龍×琥オーヴァードライブ
第二章「如夢如仙」


 五日後――今日は、建国節の大詰めである。
 王都郊外では、夜通し地のかみを祭る大規模な儀式が行われる。王侯貴族らが参列し、民衆も大勢見物に訪れる。正月以来の大騒ぎの日だ。
「やーれやれ、見事に誰もいなくなったな」
 静まり返った屋敷の中で、玉髄ギョクズイはひとりごちた。
 今日の祭は、王都で暮らす誰もが楽しみにしている。玉髄は体も落ち着いたので、「遠慮することはない」と家人たちに外出を許した。そうしたら、ほとんど誰もいなくなった。なぁに、一日二日くらい侍女や下男たちがいなくても何とかなるだろう。
「若様、腕は大丈夫ですか?」
女茄ジョカか」
 女茄というのは、虹家の侍女のひとりだ。ふっくらぽっちゃりした体つきで、容貌も十人並み。けっして美人とは言えない。けれども歳が近く、変に気を張らないで済む。玉髄にとって、よい家人だった。
「お前は行かないのか?」
「はい。若様の腕のこともありますし」
「そうか、助かる」
 玉髄は、吊ったままの右腕を左手で撫でた。三ヶ月はこうしていろ、と医者方士に強く言われた。不便で仕方ないし、何より仕事も鍛錬もできやしない。国王を守った名誉の負傷だが、損害は大きい。
「何をなさいますか? 本でもお取りいたしましょうか?」
「いや、びょうの掃除をしなきゃ。女茄、用意して」
「ええっ、その腕でですか? 治られてからでも……」
「左腕は動くんだから、大丈夫。拭き掃除ならできるよ。そう念入りにはしないって」
 虹家の屋敷には、改めて塀で区切られている一角がある。外からはもちろんのこと、屋敷の中からも塀の内をのぞくのは容易ではない。
 そこは、虹家の廟堂だ。廟とは先祖の御霊みたまを祭る場所のことをいう。
 ただ虹家の廟堂は特別で、ただのがらんとした一室でしかない。正月や先祖の命日に一族が集まったり、一族で決めねばならないことを話し合うための場所である。
 では――御霊はどこに祭られているのか?
 廟堂の奥、当主の座のうしろに小さな出入り口がある。その奥に、中庭を挟んで本当の廟がある。そこに先祖の魂を祭っている。そしてそこに入れるのは、代々の当主のみ。しきたりで、そう決まっていた。
 玉髄は、さっそく廟堂に向かった。
「よっと……」
 廟堂奥の扉を開ける。身をかがめて、腕をかばいながら中庭に出る。
「はい、お道具です。落とさないでくださいね」
「ありがとう」
 廟堂の中から、女茄が桶を差し出す。桶の中には、掃除に必要なものがまとめられている。
「どうしましょう、お花の水も持ってきましょうか?」
「ああ。先にそうしようか」
 玉髄は、中庭を見渡した。芍薬の青さが増している。夏には香りの良い花が咲くはずだ。ここの花の手入れも、玉髄の手でなされている。
(ほかの庭は、下人に任せればいいんだけどなぁ)
 当主しか入れないのだから、供え物も掃除も花の手入れも、すべて当主の仕事だ。
「若様、お花のお水です」
「ありがとう、すこし待っていてくれ」
 花に水をやり、玉髄はいよいよ廟の扉を開けた。中に掃除道具を入れ、また女茄のもとへ戻る。女茄は手持ちの灯火を玉髄に差し出した。
「はい、灯火です。気をつけてくださいね」
「ん、ありがとう」
 灯火を受け取った。小さな火が揺れる。そして、また廟へ戻った。
 廟の中は、扉を閉めると途端に暗くなった。昼間でも薄暗い。玉髄は、手元の灯火を、すえつけの灯台に移した。これで、すこしは明るくなる。
 廟の床は石畳、そこに当主が座す場所がある。一番奥、一段上がったところに祭壇がある。祭壇にはそれをすっぽり覆うはたがかけられ、何が祭られているのか容易にはわからない。
 祭壇の両隣には、霊峰を模した大きな香炉が置かれている。花を飾る瓶もだ。そしてその脇に台がひとつある。玉髄はその台に、面を戻した。いつもはここに置いてある。
「えーと、香、香……っと」
 祭壇の横に置かれた香炉で、練香を焚く。さまざまな香木のほかに、霊芝などの高価な瑞草を混ぜ、蜂蜜で練り上げた高級品だ。それが火に焚かれると、紫の煙が細く昇り、独特のくぐもったような香りが立つ。
 女たちの香では窒息しそうになったが、これは落ち着く。慣れた香りだからだろうか。
 玉髄は腕をかばいつつ、当主の座に跪き平伏した。祭る祖霊、そして神への挨拶を済ませる。
「失礼いたします」
 立ち上がり、また一礼して祭壇の幡を取り去った。
 祭壇の上にあったのは、黒い棺だった。黒地に、朱色で霊草の文様が描かれている。それは見事だが、棺というには底が浅いだろうか。
 そして何より特異と言うべきは――棺の蓋の上に、玉衣ぎょくいが横たわっていることだろう。
 玉衣とは、死者に着せる特別な装飾着だ。玉を板状に削り出し、それを金や銀の糸で綴る。そして顔も胴も指先も足先も覆う、一着の衣に仕立てる。できあがった形状は、衣というより鎧に似ている。それを着せられた死者は、まるで兵士のようにも見える。
「今日は軽くしか掃除できないけど、勘弁な」
 玉髄は友に呼びかけるようにそう言うと、玉衣の表面を乾拭きし始めた。玉同士を綴る銀糸のあたりは、埃が絡まないように慎重に。
 玉衣は本来、高貴な人間の死装束だ。玉には邪を祓う力があり、その衣を着ていれば亡骸が悪霊に狙われることもない。死後を心配する人間のために、手間をかけて作る。そして墓の奥に収められ、人目につくことはない。しかし――。
「あれ、ご機嫌ななめ?」
 玉髄はまるで子供か恋人に呼びかけるように、玉衣に語りかけた。その全身を磨きながら、頭頂部のあたりに顔を寄せる。
 玉衣の頭頂部には、翡翠色の璧――中央にあなのある、円盤状の玉がはまっている。
 香の匂いが廟に満ちる。するとその璧の孔から、香の煙とは違う、透き通った青い霊気が流れ出してきた。
「ああ、よかった」
 玉髄がほっと胸を撫で下ろした。
 霊気がわだかまる。霞のような青色が固まって、床の上に座す。
青玉セイギョク
 玉衣から流れ出る霊気が形をなし、小柄な少女の姿に変わっていた。

 玉髄と彼女の付き合いは、もう三年になる。
 父・玉仙ギョクセンが死んで、虹家当主の地位は父の兄の子、すなわち玉髄の従兄に受け継がれた。ところがこの従兄は七年当主をつとめたのち、子を作らず世を去った。
 そのため、玉髄は十五歳で当主となり、廟の手入れが義務となった。しかし当時の彼には、それが最高に面倒な仕事だった。ぞんざいに玉衣を扱う日が何度もあった。放置することもしばしばだった。
 そしてある日、廟に入り玉衣を拭ったとき、玉衣の翡翠で指を切ってしまった。流れた血は玉衣のすきまを伝い、中に染み込んでいった。まったくの偶然だった。
 気がつくと、廟の端に霞のような者が座っていた。
 輪郭も表情も判然としなかったが、体の細くまろやかな形から少女だとわかった。
 驚く玉髄に、少女は辟邪獣へきじゃじゅうの面を与えた。目が大きく、角のある奇妙な面だった。
 玉髄はその面の力を悟り、武官として生きることを決意した。ただの武官ではない。騎龍たちを支援する者として、龍のそばで命を張ることにした。
 そして三年の月日が過ぎ、玉髄は劇的に変わった。
 人前で愚痴を零さない。涙を見せない。当主である悩み、武官である悩みを打ち明けない。自己の力を驕ることもない。まるで鋼か巌のように、強く、悟った風な振る舞いで世を渡る。世間の人には、玉髄の振る舞いが健気で謙虚に見えたらしい。宮中で彼を褒める声が、ちらついた。
 ――そう、表向きは。
「ああ、この腕? 聞いてくれよ、王宮で宴があったんだが……」
 玉髄は、少女に向かって愚痴を零し始めた。
 玉髄は愚痴も悩みも自慢も、彼女に与えていた。そうすることで心に平穏を得ている。誰にも言えない悩みも、見せられない弱みも、すべて彼女に吐き出していた。
 少女はただ微笑んで、それを聞いてくれる。
三月みつきだと。参っちゃうよなぁ」
 玉髄は前髪をかきあげた。青玉が首をかしげる。彼女は言葉を話さない。うなずいたり、首を振ったり――仕草だけで玉髄に答える。玉髄もまた、その仕草で彼女の言わんとするところを悟れるようになっていた。
「まあ、君とは一緒にいられるけど。夏の魚とか、欲しいだろう?」
 青玉が嬉しそうに微笑んだ。
 香を焚き、供物を捧げれば捧げるほど、彼女の形ははっきりとしたものになる。だから玉髄は、高価な香を惜しみなく使う。季節の花を食べ物を彼女に備える。
 すべては、彼女の表情を、見たいから。
「で、さ。将軍にからかわれてさ。困ったよ。でもまあ、女官たちは好きじゃないけどね」
 青玉が首をかしげた。
「ん? ああ、何というか、俺自身が好きなわけじゃないんだ、彼女らは」
 玉髄は彼女の疑問に答える。
「それに、俺は――」
 玉髄は言葉を切り、じっと青玉を見つめた。青玉はその視線に気づいて、首をかしげる。
「い、いや何でもない」
 玉髄は目を逸らした。暗くてよく分からないが、若干頬が赤くなっているかもしれない。
 玉髄は、青玉に惹かれていた。玉衣に包まれ、霊体でしか現れないこの少女が好きだった。
(ずっとそばにいてくれた。俺に力をくれた)
 二人きりで会い続けた日々は、玉髄にとってかけがえのない価値を帯びている。
 「青玉」という名前をつけたのも、玉髄だった。
「早く、目覚めた君に会ってみたい。君の声が……聞いてみたい」
 青玉は困ったように笑う。「もうしばらく時間がいる」と彼女の視線が語る。
「あ、いいんだ。すぐでなくて。ゆっくりでいい。君の体と魂が治るまで」
 青玉は肉体にひどい損傷を負い、玉仙に助けられて、ここで眠っているらしい。
 けれども傷が癒え、動けるようになったとき、彼女は甦る。玉髄はそう信じていた。
「楽しみにしてるよ、その日を」
 青玉がうなずいた。
「じゃ、そろそろ行くよ」
 玉髄が立ち上がると、青玉もそれに倣った。すう、と彼女の美しい肢体が散じて霧状になる。そのまま、玉衣の頭頂部に吸い込まれていった。
 霧が完全に消えたのを確認して、玉髄は玉衣を幡で覆い直した。
 また神と祖霊への礼をして、玉髄は廟をあとにした。



 その日は、月が明るい夜だった。いま頃、王都郊外はまさしくお祭り騒ぎだろう。
「若様、お客様です」
「客? 誰だ」
九陽門クヨウモン琥師、一角娘イッカクジョウと仰ってましたが……」
「一角が? ……通してくれ」
 急に、幼馴染が訪ねてきたという。玉髄ギョクズイ女茄ジョカに命じて、客間に一角を通させた。
「こんばんは、玉髄。突然ごめんね。腕の具合はどう?」
 一角は、白い長衣をきちんと着こなしていた。金茶色の短髪に、人懐っこい笑み。見慣れた顔だ。しかしどことなく違和感を感じたのは、月光のせいだろうか。
「ああ、いまは痛みも落ち着いた。どうしたんだ? こんな時間に」
「どーしても話したいことがあるの」
 一角の額に、銀の飾りが光った。
「このたびのこと、お見舞いもうしあげるよ。師も、たいそう申し訳なく思ってる」
「別に、九陽門の仕業じゃないだろう」
「でも、同じ琥師だから」
 一角は困ったような顔でうつむいた。
「お前のせいじゃない。だが、もう琥師を規制する動きは止められんだろうな」
 一角は黙ってうなずく。彼女自身、受け入れるつもりはあるらしい。
「どうして、あんなことになってしまったんだろう」
 一角がつぶやく。
「……もっと、強力な琥符コフを作る必要があるのかなぁ」
 玉髄は眉を寄せた。「そういうことじゃないだろう」と言いかけて、やめる。一角はそれに気付いた様子はなく、顔を上げた。
「あ、そうだ。コウ家にはさ、呪術とか伝わってないの?」
「呪術?」
「お守りの方法とかでもいいんだ。今後同じようなことが起こらないように、あたしたちも術をさらに円熟させる必要があるの。だから、もっといろんな方術を研究しなきゃ」
「俺の立場じゃ、協力は難しいぞ」
「え……どうして?」
「たとえ騎龍になれずとも、血と心に龍を飼ってるからな」
 玉髄はかつて、騎龍になるための訓練を受けたことがある。しかし家庭の事情でその中断を余儀なくされ、結局なれなかったという過去を持つ。
「血と心に龍? どういうこと?」
「建国七公、虹家の系譜。知ってるだろう」
 建国七公――峰国を築いた、一人の王者と七人の英俊たち。さまざまな伝説が彼らを彩り、いまも敬意と憧れをもって語られる。その中でも、王者ホウ氏とその同胞虹氏は特別だった。
「峯王家と虹家の始祖は、実の兄弟であり……その御親みおやは、龍であったと」
「きみに辟邪ヘキジャの血があるのも、龍の血統だから?」
「そうだと思う。いまの……騎龍たちの龍も、悪しきものを退けるしな」
 生まれついての辟邪の血。それによって玉髄は妖魅に対抗できる。そうした力を認められて、いまは騎龍たちに混じって武官として働いている。
 そう言いながら、玉髄は壁を見た。美しいこしらえの剣がかかっている。
「そうだ、一角。俺は騎龍以外の術はよくわからんが、こいつを見てくれ」
 玉髄は壁の剣を取った。瞳を閉じ、そのまま振り返る。
「綺麗な剣だね?」
「虹家には、多くの宝物が伝わる。これもそのひとつだ」
 そう言って玉髄は目を開け、剣をゆっくり鞘から引き抜く。一角の瞳に、一瞬――夜とは思えない光が宿る。
「見事な剣……」
 一角がつぶやくと同時に、玉髄は抜いた剣をいきなり一角に向けた。その表情から友情が消えている。
「ど、どうしたのさ。急に怖い顔になっちゃって」
「何が目的だ」
 低い声だった。
 一角は困ったように愛想笑いを浮かべる。
「玉髄……剣、しまってよ」
「てめえ、一角じゃないだろう」
「何を言ってるの? あたしは……」
「気の色が違う。この俺は騙されんぞ!」
 玉髄は秘かに望気の力を使っていた。力を発動させると、玉髄の目には、生物の周囲に色のついたもやが映るようになる。そして目の前にいる一角の気は、普段知る彼女のそれではない。
望気ぼうきの力ですか……そうと悟らせず気を見るとは、なかなかやる」
 一角の口元に、艶っぽい笑みが浮かぶ。その姿が蜃気楼のように揺れ、一角娘の姿が消える。代わりに、女がひとり座っていた。
「貴様は……」
 玉髄はわずかに剣を下げた。
わたしは宮廷方士阿藍アラン、いわゆる如意派に属する琥師にございます」
 見覚えがあった。王宮で何度か見かけたことがある。
 すらりとした体を白衣で包み、艶やかな黒髪は一部だけ結ってある。髷には金色の虎を模した簪を挿し、顔は方士らしく化粧が濃い。武器の類は持っていないようだ。
「お怒りはごもっとも。ですが剣を引いてください」
 阿藍が手を上げた。震えている。
「こうでもしないと、会っていただけない気がいたしましたので。無礼をお詫びいたします」
 女は頭を下げた。こうなると予見しつつ、玉髄たちを騙して会おうとしたのか。相当な覚悟でここに来たということだろうか。
(確かに、如意派だと知っていれば会わなかっただろうな)
 玉髄は剣を引き、鞘に収める。丸腰の相手に剣を突きつけるのは趣味ではなかった。
「妾はただ、琥符をもっと強いものにしたいのです」
 女は媚びを含んだ動作で立ち上がり、玉髄にスッと近づく。
「あなたの辟邪としての性質も……よくよく調べてみたいものです」
 そう言って、女は玉髄の頬に手をさしのべた。化粧の濃い顔、白粉の匂いのする指、濃い香がくゆる袖――玉髄が嫌いな種類の女だった。
「琥符を強くしてどうする?」
 玉髄はしかめた眉も隠さず、女の手をどけさせる。女は手を引いた。長い袖に両手を隠す。
「崩国の妖魅」
 女の唇がその単語を唱えた瞬間、玉髄の表情が変わった。
「それさえも操れる琥符を、創れるとしたら――?」
 玉髄は一瞬固まった。女はまるでそれが当たり前と言わんばかりに、悠然としている。
「……馬鹿馬鹿しい」
 玉髄は数秒考えてから、ため息交じりにそう結論した。
「大妖魅は、蟠湖ハンコの奥底に封じられている。妖魅を封印した術師も健在だ。どうやって新たな琥符を打てるというんだ?」
「その封印が――間もなく解けるとしたら?」
「何ッ!?」
 いま何と言った? 大妖魅の封印が解ける?
 玉髄は、初めて心に冷たいものを感じた。表情にも出ていただろう。
 しかし阿藍は意に介さず、言葉を続ける。
「そのために、あなたが必要なのです」
「……なぜだ?」
「新たな琥符を作るために」
「わからんな。俺は琥符の術は知らん。それに、協力できるような気分でも状況でもない」
「協力していただけないと?」
「ああ」
「残念、残念です」
 女の手が袖先からチラリとのぞいた。
 突如、女の手が閃光のように動き、玉髄の腹に押し当てられる。玉髄の左腹に、何かが喰い込んだ。熱い痛みが襲ってくる。
「う、お……!」
 一瞬のことだった。あまりの痛みに息がつまった。膝をつく。刺されたのか。
 女はすっと玉髄から離れ、軽やかな足取りで部屋を出て行こうとする。扉に手をかけ、そして振り向く。
「な……何を……!」
「すぐに楽になるわよ。静か、静かにね」
「待……て……」
「虹家には至宝を封じた廟があるそうね。ついでに調べさせてもらう」
 勝手なことを言いつつ、女がニヤリと笑う。これが本性だろう。そのまま出て行った。
「くそ……!」
 残された玉髄は、迂闊な自分に歯噛みする。ともかく、このままではまずい。
 女が手を押し当てたところから、白煙が上がっている。服を焼き、何かが皮膚の奥に突き進もうとしている。
 玉髄は帯を解き、服を脱ぎ捨てた。腹部の左側に、金色の四角い金属がめり込んでいた。
「これは琥符……!? いや、ともかく、外さないと……!」
 その金属には見覚えがあった。琥師が使う符――魔封じの琥符だ。
 ともかく、取り除かなければ。玉髄は宝剣を手に取り自分に向けた。布で巻かれた右腕で刀身を押さえつつ、琥符の刺さった皮膚に突き刺す。そのままテコのように剣を操り、琥符をくじり出した。
「あ……ぐっ」
 ずる、と黄金の琥符は腹から落ちた。琥符の裏面から鋭いトゲが四本、突き出ている。皮膚に触れた瞬間、このトゲが出て喰い込むのだろう。
 玉髄にも、かなり深くまでそれが喰い込んだようだ。傷から血があふれてくる。
「痛えな、畜生!」
 思わず脇腹を左手で押さえる。だが、そんなことで血は止まらない。玉髄は服の袖を破いた。腕を吊っていた布も解く。服の切れ端を傷に押し当て、その上から吊り布を巻く。片腕では上手く締まらない。
「若様、お飲み物を――」
 その時、女茄が盆を持って入ってきた。血まみれの玉髄を見て、盆を落とす。ガシャン、と大きな音を立てて器が割れた。
「きゃああ!? 若様、そのお怪我!?」
「女茄、誰か呼んでこい。外に出て、助けを求めろ。賊が……!」
「若様、しっかりなさって!」
「俺は大丈夫だ。行け!」
「は、はい!」
 女茄は忠実な侍女だ。玉髄にしたがって、あたふたと外に出ていく。
 玉髄は彼女とは反対に、屋敷の奥へと向かった。

 阿藍は、廟堂に至っていた。がらんとした暗い堂に、恐れ気もなく足を踏み入れる。
「まわりの塀からすると……この奥に、まだ何かあるのね」
 彼女は夜目が利くのか、すたすたと堂の奥へ進む。
「女! ここを虹家と知っての狼藉か!」
 玉髄の怒声に、女は振り向いた。
「琥符、外しちゃった? ダメぇ、血を無駄にしては。大事な血なのに」
「貴様、よくもいけしゃあしゃあと!」
 玉髄は痛みと出血で目がかすんでいた。怒鳴り続けなければ、気を失いそうだ。
「面倒、面倒」
 阿藍が袖を振った。金色の四角い塊が、いくつも床に落ちる。
「我が愛しきモノ、ここに承知し来たり遊べ」
 阿藍が呪らしき言葉を唱えた瞬間、廟堂の壁が吹き飛んだ。神聖な中庭に瓦礫が落ちる。
「――!?」
 小さな琥符が、十数人の人間に化けていた。矮小なものが大きく膨れる――その時の衝撃で、壁が壊れたのだ。
(いや、人じゃない)
 現出したのは、厳密には人間ではなさそうだった。どの者も丈の短い衣を着ているが、ガリガリに痩せている。目はせわしなく動き回り、口をだらしなく開けて、ひゅうひゅうと息を漏らしている。
「くっ……」
 片腕が利かないのに、比較的大振りの剣を持ってきてしまった。あまり長くは戦えない。技も荒くなるだろう。玉髄は剣で右手の甲を切った。血が剣を濡らす。妖魅を抑える辟邪の血。これさえあれば、すぐにカタがつく。
「フシャアアアア――!」
 人妖が吠えた。一斉に襲いかかってくる。
 玉髄は自分を基点として、剣ごと体を回転させた。人妖の第一陣が弾き返される。それらを飛び越えて襲いかかってきた者の腹を、狙って突き刺す。人妖の動きが止まる。
(手ごたえがない!?)
 しかし驚いたのは玉髄だけだった。確かに腹に剣を刺した。背中まで貫いている。しかし、肉や骨を割った重みはなく、布を切ったような感触がしただけだ。
 阿藍が愉快そうに笑った。
 玉髄に刺された人妖が、衣の合わせをくつろげる。胸部から腹部にかけて、ぽっかりと大きな穴が開いていた。剣はその穴を貫通しただけで、人妖の体を傷つけるには至っていなかった。
 玉髄は目を見張り――すぐさままぶたを閉じる。そしてカッと見開いた。望気の力が発動する。玉髄に敵の正体を教えてくれる力だ。こうすれば、敵の周囲に気が視え、その色や濁りによって相手の力を推し量れる。
 だが、玉髄の目には何も映らなかった。
「何だ、こいつらッ! 生気がない!?」
「ムダ。それは妾のお人形。辟邪の力は効かない。遊んでて遊んでて」
 阿藍はクックッと笑うと玉髄に背を向ける。四苦八苦する彼を尻目に、廟の扉を開け放つ。
「まあ……!」
 玉衣を見て、女は興奮していた。月光だけが射し込む廟に、ためらいなく歩み入る。
「すごいすごい! 虹家は、こんなモノを祭って隠していたの!?」
 見事な織りの幡、霊山を模した香炉、黒い棺の上の玉衣、目の大きい獣の面。そこはまさに宝の蔵に見えたようだ。
「いいお面ね。辟邪獣を模して……この璧は、もしかして玉龍かしら?」
「さわるなァァ!」
 玉髄は人妖を蹴倒し、宝剣を放棄して、阿藍に飛びかかった。
 しかし玉髄の動きはかなり鈍っていた。避けられる。勢い余って、玉髄はそのまま祭壇に激突した。肋骨に響く。痛みに大きく息を呑んだが、何とか祭壇を背にして向き直る。
(ヤバイ……目がかすんできやがった……)
 腹の血が止まらない。それでも精一杯力を込めて、玉髄は女を睨む。
「渡さん……絶対に渡さんぞ……!」
 玉衣――青玉を渡すのだけは許せなかった。
「意外意外、執着がすごいのね。もっとアッサリした人物だって聞いてたのに」
 阿藍は失望したようにため息をつく。
「そんな様子じゃ、生きたまま捕まえるのも難しい難しい。綺麗に殺しても、首だけで襲いかかってきそう」
 ぐんにゃりと首をかしげる。不気味な仕草だ。
「徹底的に、殺して」
 阿藍は、生きている玉髄に興味を失ったようだ。残った人妖らに、冷酷な命令を下す。
「血は、あとで骨ごと砕いて絞るから」
 人妖の一匹が、宝剣を拾い上げた。剣の切っ先が、玉髄に向く。
 ご、と音がした。風の音なのか、剣が骨を裂いた音なのか。そのどちらにも聞こえた。
 玉髄の胸に、宝剣が突き立っていた。
「が……は」
 玉髄の喉の奥から、血が逆流した。廟の中にぶちまけられる。玉衣にも面にも、辟邪の血が降り注いだ。
 玉髄の口がわなないた。雑言だったのかもしれない。命乞いだったのかもしれない。それはわからない。ただ、血が噴き出す音がしただけだった。
 一挙に、玉髄の力が抜けた。玉衣に背中を預けるように、事切れた。
 まごうことなき、死だった。
「死んだ死んだ?」
 血まみれになって事切れた玉髄に、阿藍は近づいた。血溜りがその白い裾を濡らす。
 阿藍はまた別の琥符を取り出すと、無造作に彼の右肩に押しつけた。琥符からトゲが飛び出して、肉に突き刺さる。
 びくん、と玉髄の体が震えた。ただ生きているわけではない。琥符による反応だ。
「運びなさい」
 冷酷な女琥師は人妖に指示を出す。
 人妖たちは血溜りも厭わず、玉髄に群がる。そしてその体に触れようとしたとき。
「グ……」
 人妖の一匹が動きを止めた。
 四角い玉の板を綴った――玉衣の手が、人妖の顔をわしづかみにしている。
「ガガ……ガァッ!?」
 人妖の体だけが飛んだ。玉衣の手に、人妖の頭部だけが残っている。凄まじい力によってねじ切られていた。しかしそれを認識する前に――その頭部も、ほかの人妖に投げつけられた。
「何!?」
 阿藍は距離を取る。彼女の意志を汲んで、人妖たちも引いた。
 玉衣が動いている。玉を綴っている銀糸が切れる。手先を覆っていた玉が、床に落ちていく。廟の中に、無機質な音が響く。
 玉衣の下から現れたのは、白玉のような手だった。小さく、なめらかで、指の先まで美しい女の手。爪はほんのり赤く、艶かしい。
『玉髄、あなたを死なせはしない』
 くぐもった声が、玉衣の頭部から流れ出る。
 玉衣の中から霊気が噴き出した。風のようであり、しかし大気を白く濁らせる。霧か雲が出ずるようだった。玉衣全身の銀糸が、弾けるように切れていく。。
『我が名は青玉。ここに復活せり!』
 宣言とともに、玉衣が起き上がった。顔面部と胴体部の銀糸が弾ける。中にいる者が、まるでサナギから蝶が出ずるように、生まれ出る。しなやかな肢体、川のように長く伸びた髪、そのすべてから青い光を発している。瞳も青色をしており、夜だというのに鮮やかな光を帯びる。
 生まれたのは、青色に包まれた美しい少女だった。少女が一糸まとわぬ全身をさらすと、玉髄の体が揺らいだ。
「玉髄!」
 裸の少女は彼を支える。玉髄の肩口から、しゅうしゅうと白煙が上がっていた。琥符が肉を喰う煙だ。
「琥符を打たれた……? いけない!」
 少女は、散らばった玉の中から、円形のものを拾い上げた。玉衣の頭頂部にはめられていた孔のある玉――深い緑色の璧だ。
応龍オウリュウよ、の者の龍となれ!」
 少女はそう叫び、璧を空中に投げ上げた。
 彼女が乗っていた棺が、ひとりでに開く。中から漆黒の影がわきあがる。それは、龍の形をしていた。細長い蛇体、揺らめく須、鋭い爪――影でもわかる、その姿。そして通常の龍と異なるのは、二枚の翼が霊気になびいているところだ。玉髄の腹に開いた傷から、彼の体の中に入っていく。体のあちこちから黒いもやが漏れ出し、そして収まる。そのたび、体の傷が癒えていく。
 黒い影がすべて玉髄に入り込むと――璧が動いた。脇腹の傷に食い込む。その周辺の皮膚に、血管のような筋が浮かび上がる。
「玉髄、玉髄、しっかりして!」
 少女は玉髄を抱え、何度も呼びかける。胸元を血で染めた青年はぐったりしたままだ。琥符も肩口に喰い込んだまま、定着していた。
「お前たち! まとめて捕まえて捕まえて!」
「っ!」
 青玉が玉髄をかばうように抱き込む。人妖は意に介さず、二人に襲いかかった。
 その時、玉髄に変化が表れた。
「ウ……」
 カッと玉髄が目を見開いた。漆黒だったはずの双眸が、翡翠色を帯びている。
「シィイイィィ――……」
 噛み締めた歯のあいだから息を吐き出す。鋭く尖った犬歯がのぞく。裸の少女の腕に抱かれたまま、血まみれの上半身を起こす。表情は憤怒で染まっている。
 そして玉髄は、青玉の腕を乱暴に振り払った。
「駄目よ、玉髄!」
「――――!」
 玉髄は咆哮した。拳を振り上げ、人妖の群れに突っ込んだ。



「……ん、うう?」
 玉髄ギョクズイは目を覚ました。馴染んだ布の匂いがする。寝台の上でうつ伏せになって寝ていた。
「ここは……俺の、部屋か」
 自分の屋敷の、自分の部屋。馴染みのある風景を、ぼんやりと見つめる。
「変な夢を見たな……」
 しかも痛かった。苦しかった。ふう、と大きくため息をついた。玉髄はまだ寝ぼけた頭で、起き上がろうと腕に力を込める。
「……腕が折れてない?」
 気づいた。ぼうっとしながらも、右腕をしきりに動かしてみる。痛くない。三ヶ月は動かすなと言われていたのに。
「起きましたか?」
 涼やかな声がした。疑問も吹っ飛んで、玉髄は飛び起きる。
 いつからいたのだろう。寝台のそばにある椅子に、少女が座っていた。
 玉髄は目を見張る。少女に見覚えがあるような、ないような……しかし、会っていれば忘れられないだろう。
(あおいろ……)
 淡青色――少女の髪は、美しい空の色をしていた。体には白く透けるような衣を纏う。この国ではあまり見ない型の服だ。両腕と足首を白日に晒し、右腕と両足には金環が光る。それはまるで異国の天女のようである。
 夢の続きか、と玉髄は思った。
「そうか……俺、夢を見てるんだな」
「寝ぼけてます?」
 少女が首をかしげた。玉髄はそれを無視して、また寝台に突っ伏した。
「そうだよな、三ヶ月は治らないし。あんな琥師いるわけないし」
「ちょ……玉髄、寝ないでください! 大丈夫、うつつですよ。夢じゃありません」
 ひんやりとした手が、玉髄を揺り起こそうとする。けれども玉髄は目をしっかと閉じる。
「いや、もう寝る。眠い。起きたら……ああ、廟の掃除。青玉に何持っていこうか……」
「玉髄!」
「若様!」
 突然、別の声が降ってきた。グイッと強く引っ張られ、玉髄は上半身を強制的に起こされる。鼻をつままれ、思わず口を開ける。何かが流し込まれて――。
「ぶわっ、苦ッ!」
 玉髄は、流れ込んできた液体を吐き出した。舌が痺れるような苦さだ。
「何、何が……」
 玉髄は混乱しながら、ようやく目を開けた。またがっしと顎をつかまれる。何かを飲まされる。突き刺さるような苦味が、胃まで落ちていった。 
「ウわッハ、ガッハ! ゴホッ、苦い! 何だコレ!?」
「若様、お気を確かに! さあもう一口!」
「いー加減にしろっ! 起きたわ!」
 玉髄は咳き込みながら怒鳴った。
 女茄ジョカが怒ったような赤い顔で立っていた。手には泥水のような茶色の液体が入った杯。おそらく気付け薬だろう。それを玉髄に飲ませたのだ。
「女茄! 突然何する……」
 玉髄がさらに叱ろうとしたとき、女茄の瞳にみるみる涙が溜まっていく。
「若様! 若様ぁぁ〜〜!」
「うわっ、ちょっ、泣くな!」
 女茄が泣き出した。玉髄は当惑する。他人の泣き顔はすこし苦手だった。目を真っ赤にされ、鼻を鳴らされると、もうどうしていいかわからない。
「若様、よかったぁぁ〜〜! あんなことになられて、もう、もう、若様が戻ってこないんじゃないかって〜〜!」
 女茄は杯を放り出し、袖で顔を覆ってまさしくオイオイと泣く。その傍に青い髪の少女が寄り添って、背を撫でてやっている。
 そこでようやく、玉髄はこれが現実だと思い至った。
「……青玉、なのか」
 青い髪の少女、その容貌はまぎれもなく三年馴染んだ友人のものだった。少女はうなずき、青色の瞳が微笑む。その青は髪よりもやや濃い。青空の天頂のような澄んだ色だった。
「本当に……?」
「はい」
「夢を見てるみたいだ……」
「大丈夫、ここにいます」
 少女――青玉は、玉髄の手を取った。ひんやりとした、体温の低い手だった。暑くなりはじめた空気の中で、それはとても心地よい。
「腕……治ってよかったです」
「そ、そうだ。俺の腕、治ってるのは君が?」
「はい。わたしの意を汲んで、応龍オウリュウがあなたを癒しました」
 玉髄は頬が熱くなるのを感じた。驚きと照れが混じって思考が止まる。何か言わなければ、と思うが上手く言葉にならない。
「わたしは甦り、あなたの龍師リュウシとなりました」
 龍師とは仙人の一で、人に玉龍を与える力を持つ。いわば騎龍と龍の出会いを仲介する者であり、その高い霊力と高潔な魂は崇拝の対象にすらなる。
「龍師? 俺の龍師って、どういうことだ?」
「それは……口で説明するよりも」
 青玉はひとつ息を吸った。
「応龍」
 その名を呼んだ瞬間、玉髄は自分の中に別の気配を感じた。体の中に翡翠色の光が閃く。そんな感覚が湧きあがった。
「何だ……?」
 腹部の左側から、ぼんやりとした光が服を通して放たれている。玉髄が戸惑っていると、女茄が玉髄の服に手を伸ばした。
「若様、失礼いたします」
 女茄が玉髄の帯を解く。寝巻の前がくつろぐ。
 玉髄の腹に、翡翠色の璧が貼りついていた。その璧が柔らかな光を帯びている。
「龍師青玉の名において、あなたに玉龍を与えました」
 ただの璧ではなく、玉龍――すなわち、龍を封じ込めた生ける宝玉。それを身につけるというその意味は。
「あなたは騎龍となりました」
「俺が……騎龍!?」
 龍にって戦う者。その力を得たという。
 まったく実感が湧かず、玉髄はただ目を丸くするばかりである。
「なるほど。ハッタリってわけでもなさそうだな」
 低い声がした。紅龍将軍朱剛鋭シュゴウエイが、寝室の入口に立っていた。
「将軍……どうして」
「どーしてもこーしてもないわ。建国節の最終日に、建国七公の虹家が賊に襲撃されて、大騒ぎにならないわけがないだろう」
 剛鋭はつかつかと歩み寄る。青玉に驚かないあたり、彼女とはもう顔見知りなのだろう。
「大騒ぎ、って……何日、経ってるんです?」
「若様は三日間、ずっとお眠りでした。その間に話が大きくなってしまって……」
「げ」
 女茄が答えると、玉髄は蒼ざめた。
「ど、どの程度の騒ぎに……」
「衛尉の連中も動いてる。陛下もたいそうご心配だ。それに……」
「将軍! もうダメですー!!」
 剛鋭が何か言おうとするのと同時に、同僚騎龍の悲鳴が聞こえてきた。ややあって、部屋の中に十数人の人間がなだれ込んでくる。長衣やら毛皮やら刺青やら……およそ普通の人間とはかけ離れた格好をしている。
 見覚えがあった。宮廷に仕える方士たちだ。かなり興奮している。
「玉髄殿を完璧に治療した仙人殿!」
「龍師殿! ぜ、ぜひその修法を我らにも教えてくだされー!!」
 玉髄はあんぐり口を開けた。何がどうなってこうなったのか、まったくわからない。
 だが、剛鋭は慣れているらしく腰の剣を抜き放った。
「面会謝絶だ! 出て行ってもらおうか!」
「ぎゃー!!」
「ぼ、暴力反対ー!!」
 実に荒々しく、剛鋭は方士らを追い出した。その仔細は想像にお任せする。
「……というわけだ」
「何ですか、いまの!?」
「そこの青髪龍師のせいだ!」
「不用意に霊力を使い過ぎたもので。方士の皆さんに、知られてしまいました」
 青玉はしゅんとうなだれる。玉髄はくらくらと眩暈を覚えた。
「と、とりあえず、状況が知りたい。説明……してくれるな?」
「はい」
 玉髄はようやく寝台から出た。寝巻の上から上着を羽織り、寝室の隣の部屋に移動する。
 剛鋭と対して座す。青玉は玉髄の隣に、当然のように座った。女茄はそのうしろに控える。
 青玉の話、女茄の話、剛鋭の話――三人の話を総合すると、だいたい次の事情になった。
 玉髄は青い髪の少女――青玉の力によって、死の淵から甦った。
 それと同時に、女茄の知らせを受けた王都警護の兵が虹家に踏み込んだ。そのとき、妖魅に乗って女の琥師が逃亡するのを、複数の者が見ている。残された人妖と戦闘が起こったが、青玉と玉髄によってすべて倒された。
 青玉の異形の髪色に驚いた兵士たちは、即座に騎龍たち――玉髄の所属する紅龍隊に知らせた。剛鋭らも駆け付け、現場は一時騒然となった。
「玉髄、手前は正気を失って、かなりヤバい状態だった。だが、それをそこの龍師が抑えたんだ。それでまあ、身元は怪しいがこうしてここにいられる」
 青玉の身元を証明するものはなく、本来ならば排除されても文句は言えない。しかし能力だけは認められ、紅龍隊が監視するという条件で虹家に残ることができたそうだ。
 そして三日が過ぎた。玉髄はずっと眠っていたそうだ。
 そのあいだに、王宮はひっくり返るような騒ぎになった。現役の宮廷琥師が、貴族の屋敷に押し入って当主に怪我を負わせ、逃亡したのだ。国王の命令で追跡隊が組織され、王都中を捜している最中だという。
「内密に処理するヒマもなかった。もうあちこちグッチャグチャだぞ。頭いてぇ」
 剛鋭が頭を抱える。ややこしいことは嫌いな性分なのだ。
「ま、だいたいはそんなところか。どうだ? 何か思い出せそうか?」
「ええと……」
阿藍アランの目的、動機……何でもいい」
 玉髄は記憶を辿る。
「……崩国の妖魅」
 ぽつ、とその言葉を口にした。途端に、剛鋭の表情が変わった。
「それが、もうすぐ復活するとか何とか……」
「何だとッ!?」
「そう、そうです。あの女、それで俺の力が必要だと言っていました。断ったら、いきなり琥符を打たれて……」
 記憶の中で動揺していた心が、いまの心を揺らす。
「そうだ、俺はあの琥符を……あ、いや、それは外したのか」
「玉髄、落ち着いて。琥符もまだあります」
 青玉が、玉髄の右の肩口を指差した。
 玉髄は手で探った。確かに、金属のような硬い感触がある。
「女茄」
「はい。若様、ご覧になって」
 女茄が鏡を差し出す。
 肩脱ぎになって金銅色の鏡面に肩を映すと、四角い符が皮膚に貼りついていた。おまけに、口元には常人よりも鋭く長くなった犬歯がある。
「その歯は騎龍の証のひとうだ」
 剛鋭がイッと口を横に引く。確かに、彼の犬歯も長い。
「いま玉髄の体には、三つのモノが混在しています」
 青玉は玉髄の体について説明し始めた。
「あなたは一度死に、肉体はおろか、魂までも琥符に支配されかけていました。それを助けるためには、あなたの魂と龍が合一し、琥符の支配を弾き返すしか方法がありませんでした。いまのあなたの状態は……あなたという核に、龍がまとわりついて、そしてそのスキマを琥符が耽々と狙っているという感じでしょうか。早急に琥符を体から外さないと」
 まるで滝のように、青玉はだばーっと説明する。いつ息をしているのかと思うほど流暢だ。
「ここまでの話、理解できましたか?」
 青玉が尋ねる。剛鋭は難しい顔をしており、女茄はぽかんと呆けている。玉髄も半分は理解できていないといったていだ。
「もっと簡単に説明してくれ」
「玉髄の中、人と龍と虎が混在中。龍と虎、敵同士。あなたの中で喧嘩中。困りました」
「理解できた」
「できたのかよ!」
「できたんですか!?」
 剛鋭と女茄がほぼ同時に突っ込みを入れた。
「で、虎を追い出せばいいんだろう? どうすればいい?」
 玉髄は自分でも意外なほど落ち着いていた。一番の問題はそれだと感覚で理解している。
「琥符を外す方法は、琥師にお尋ねしたほうがいいと思います。お知り合いに、詳しい人はいませんか?」
「あ、そうか」
 蛇の道は蛇。琥符の道は琥師に。
 夜光に連絡して、訊いてみればよいのだ。すぐに解決するだろう。
「待て」
 剛鋭が何かを察し、割って入る。
「いま琥師と連絡を取るのは許さん。手前を襲撃したのは琥師なんだろう?」
「そ、そうですが……」
「たとえ親しい者がいるとしても、だ」
 釘を刺された。玉髄はぐっと言葉に詰まる。
「で、ですが阿藍は如意派の琥師と言っていました。それ以外の琥師は無関係なのでは? それに、その如意派の連中を調べれば、犯人の行方もすぐ……」
「それなんだがな。調べてみたら困ったことに、『如意派』の連中は一枚岩じゃなかった」
「派閥の中に、またその……対立するものがあったということですか?」
「というよりも、『如意派』というのは『よく使う術の傾向が似てるだけ』というつながりだったらしい。まったく、ややこしいもんだ」
 九陽門ならば、夜光とその弟子たちでひとつの固まりを成している。「如意派」にはそういった繋がりがなく、いわば烏合の衆だったようだ。
「だもんで、あのあと如意派を名乗る者はあっという間にいなくなった。阿藍とは何の関係もないと言う奴もいるし、如意派なんて呼ぶなとキレる奴もいるし、どっかに逃げちまった奴もいるようだ」
 如意派と呼ばれた者は、以前も問題を起こしている。おそらくこれから、彼らだけでも王宮から排除しようという動きが起こるだろう。沈む船からネズミが逃げるように、「如意派」琥師らは保身に奔っているようだ。
「そういう訳で、阿藍の行方はおろか、誰が繋がりがあったかすらよくわからん状況だ」
 琥師の誰が敵で誰が味方か。その洗い出しから始めなければならないらしい。
「九陽門と如意派に繋がりがなかったとも言えない。コトは慎重に運ばねばならん」
「そんな……」
「ともかく、お前の記憶が一番重要だ。さっき崩国の妖魅がどうとか言ってたな?」
「ええ」
「ありえん」
 剛鋭は断言した。
「あれは虹将軍が命を賭して封印したものだ。そう簡単に復活するか?」
 虹将軍――すなわち、虹玉仙コウギョクセンが命を捨てて封印の手助けをした。十年前の話だ。剛鋭はその戦に従軍し、直属の上司であった玉仙が死んだのを目の当たりにしている。尊敬する上司が成し遂げたことが、そう簡単に崩壊するとは信じられないのだろう。
「あー駄目だ。頭痛くなってきた」
 剛鋭はぐるんぐるんと頭を回した。
「もうひとつ、訊いておこう。そいつは何者だ?」
 剛鋭は青玉に視線をやった。青玉は唇を尖らせる。
「そいつじゃありません。わたしには、青玉という名前があります」
「それもだ!」
 剛鋭が、ビシッと青玉に指を突きつけた。青玉はきょとんとしている。
「わかんねぇのは手前のこともだ! 龍師だなんて言ったが、青玉なんて仙人、どこにも記録がない。ならば妖魅かと思ったが、同じ名のバケモノもいない! 手前、何か隠してるな!?」
「記録にない、ですか。それはそうでしょう」
 当然のことだ、と言わんばかりに青玉はうなずいた。
「玉髄につけてもらった名前ですから」
 にこっと笑う。満面の笑みだが、穏やかでしっとりとした風情があった。
「本当か?」
「ええ……まあ」
「……お前らどういう関係なんだ?」
 剛鋭が呆れたように訊く。玉髄が青玉に視線をやる。青玉は答えに困ったような顔だ。
「た……大切な友人です」
 玉髄は意を決して、そう言い切った。
「三年前、俺は騎龍になれず荒れていました。その俺を救ってくれたのも、武官になる勇気をくれたのも、彼女です。俺はこの人にたくさん助けられました」
 言ってて何だか気恥しくなってくる。玉髄の言葉が途切れると、青玉が続けた。
「わたしは玉仙に助けられ、虹家のご厄介になっていました。わたしを世話してくれた人の中で、わたしを恐れず、いろんな話をしてくれたのは玉髄だけです」
 たがいに恩がある。与えるものがあり、与えられるものがある。その絆を一言で表すなら。
「かけがえのない、友人です」
 青玉が玉髄に同調した。玉髄は思わず顔を緩ませる。
「……惚気やがって」
「な……っ! どこか惚気てるんですか!?」
 玉髄はわたわたと否定した。しかし顔が真っ赤だ。
「玉髄、顔が赤いです。熱が出ましたか?」
「え、いや、ごめん。違うんだ。大丈夫」
「でも、もう休んだ方が」
「大丈夫だって!」
 心配する青玉に、玉髄はますます挙動不審になる。女茄がクスクス笑い、眉を寄せた剛鋭が怪訝そーな顔で見つめていたのは言うまでもない。
「まあともかく、これで多少は上に報告できるか」
 あーめんどくせ、と剛鋭はつぶやいた。将軍らしからぬ態度だが、戦いを無上の喜びとする武人にはよくあることだ。
「俺はこれから王宮に行く。玉髄、早く体調を落ち着けて復帰しろ。人手不足だ」
 玉髄は、しっかりとうなずいた。

「さあ、若様。お疲れでしょう。お休みください」
「……眠くない」
 三日も眠りっぱなしだった。目が眠りに飽きてしまっている。
「そう仰らず!」
 強引に寝台まで引きずっていかれる。玉髄は寝台に腰かけ、眉を寄せる。
「だってまだ昼間だろ? 暑いしさぁーもうすこしくらいは起きてても……」
「玉髄」
 青玉が玉髄の隣に座る。
「眠れないなら、きゅっとやって、ぎゅってしましょうか?」
「きゅっとやってぎゅ……?」
 玉髄は首をかしげる。まさか首でも締めるのか。
「具体的には、どうするんだ? 痛くない?」
「痛くはないと思います。やってみていいですか?」
「あ、ああ」
 白い腕が、すっと玉髄に伸びる。小さな手が玉髄の頭をとらえ、引き寄せた。そのまま、青玉も身を寄せる。その綺麗な胸元に、玉髄は抱かれた。
「…………」
 玉髄は固まった。犬の前に放り出された仔猫のようだ。
 青玉の柔らかな胸元。豊満ぼいんぼいんではないが、形が素晴らしくい。
 いい匂いがする。香りではなく、匂い。花が自然と香るように、少女の体は彼女自身の匂いで玉髄を包んでくる。
 しかも、青玉の体温は普通の人間よりはるかに低かった。ひんやりとした清涼感さえある。
(うわあああああああああああああああああああああああああああああ)
 ただしそれを感じられるほど玉髄の頭の中が冷静だったかは、確かではない。
「さあ、お休みしましょう?」
 青玉がそっと力を込めて、玉髄を寝台に押し倒した。小柄な体が、大きな男の体を横たえる。かなり誤解を生みそうな構図だ。
「横になって、休んでください。玉髄、まだ無理は利きませんから」
「ハイ」
 玉髄は素直にうなずいた。思考が完全に止まっているらしい。
 青玉は身を起こし、小さな手で玉髄の頬を撫でた。
「顔、赤いですね」
「だ、大丈夫だから……」
 玉髄はたまらず、目を閉じた。、
「玉髄」
 穏やかな声が、子守唄のようにも聞こえる。
「わたしは、あなたの味方です」
 玉髄は、口元に笑みが浮かぶのを止められなかった。
 青い髪の仙女を好きになるなど、普通の人間の感覚ではないだろう。けれども、この想いは止められない。
 間もなく、その笑みが消えた。玉髄は眠りに落ちていた。



 翌日。
「ん〜!」
 玉髄は久々に庭に出た。陽の光を浴びて、大きく伸びをした。
 夏の初めの空気が漂っている。庭の木々は健やかに伸び、濃い木陰を作っていた。
『ズゥちゃん』
「!?」
 木陰に入った途端、人の声がした。
 玉髄はあたりをキョロキョロと見回す。しかし声の主は見当たらない。
『ここ、ここ』
 木の上に、真っ赤な小鳥が止まっている。その鳥のくちばしから、人の声がする。
「もしかして一角か?」
『当たり! さすがズゥちゃん!』
「あとズゥちゃん言うな」
『てへ』
 幼馴染の琥師、一角娘の声に間違いなかった。
「それはいったいどういう方術だ?」
『比翼(ヒヨク)という鳥さんと仲良くなったの。比翼は雌雄一対で精神が繋がってるから、こうして言葉を伝えられるの』
「ほお……」
 妖魅を使役することを、一角は「仲良くなる」と表現する。
 玉髄は上を見上げ、小鳥をじっくり観察する。その鳥の足は一本しかなく、翼は片方が不自然に小さい。なるほど、ただの鳥ではなさそうだ。
「いいときに来てくれた」
『琥師阿藍のことだね?』
「耳が早いな」
『こっちにも多少とばっちりが来てるもんー』
 阿藍は九陽門とは対立する存在だった。しかし剛鋭の言ったように、周囲とどのように繋がっていたかはいまだ明確ではない。一角たち九陽門の琥師も、疑惑の視線があちこちから投げつけられるに違いなかった。
『何とか、あたしらは繋がりないって信じてもらえそうだけどね』
「夜光殿も、あの女とは何の知り合いでもないのか?」
『それがその……』
 一角は言い淀む。
『実は、お師匠様はいま王都におられない。屯日(トンジツ)に行ってらっしゃるんだよ』
「屯日……蟠湖のほとりの山間か?」
『うん、お師匠様の庵があるんだ。きみが襲われてるなんて知らずに、建国節の最後の夜に行ってしまわれたんだよー』
「夜光殿は、今回の騒動を知ってるのか?」
『知らないと思う。屯日の庵は、外界との接触を断つための場所だから』
「そりゃマズいな」
 疑惑は早めに晴らしておかなければならないものだ。放っておけば、余計な噂を伴って人をさらなる疑心暗鬼に駆り立てる。
 さらに、今回の主犯である阿藍の行方は、ようとして知れない。
「一角、阿藍は崩国の妖魅をどうにかしようと思ってるらしい」
『え……!?』
「あの女は、妖魅の封印が解けると言っていた。だけどそれを封じたのは、夜光殿だ。俺の襲撃に失敗した以上、もしかしたら夜光殿に接触しようとするかもしれない」
『……うん』
 一角の声が動揺する。
『ありえるかも。どうしよう、お師匠様が危ないのかな』
「ともかく、呼び戻すのがいいのではないでしょうか?」
「うおっ、青玉!?」
 いつの間にか、隣に青玉が立っていた。
『そ、そっちの人は?』
「初めまして。わたしは青玉。龍師です」
『あなたが噂の龍師さん!』
 一角の声が弾む。やはり青玉の存在もかなり広まっているようだ。
「それで、その比翼を遣っては駄目なのですか? 鳥なら早く行けると思うのですが」
『うん、駄目だねぇ』
「なぜだ?」
『屯日の庵のまわりには、お師匠様が結界を張ってあってね。妖魅は近づけないんだ』
「人を遣るのはどうだ?」
『山の中だよ。九陽門下じゃないと道がわからないと思う』
「直接呼びに行くしかないのか……」
 玉髄は肩をすくめた。
「実は俺も、早めに夜光殿にお会いしたい」
 玉髄は、自分の肩口に光っている符の話をした。
『なるほど、阿藍に琥符を打たれたの』
「俺自身、特に支障はないし、操られてる感もない。だけどかえって不気味だ」
『そうだねぇ』
「ともかく、一刻も早くこいつを外したい。方法はあるか?」
『無理矢理外すのは駄目だよ。血が止まらなくなっちゃう』
「そのようだな。別の方法は?」
『ないことはないけど……でも、どのみち阿藍を捕まえなくちゃ、どうしようもないよ。琥師の術は、琥師それぞれが編み出すもの。阿藍の術は、阿藍にしか解けないと思う』
 その阿藍の行方が知れない。玉髄は頭を掻いた。
『ともかく、すぐにでもお師匠様を呼びに行くよ』
「しかしあの女がどこに潜んでるかわからない以上、お前らだけで迎えに行くのは危ないんじゃないのか?」
 青玉と玉髄は阿藍を撃退したが、運がよかったとしか言いようがない。あの召喚術は脅威だ。一度に多数を使役し、しかも辟邪の血も効かない。百戦錬磨の武人を護衛にでもしない限り、安全な道中は保障されない。
『そ、そうだね……どうしよう。ウチの琥師は護身術くらいしか武術をしないんだ。年齢だって、あたしより下の子が多いし』
「うーん……」
 二人と一匹がうなる。
 と、玉髄が何かを思いついた。
「一角、明日参内できるか?」
『え、うん』
「二人で、陛下にお願いしてみよう」



「ど――ゆ――ことだ――ッ!!」
 剛鋭の怒鳴り声が、詰め所中に響き渡った。
「なぜ俺らが琥師の護衛せにゃならんのだ――ッ!」
 玉髄が復帰した翌日、国王から命令が下された。
『王国軍紅龍隊、屯日へ向かい琥師夜光と合流し、協力して阿藍の行方を追え』
 屯日までは、夜光の弟子である一角娘を案内人として随行させよ。夜光と合流したのちは、彼を護衛せよ。必要であれば、紅龍隊以外の人員の随行も認める。
 国王の命令は簡潔だった。しかし、騎龍たちが納得できる内容ではなかったようだ。
「何ですか、この命令は! 私たちに琥師のお迎えに行けと!?」
「なぜ我々が! 護衛ならば、常軍の者でもいいはずです」
「陛下は我々と琥師の対立をご存じないとでもいうのですか!」
「いや! 理不尽な命令が来るときは、たいていお偉いさんの心理的に近しい者が秘かに進言した場合が多い!」
「しかし、陛下の御心に近しい者というと……」
 そこで、全員がハッと気づく。七人分すなわち十四の瞳が、一斉に玉髄に向いた。玉髄は思わずサッと目を逸らしてしまった。
「手前かぁぁぁぁぁぁぁッ!!」
 剛鋭が玉髄に飛びかかった。玉髄は逃げる暇もなく、がっきと首を捕まえられた。
「ぎゃああああ! 将軍! 締まってます締まってます!」
「吐けぇぇぇ! 陛下に何を吹き込んだァァァッ!?」
「おっ俺はただっ、夜光どっのっが、あぶなっ、と、陛下にっ申し上げっあだだひぃいぃ!」
「何を申し上げたァァァァ!?」
 剛鋭は見事な関節技を極める。玉髄は小鳥が締められるような声を上げた。
 騒いでいると、詰所の扉が叩かれる。
「何だ!? こっちは取り込み中……」
「九陽門下、琥師一角娘と申します」
 空気が変わった。――と玉髄は思った。
 一角はひとりだった。美少女が表情を引き締めると、それだけで研ぎ澄まされた小刀のような迫力がある。金茶色の髪のあいだから、銀色の額当てが輝いていた。
「紅龍将軍朱剛鋭殿、こうしてお目にかかるのは初めてかと存じます」
 一角が拱手する。普段の能天気そうな雰囲気はかけらもない。
「陛下のご命令、もはやお聞きになられたかと思います。それは、あたしから陛下に無理を申し上げた結果にございます。どうか、虹辟邪殿をお責めくださいませんよう」
 剛鋭が手を緩めた。玉髄はようやく解放されて息をつく。即座に体勢を立て直して、一角を援護しようとしたが――それを一角が視線で制した。
「我らには浅からぬ怨恨あること、重々承知しております。ですが……」
 一角は深々と礼をする。
「我が師、夜光の身に危険が迫っているやもしれません。どうか日頃の恨みを忘れ、その玄妙な騎龍のお力をお貸しください」
「……夜光殿は、手前らの師なのだろう。迎えくらい、手前らだけで行ったらどうなんだ」
「九陽門は、まだ未熟な者が多いのです。お恥ずかしながら、師をお守りするだけの力を持つ者はほとんどおりません」
 剛鋭のいつもより低い声にも、一角は怖(お)じなかった。
「崩国の妖魅に関わることならば、と陛下はほかの武官の方々にもお声をかけてくださるそうです。ですが、時間が惜しい」
 まず要人への守りがいる。国王はそう判断したそうだ。
「夜光の命は、元紅龍将軍虹玉仙様がお守りくださったもの。この国のため、どうかいま一度お力を……!」
 剛鋭の肩が、ピクリと動いた。
「まだ危ないと決まったわけじゃねぇんだろう?」
「そ、それは……」
「退屈な道中のため、恨みを忘れる。その見返りはあるんだろうな?」
「な……っ、将軍!?」
 ほかの騎龍たちが色めき立つ。
「黙れ。どっちみちこれは陛下のご命令だ。つまらねぇ怨恨は忘れろ」
 一角の言葉が、剛鋭の琴線にふれたらしい。
「度量のでかいところを見せてやるのも悪くない」
 剛鋭がニッと笑う。
「ありがとう!」
 一角が、急にいつもと同じ声になった。にっこりと笑った顔は、太陽のようだ。騎龍たちが目を丸くしている。
「ありがとうございます。このご恩は、必ず!」
 一角は何度も礼をして退室した。
「……ありがとうございます、将軍」
「あれが、手前と親しい琥師か」
「はい……古い友人です」
「もし俺らが渋ったら、手前はどうしたんだ?」
 国王命令だ。拒否はできないが、遂行を渋るくらいはできる。時間が浪費される。
「そうなったら……俺一人でも、彼女を守ろうと思っていました」
「ひゅう、泣かす〜」
「惚気やがって、この裏切り者!」
「の、惚気てなんかいませんよ!」
 空気が解けていく。
 一角は単身乗り込んできた。度胸と誠意を示したのだ。根は陽気な騎龍たちは、そういうのが好きなはずだ。今度は自分があいだに立って、琥師らと協力する態勢を整えていけばいい。
 玉髄は覚悟を決めた。


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