先王に仕えた将軍たちの中でも、もっとも苛烈な戦をした女将軍である。すでに引退し、六十に届こうかという歳のはずだ。けれども眼光の鋭さは衰えていない。ついでに体型も、やや衰えは見えるものの、現役バッリバリの武人といったところだ。
「祖母様、どうしてここに……?」
「どうして? 知らせた者がいるのさ」
「朱将軍……ですか?」
「違うよ。ウチに出入りしてる方士どもさ」
「方士?」
「士山を任せてる連中さ」
士山――まさにいま、問題になっている場所である。
「士山を方士に任せた!? そんなの聞いてない!」
ところが、玉髄が知らないことがあったらしい。祖母と孫が口論をおっぱじめる。
夜光と荘園の長がなだめすかし、ようやく状況を説明できる状態になった。
「なるほど、だいたいの事情はわかった」
説明を受けた青河がうなずいた。シャンと伸びた背筋は、彼女は間違いなく武人なのだと感じさせる。
「けど、士山に賊? 馬鹿馬鹿しい。あそこは、方士どもの修行場にもなってる。不審な連中が巣を作りゃ、そいつらが報告してくれるよ」
「修行場って……なぜそんなことに」
「真面目に修行してると、紫雲と虹が下りてきて、天に昇れる場所があるらしいよ。そのあたりに、方士どもが集団生活してる」
「何ですか、その胡散臭い話は! それに士山に人が住むなんて……なぜ追い出さないのです!」
「墓のある場所とは別のトコだから、咎めることもないと思ってね」
「し、しかし……」
「いー加減にしなッ!」
青河が怒鳴った。女とは思えない、落雷のような声だった。
「あんたこそ、そこの妖しげな方士に惑わされてるんじゃないのかい!」
青河がビッと夜光と一角を指さす。
「祖母様、何ということを! この方は峰国の英雄、琥師夜光殿とそのお弟子ですよ!」
「夜光……?」
これで青河の態度は変わるだろう。玉髄はそう見込んで言ったのだが――。
「なら、なおさら許せないね! 我が息子を死なせて、のうのうと生きてる妖術師め!」
夜光は英雄だ。しかし青河にとってはまったく違っていたようだ。
「玉仙の亡骸には、足と腕が無かったのよ! なのになぜ、あんたは五体満足で生きてるんだい! 許せない! 絶対に許せないよ!」
「青河様、お気を鎮めてくださいませ!」
いまにも斬りつけんばかりにいきり立った青河を、取り巻きが押さえる。
夜光は反論しなかった。だが、ひどく悲しげに瞳を伏せていた。
「ともかく……士山に手を出すことは許さない。いいね!」
「…………」
玉髄はうつむいた。唇を強く噛み締めている。逆らえないのだろう。
「……どうやら、我々は招かれざる客のようだ」
夜光が口を開いた。一角も立ち上がり、身支度を整える。
「玉髄君。そなたは、ここで朱将軍の到着を待て」
「ま、待ってください! 夜光殿、一角!」
「玉髄!」
引き留めようとした玉髄を、青河の取り巻き連中がいっせいに押さえる。
夜光は青河の前に恐れもなく立つと、拱手した。
「元鎮東将軍虹青河殿、玉髄殿には大変なご迷惑をおかけしてしまいました。申し訳ない。どうか彼を責めないでやってください」
「そいつは、私が決めることだよ。私の剣が届かないうちに、失せな」
夜光と一角は、黙って礼をした。背を向け、屋敷から出ていく。
玉髄は取り巻きに押さえられたまま、うつむいていた。
「……こんなの、駄目だ!」
玉髄が顔を上げた。一番近くの者に肘鉄をくれ、取り巻きを振り払う。
「若様!?」
「すまん!」
謝りながら、剣を奪う。青河が好んで取り巻きに持たせている直剣だ。
「玉髄、あんた! 自分が何やってるか、わかってんの!」
「勘当でも何でもかまいません!」
玉髄は剣を抜き放ち、啖呵を切った。
「だけど俺は、俺に与えられた責務を果たします! 俺は虹家当主、そして王国軍紅龍隊、辟邪虹玉髄だ!」
当主としての義務、王国軍兵士としての義務。その両方を、果たす。
玉髄もまた、背を向けて走り出した。屋敷を飛び出すと、夜光と一角が待っていた。
「一緒に、来るか」
「あなたの護衛が、俺の役目です」
「まっすぐな目だ。……玉仙によく似ているな」
一角が琥符を取り出す。
「我が友たる獣、ここに楽しみ来たり遊べ!」
琥符と同じ、黄金の光が夜を照らす。風のように霊気がうずまき、一頭の馬が現出した。黄金の瞳を持つ、赤いたてがみの立派な馬だ。肩や蹄のあたりからは、霊気が羽のように流れている。華麗な装飾のついた馬具が、夜でもわかるほどの輝きを保っている。
「若様、お待ちください――っ!」
玉髄を引き止めようと、数名の男たちが屋敷から出てくる。
「乗って!」
しかし玉髄はそれに応じず、一角、夜光とともにその馬に乗った。三人乗ってもまだ余裕があるような、大きな馬だった。
「奔天、北の士山へ走って!」
一角の声とともに、馬は走り出した。闇夜の道を恐れることなく、風が三人を撫でる。あっという間に、荘園がはるかに遠ざかっていく。この馬はまさに、一日に千里を行くという駿馬のようだった。
「すごい……速い!」
「この馬なら、明日には蟠湖の北にいけるよ」
一角は誇らしげに笑い、手綱を操る。
「行こう、士山へ!」
馬蹄の音が、星空に高く響いた。
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