龍×琥オーヴァードライブ
第一章「佩剣衝星」


「こいつはひでえな。何もかも乾いてやがる」
「ええ、本当にひどい有様です」
 荒涼とした大地に、数名の人間が足を踏み入れた。
「山は緑で、平野は枯野ですか。まだ春の終わりなのに」
 四方を見渡せば、かなたに山が見える。山々は季節にふさわしい鮮やかな緑を帯びている。
 しかし、目の前の一帯にその美しい色はない。土はまぬけな薄茶をさらし、見苦しくひび割れている。草木はすべて枯れ、無残な骸でしかない。
 まるでこの周辺だけが、日照りに見舞われたかのようだ。
「土地の者が言うには……この一帯は例年通りならば、青草に覆われる草原だということです」
「で、今年はこんなんだと。日照りとかじゃねーんだな?」
「ええ、天候は例年通りだそうです」
 話をしている者たちは、鎧を着けていた。全員が鮮やかな紅で統一されている。紅く染めた革、赤い綴り糸、朱の衣――その装備だけで、高度に統率された一団であることがわかる。
「おし、相手はひでりのバケモンだろう。油断するな」
 一団の長――紅龍将軍朱剛鋭シュゴウエイが、あたりを見回す。その視線は鋭い。大柄な体は鎧の上からでもわかるほど鍛えられており、まるで獅子のようだ。
 しかし彼の視界に答えうる異物はない。乾いた風が、薄い土煙を巻き上げただけだった。
玉髄ギョクズイ! 琥師コシどもは動いていないだろうな」
「その気配はえません」
 剛鋭に答えたのは、年若い男だった。
 将軍には及ばずとも、背丈はすらりと高い。鍛えられ、かつ引き締まった体をしている。髪は黒褐色、容貌は色男の部類に入るだろう。年頃の乙女を、もれなく騒がせる容貌だ。
「よし、手前てめえの眼、信用するぞ」
 そして印象的なのは、彼の瞳だった。色はありふれた漆黒だが、よくよく見れば瞳のふちは灰色を帯びた緑色をしている。宿す光は、太陽を直接含むものが一つ。そして世界から反射した柔らかな光が一つ。その二つが重なって、漆黒の眼に虹を含んだかのような艶やかさがある。
 彼の名は、虹玉髄コウギョクズイ。歳は十八。「辟邪ヘキジャ」と呼ばれる特異体質であり、「望気」と呼ばれる特別な目を持っている。額に獣を模した面を乗せ、いつでもかぶることができるようにしている。
「琥師の奴らが来ると話がややこしくなる。とっとと片付けるぞ!」
 七人の兵士たちが一定の間隔を空けて、横一列に並ぶ。中央は剛鋭だ。そして、七人の列の前方に玉髄が立つ。
「バケモノどもはどこかに隠れています。位置を特定しますので、そこにたまを撃ってください」
 玉髄が眼を閉じた。光が遮断され、眼球の表面が潤う。ひとつ息を整え、カッと見開いた。
「北北東、あの枯れ木の下です!」
「了解、攻撃を開始します」
 列の一番左端にいた兵士が、答える。
「来い! 我が龍よ!」
 兵士の声とともに、大気が渦巻いた。
 大気はやがて白く濁り、まるで霧のように視界をかすめる。
 それに応じるように、彼女の胸元から光がわきあがった。光の源はへき――あなのある円盤状の玉だ。彼女が首に下げた璧から、強い光が放たれている。
 やがてその光は、喉元の皮膚に写し取られる。菱形に集約し、まるで鱗だ。光の鱗が現れると、彼女の漆黒の瞳に鮮やかな黄赤色おうせきしょくが宿った。
 次の刹那、彼女は璧を天高く放り投げていた。紐が、尾のように空中でひるがえる。黄赤色の玉は、宙に舞う。その中央の孔に、同じ色の光が渦を巻く。霧が立ち昇り、璧を覆う。
 そして、それは現出した。
 すらりと長い蛇体。
 鮮やかな煌きを孕んだ鱗。宝玉のごとき、硬質な艶を含んだ眼。
 ――龍。
 鋭い爪と、牙、長いひげを揺らして、その生命は雄叫びを上げた。
「撃て!」
 兵士の命令と同時に、龍の周囲に霊気が巻き起こる。そのまま霊気は集約して彈となり、幾筋もの尾を引いて放たれる。そして、玉髄の指示した場所に着彈した。乾いた土煙が、光に焦がされる。
「――出ます!」
 ひび割れた大地を砕いて、空に飛び出す影がある。その数、数十体。春も終わりの空に、躍り上がった。
 それは、四枚の翼を持つ蛇の群れだった。それが飛び出した瞬間、あたりに強烈な熱気が発生する。
「よおし、出たぞ! 龍を出せ!」
 剛鋭の声に応じて、並んだ兵士たちから光と霧がわき起こる。霊力の噴出が、その二つのように見えるのだ。龍が次々と現出する。兵士たちはその背に跳び上がり、空へと飛び立つ。
 その兵士らを、人は騎龍と呼ぶ。「龍にる者」――峰国が誇る、最強の戦士だ。
「紅龍将軍朱剛鋭シュゴウエイ、ここにあり!」
 蛇体の踊る、空。春の日差しが、優しさを失う。
 そんな中、ただ一人、飛び立たなかった者がいる。玉髄だ。
 彼は額の上に乗せていた面を顔に下ろす。
 その面は、奇妙な獣を模している。蜻蛉のような、大きな眼の浮彫。眼窩には水晶がはめ込まれ、視界となる。加えて鹿のような角の装飾に、牙を剥いた口元。全体はぬるりと濃い銀色をした、異形の面だった。そしてその内側、額に当たる部分には玉がはめ込まれている。騎龍の璧と同じ、孔の開いた円盤状の玉だ。美しい青色をしている。
 玉髄はひとつ深呼吸をすると、自分の中の霊気を集中させる。体の中を流れる、雲のような霧のような霊気を、頭の芯に向かって集約させる。
「俺の声が聴こえますか」
『良好だ』
『こちらも良好』
 騎龍たちの声が、頭の中に響いた。この面には、騎龍らと思念で交信する力がある。
 玉髄は空を見上げた。水晶の眼を通し、大気に踊る霊気を見据える。
「四枚の翼……鳴蛇メイダです。熱気に注意してください」
『了解。全員、距離を取って戦え!』
 龍は霊気を彈とし、騎龍の意志に従って放つ。長く尾を引く者、雨霰と放つ者――それぞれに違う彈を操り、鳴蛇を撃破していく。
「右に五体、左三体、後方四体……」
 玉髄は思念を操り、騎龍それぞれに鳴蛇の行方を伝える。
 彼の目は、地上からバケモノたちの気を見ている。同時に、意識はまるで七頭の龍すべてを支配したかのように、空に飛んでいる。この面を被ると、いつもそうだ。ものすごく高い場所から、すべてを見渡して指示をしているかのような気分になる。騎龍たちもこんな感覚なのだろうか。
 その時、バケモノの気が天高く昇った。晩春の強い陽の中に、影さえも消える。
『どこだ! どこに行った!』
「将軍、上から来ます! 十体!」
 玉髄の思念に応じて、剛鋭の龍が彈を放つ。血紅色の彈が、まるで笠のごとく円形を形成する。逆落としを仕掛けてきた鳴蛇らは、それに激突した。
『ッシャ! ドンピシャだ!』
 剛鋭の声に、歓喜が混じる。そのまま剛鋭は剣を抜き放って近接戦闘に持ち込んだようだ。その気配を感じて、地上にいる玉髄も思わず心が躍る。
 鳴蛇が地上に落ちた。そのうちの一体が土中に潜る。
『玉髄君! そっちに一体!』
「――!?」
 うしろから、土煙を上げて鳴蛇の濁った気が迫ってくる。
 玉髄はその速度を見切って紙一重で避ける。
「うおおッ!」
 一歩下がったその瞬間、いまいた場所から鳴蛇が飛び出した。とっさにかざした革の篭手が焼け焦げる。凄まじい熱だ。
『玉髄!』
「大丈夫です!」
 返答しながら、玉髄は剣を抜いた。左の小指をその刃に滑らせる。皮膚が切れて血が剣ににじむ。
 鳴蛇が空中で一転する。牙を剥き、熱気とともに玉髄に突撃する。
「ハアッ!」
 玉髄は大きく腕を伸ばし、剣の先で引っかけるように鳴蛇を斬った。そのまま熱気から逃れるために距離を取る。
「ギイエエェエ!」
 鳴蛇が、のたうちながら地面に落ちた。それでも沸き起こる溶岩のような熱。玉髄は思わずひるんでしまう。
『玉髄、大丈夫か!?』
「ええ、何とか! 俺の血は辟邪ですから」
『ヘッ、悶えてやがる。よし玉髄、動くなよ!』
 素早い思念交信の直後、落ちた鳴蛇に龍の彈が降り注いだ。大地を砕き、砂を巻き上げ、派手に鳴蛇を吹き飛ばす。
「終わったか……」
 これですべての鳴蛇が倒されたらしい。
 玉髄は注意深くあたりの気を眺める。それらしい気はもう見えない。
「気の消滅を確認しました。お疲れ様です」
 七頭の龍が、いっせいに地上に戻ってくる。その様は、圧巻というほかはない。
「よし、龍をしまえ」
 騎龍らが地上に降り立つと、龍の姿は霧散した。
「おう、玉髄、大丈夫か?」
「ええ」
 玉髄は焦げた篭手を外した。熱が強く、焼けた部分がシウシウと音を立てて、広がっていく。間一髪避けたが、もうすこし熱が強ければ腕を持っていかれ、顔や体を焼かれていただろう。
「不覚でした。空ばかり見ていたので」
「手前は、変なところで抜けてんな。ま、大したことはなさそうだ。辟邪の血に助けられたな」
 ハハハハッと笑いが起こる。玉髄は、この仲間たちが好きだった。
「では、王都に戻りましょう!」
「ようし、手前ら! 帰ったら祝い酒だ!」
 いままでの緊張感はどこへやら。八人の戦士たちは、荒野を後にした。



 ホウ国――大陸の東の果てに位置する、小さな国だ。
 深大な湖を国土に抱き、川や泉に恵まれ、霊峰青山セイザンに見守られた豊かな土地である。
 その峰国、第百七代峰国王峯晃曜ホウコウヨウの御世、瑞雲二年。春も終わりの頃――物語は、始まる。
「鳴蛇討伐、大儀だった。さぞ、恐ろしいこともあっただろう」
 国王峯晃耀ホウコウヨウは、剛鋭ゴウエイら騎龍たちを労った。騎龍たちの末席に、辟邪玉髄ギョクズイもいる。
「我らは恐れを知りません。どうということもありませんでした」
「勇ましいこと。そなたらの話を聞くと、予も勇気がわいてくるようだ」
 王から直接言葉を貰うのは、大変な名誉だ。騎龍たちの任務が、重要なものであったことがうかがえる。
 騎龍たちの任務とは、妖魅退治である。
 妖魅――この世界は、バケモノと呼ばれる存在がやたらと多い。いつの間にやら空や土や水から生まれてきて、草を枯らし人を喰う。民の生活が脅かされ、貴族の屋敷が襲われる。
 そのため王国は古より、騎龍と呼ばれる人材を育成し、彼らだけの部隊を創り上げた。ひと同士の戦を主とする常軍とは別に、妖魅専門の戦力として独自の待遇を受け尊崇を集めている。
 その一つ、王国軍紅龍隊はたった八人の部隊である。ほかに三つの部隊があるが、そこも同じような人数だ。にもかかわらず、剛鋭に将軍の位が与えられているのは、峰国での騎龍の立場の強さを表していた。
「剛鋭、そなたは本当に強いね。どのような妖魅も、そなたらには敵うまい」
「もったいなきお言葉」
「そなたらの龍は、我が祖にも連なる聖なるもの。これからも、この国と民を護っておくれ」
「御意に」
 戦士たちは一斉に両手を胸の前で組んだ。右手を拳にし左手で包む――いわゆる拱手きょうしゅの礼をもって、国王に応えた。

 謁見の間から退出し、剛鋭らは詰め所に集まっていた。
 王国軍紅龍隊は、先にも述べたように八人の部隊である。うち一人にいたっては騎龍ですらない。詰め所には余裕があった。
「今回の任務もほぼ損害なく完遂した。陛下も大変お喜びのご様子」
 剛鋭が満足そうにうなずいた。
「よーし、祝いだ。街に出るぞ! 今夜は呑むぞー!」
「将軍のオゴリですかぁ!?」
「ばーか、手前てめえらにも褒賞が出ただろう」
 騎龍たちは酒でも飲みにいく様子である。ただ、玉髄だけは帰り支度だ。
「玉髄……は行かないよな?」
「あ、はい」
「えー付き合い悪いな」
「怒ってやるな。こいつは気楽な立場じゃないんだ」
 剛鋭が玉髄の頭にひじを乗せる。玉髄も身長はある方だが、剛鋭の方がはるかに高いためできる芸当だ。
「こいつン家、知ってるだろ? あの馬鹿でっかいコウ家のお屋敷だ。そんでこいつはそこの当主。台所事情はかなーり火の車なんだと」
 そう、玉髄は由緒正しき貴族である。ただ、いつも支援役に徹しているので目立たないが。
「そうなの?」
「ええ。当主といっても実権を握ってるのは祖母でして。祖母は、俺が王都勤めするのに反対してるんです。ただし……王都の屋敷を俺の禄と荘園一つの収入で賄うなら、許すと」
「あいっかわらず厳しいな」
 剛鋭が呆れたようにため息をついた。
 玉髄の家は峰国でも屈指の名門であり、その屋敷は貴族の中でも最上級に立派なものだ。それを維持していくには並大抵でない金がかかる。屋敷の保持に庭の手入れ、召使たちへの給金その他もろもろ。おまけにお勤めで使う武器装備の点検もある。そういうものに、玉髄の収入はほぼ消える。家柄は最高なのに、あまり余裕のある生活ではない。
「何だか地味な兵糧攻めみたいだな」
「まあ家人たちも四、五人で子飼いですし、何とかやってます」
「もっと給料のいいところに出仕すればよかったのに」
「それも思ったんですが……俺はやっぱり、龍のそばにいたいんです。騎龍になるためにずっと修行してきたんですから」
 玉髄が苦笑したのと同時に、詰め所の扉が叩かれる。
「開いてるよ、どーぞー」
「失礼いたします」
 丁寧に礼をしたのは女官だった。国王付きの侍女で、騎龍や玉髄とは顔なじみの女だ。
「騎龍の皆様方、鳴蛇討伐の儀、まことにおめでとうございます」
「用件は?」
「はい。陛下からお託けでございます」
 女官は袖を前で合わせたまま、丁寧な口調で告げる。
「次は蟠湖ハンコに向かっていただくことになります。また改めて、正式に勅命がございましょうが……そのおつもりで」
「蟠湖? また東部ですか。あそこに、何か異変でも?」
「その異変がないか、調査するようにとのことでございます」
「まあ、アレだな。最近、妖魅が騒がしいだろう」
 妖魅退治の依頼は増える一方だった。普通の人間で構成された軍隊では妖魅に歯が立たないことも多く、地方の領主たちからひっきりなしに救援要請が来る。
 王国軍は騎龍の部隊を四つ設けているが、最近は四部隊とも休みらしい休みもなく働かされている。騎龍は少数精鋭が売りだが、実際は人手不足もいいところだ。
「妖魅は我らの知識では計れぬ存在だ。もし蟠湖に悪影響が出るようなことがあれば大事だ」
 剛鋭が鋭く表情を引き締める。
「すぐに発った方がいいのか?」
「いえ、シュ将軍ならびに虹辟邪コウヘキジャ殿は、明日の饗宴にお出でいただくようにと……」
「やりぃ! 聞いたか、お前ら。明日までは休みだぞ!」
 一転、剛鋭は子供のように両腕を振り上げた。
 明日からは「建国節」と呼ばれる時期に入る。文字通り峰王国の成立を記念して、国中で祝賀行事が行われる。貴族である朱剛鋭と虹玉髄は、王宮での饗宴に出ることが許される。
「で、将軍らだけ宴に出て、俺らは先遣されるとか、そんな話じゃないでしょーねー?」
「……そんな話なのか?」
「いえ、騎龍の皆様方もしばらくは王都にいらっしゃってください。建国節ですもの」
「やったー!」
 無邪気とも言えそうな歓声が上がる。いい歳をした七人の戦士が歓喜している光景は、部外者が見たら目を丸くするに違いない。
 歓喜する騎龍たちを尻目に、女官は玉髄にそっと囁いた。
「蟠湖は、虹家の領地に近いそうですね。どうかご配慮を」
「我が君の御心のままに。そのつもりで準備いたしましょう。そうお伝えください」
「かしこまりました。ご武運を」
 女官は騎龍たちにも一礼して、退室した。
「よーし、今日はもう上がるぞー」
 赤備えの戦士たちは、呑気に詰め所を出た。途中までは全員一緒だ。八人でぞろぞろと歩くと、出会った文官・武官がそろって道を空ける。怖れられているのだろう。勇猛さを第一とする騎龍たちにとって、悪い気はしない。
「方士だ」
 その時、騎龍の誰かが小さく言った。
 廊下の向こうから、数人の集団が歩いてくる。方士――つまり、神仙の術を修める者の集団だった。彼らの風体は目立つ。もうすぐ夏だというのに毛皮を着ていたり、刺青をしていたり、髪をぼさぼさに伸ばしていたり、とかく普通の人間とは違う。
 彼らは道を空ける様子もなく、玉髄らとすれ違った。
 その一瞬――集団の先頭にいた少女がこちらに視線をくれる。金茶色の短い髪とまんまるの黒い瞳、銀色の額当てをした美少女だ。かなり目立つ容貌をしているうえに、人の視線を釘づけにするほど、胸元が豊かに膨らんでいる。
 玉髄は少女の視線に応じ、軽く首を振った。少女は黙ってまた彼女の正面を見据えた。
 二つの集団は無言で、たがいに遠ざかる。
九陽門クヨウモンの連中か。相変わらず妙な格好をしている」
 剛鋭が低い声でつぶやいた。
 九陽門――騎龍たちと対立する、琥師コシと呼ばれる方士の一派である。方士たちは騎龍と同じように、数は多くないが王宮で独自の勢力を保っている。その中でも琥師たちは強い力を持つ。
 その理由は騎龍たちと同じ。琥師もまた、妖魅退治の専門家だ。
「生ける英雄、夜光ヤコウ殿の門下ですか」
「お師匠の栄光を笠に着てやりたい放題とか。いっぺんシメますか?」
「フ、放っておけ。今度、新しくできる法が奴らの自由きままを奪う」
 物騒な部下の軽口に、剛鋭も鼻で笑って答える。
 ただ玉髄だけは黙っていた。驕っているのは、琥師も騎龍も同じなのではないか。ただ、琥師は歴史の浅い勢力であり、その分、反発を受けやすいのだろう。
「久々の王都と祭だ! 存分に楽しもう!」
 剛鋭たち騎龍だけが上機嫌で、王宮の門をくぐり抜けた。



 王宮から退出した玉髄ギョクズイは、騎龍たちと別れ、しかしすぐ屋敷に帰ることはしなかった。王都郊外にある「九陽門」の村庵を目指して馬を駆る。
 実は玉髄は、九陽門とは深い関係にあった。
 九陽門の主、夜光ヤコウは優れた琥師であり、また方術を使って加工した道具作りの名手でもあった。玉髄がいつも使う奇妙な面は、彼の手によるものだ。何か不具合があれば、玉髄は夜光に相談することにしている。
 玉髄は騎龍側であるため、王宮内では琥師と対立する立場だ。が、そこから出ればそんな対立は気にしないことにしている。それくらいの図太さは、玉髄も備えていた。
「……知られたら怒られるだろうなぁ」
 剛鋭たちには話していない。対立する勢力と懇意にしていることを。知られてはいるかもしれないが、問い詰められもしないのでそのままにしている。
 九陽門の門前に到着した。九陽門の敷地は塀で囲まれ、それなりに大きな土地なのがわかる。が、実際は質素な庵の集合体だ。塀と門が立派なので誤解されるが。その門には看板があり、古い字体で「九陽門」と書かれている。
「玉髄殿、お待ちしておりました」
 玉髄が挨拶がてら呼びかけると、馴染みの童子が出てきて応対した。
 童子に通された部屋で、玉髄は一息ついた。
「しばらくだったね、玉髄君」
 穏やかな声がかかった。
 琥師夜光――九陽門の主にして、峰国を大妖魅の魔の手から救った英雄である。
 そして玉髄にとっては、亡き父の親友でもあった。穏やかな顔には老い始めた人間の渋味がある。白髪が混じり濃灰色になった頭は、右の鬢だけを編んで垂らしている。あとは被髪ぼさぼさだ。
「今日はどうした?」
 夜光の問いに、玉髄は面を取り出した。例の、奇妙な獣の面である。
「此度の任務では東部に赴き、鳴蛇と戦いました。そのときに奴らの熱を受けてしまって……損傷がないか、見ていただけますか」
「珍しいな。鳴蛇なぞ、遥か西南の方の妖魅だ」
 夜光は面を受け取り、その表面を仔細に調べる。節くれだった指が、面の表を注意深くなぞっていく様は、どこか不思議なものがある。
「ふむ、問題なさそうだ。大切にしているね」
 そう言いつつ、夜光は面を玉髄に返さず、懐かしそうにその表面を撫でた。
「三年前、そなたがこれを持ってきたときは驚いたな。そなたの父がこれを持ち込んだときとそっくりだった」
 玉髄の父――元紅龍将軍虹玉仙コウギョクセン。夜光の親友、いまは亡き峰国の英雄。父が亡くなったとき、玉髄はまだ八つだった。父のことは、わずかにしか知らない。
 父は英雄、お前はその英雄の子。玉髄はそう聞かされて育ってきた。
 父は崇拝されている。そう感じることもあった。妖魅の脅威に晒されるこの国で、命を賭して大妖魅を抑えた父はまさに人々の心の拠り所だ。
「この面を持ち込んだとき、玉仙はまだ俗人ただびとでね。騎龍にならずとも騎龍の力が使えるかもしれない――そう言って、この面の基となった素材を持ち込んだ」
「これは一体、何でできてるんですか?」
「わからない。不思議な素材だ。刃を受け付けず、叩くことでしか形を変えられない。そしてこの璧。これは私がつけたものではない」
「完成した面に、父が独自につけたものだったのですよね?」
「そうだ。璧を額に直接ふれさせることで、騎龍の力の一部を発動することができる」
 騎龍の力の一部――すなわち、思念での交信。
「あまりに一部過ぎて、玉仙はがっかりしていたようだったがね。彼には貴族の当主としての義務があり、それでも騎龍になりたいと焦がれていたから」
 貴族の義務。夜光はかなり遠まわしに言ったが、ここではすなわち子を生して家を存続させることである。しかし、騎龍になるとそれができない。騎龍は結婚しないのが慣例だ。もっと露骨に表現すれば、陰陽交接――すなわち異性と性交渉を持つのを禁じられている。騎龍の生気は常人と異なるため、交わればたがいの体を害するのだそうだ。
 それを踏まえれば、その慣例には抜け穴があることになる。常人のまま子供を作ってのち騎龍になれば、何の問題もない。一部の騎龍はそう解釈して、子を生すことがある。
「それで玉仙は一、二年足らずで結婚して、その一年後にはそなたが生まれた。義務を果たしたとばかり、玉仙は騎龍になる儀式を受けた」
 虹家は名門だ。結婚相手を探すには困らなかったようだ。
 そう言われると、玉髄はすこし心が冷める。父は義務感だけで、自分を母に生ませたのではないか。騎龍になりたい一心で、母も自分も愛さずに、ただ死んでいったのではないか。そう思うと、英雄と称えられる父がすこしも偉くないように感じてしまう。
「お飲み物をお持ちしました」
 夜光に仕える童子が薬湯の入った椀を二つ持ってきた。
「もうすこし話がしたい。時間はあるかい?」
「あ、はい。大丈夫です」
「よかった」
 玉髄の内心をよそに、夜光は微笑んだ。
「今度のこと、玉髄君はどう思っている?」
「今度のこと……法を作るという、アレですか?」
「うむ。いままで、琥師を取り締まる法がなかったからな……」
 夜光が言う「今度のこと」とは、法による琥師の規制を指している。
 そもそも琥師とは、琥符コフを使う方士をいう。琥符とは、特殊な呪法を施した玉の符だ。表面には虎を意匠化した文様が刻まれている。この符には、魑魅魍魎を支配する力がある。
 琥符の術は、三十年ほど前に国外から流入した。妖魅が多く、その妖魅に対抗する方士・騎龍の数も決して多くはないこの国で、琥符の需要は急速に高まった。それに応じて、琥符の術に長けた方士である琥師も、峰国にやってきて定着していった。人々に安心を与える者、貴人に取り入ろうとする者――よく言えば自由に、悪く言えば無秩序に、琥師らは街角に現れるようになった。
 最近では、琥符で妖魅らを支配し、愛玩物として貴人に献上する琥師もいるそうだ。
「いまの時代、規律を作るとなれば、当事者の意見とそれ以外の者の意見を聞くのが道理だろう。しかしこれは方術だ。素人ではどうすればいいかがわかりづらいだろう」
 何が善で、何が悪なのか。常人ではわからないこともある。
「それで、俺の意見を? 参考になりますか?」
「ああ。騎龍側であり、しかし騎龍ではない君は何を見る?」
 騎龍とは、龍を操る者たちをいう。彼らは、玉龍ギョクリュウと呼ばれるへき――すなわち孔の開いた円盤状の宝玉を媒介として、龍を現出させる。人知を超えた術、それを操る点で騎龍たちは常人よりも方士に近い。ただ、方士と騎龍は別物と認識されることが多い。彼らは軍人としての性格のほうが強いのだ。
「騎龍と琥師の仲が悪いのもわかる。正反対とも見えるからな」
 峰国での騎龍の歴史は古い。伝説によると、建国の時から東方の霊峰青山を唯一の修行場と定め、過酷な修行が行われたという。それはいまも変わらない。師匠がいればどこでも修行する琥師らとは、まったく異なる。
「騎龍は琥師と違って……守るべき法も、すでに持っている」
 そして歴史が古いゆえ、厳しい掟がすでに形成されている。騎龍たちはそれを守っている。
 すべては龍が強大な力を持つゆえだ。悪用は国を滅ぼす。絶対に邪心を持つ者が使ってはならない。それが掟全体を貫く思想だ。騎龍になるには、掟を遵守することが第一の条件となる。
「掟を破る者には厳罰が下され、それでなくとも、厳しい修行で多数の脱落者を出します。それゆえ、我が国の騎龍たちは一枚岩。派閥に分かれ、好き勝手している方士には……あまりいい顔をしないのは事実です」
 玉髄はかつて、騎龍になるための訓練を受けたことがある。結局、騎龍になることはできなかったが、知識や体術には心得がある。
「だろうね。紅龍将軍などは、特に毛嫌いしているそうだね」
「いえ、まあ……毛嫌いってわけでもないでしょうけど」
 玉髄は言葉を濁した。
 宮廷のさまざまな派閥の中でも、騎龍と琥師は、特に対立が深まっている勢力同士だった。宮廷に仕える人数は、双方とも決して多くない。だから、おのれの地位を揺るぎなきものとするのに、双方とも必死だ。
 そして持ち上がった琥師規制の問題。騎龍たちは声高に賛成し、琥師たちは琥符の力に問題がないことを主張した。
「王宮ではここ数日、何度も話し合いの場が設けられている。騎龍たちは任務で席を外していることが多いが……まあ、な」
 王都から離れていても、手紙などで意見を述べることはできる。さぞ過激な手紙もあっただろう。
「しかし、規制は私も致し方ないことだと思う。琥師は琥符を使うという点では共通しているが、その結果行うことはそれぞれに違う」
「え、封印や操作ではないのですか?」
 琥符を打たれた妖魅は、力を抑えられて封印されたり、あるいは琥師の意のままに動くようになるという。そういう話をよく聞くが、それだけではないというのか。
「封印は、一番簡単な琥術コジュツだ。操作はその次に簡単かな。琥術の基本を押さえれば、誰でもできるようになる」
「へえ……」
「大事なのはそこからだ。そこから自分だけの考えを編み出し、それを一定の手順を踏んで発動する術の域まで体系化する。自分だけの琥術を編み出せた者こそ、一流の琥師だ」
「ということは、例えば、夜光殿と一角イッカクでは術に違いがあるのですか?」
「ああ。私は琥符を媒介として、この身に妖魅を憑依させることができる。だが、一角はまた違ったことをする。あの子は召喚――つまり、琥符を媒介として、特定の妖魅を遠方から呼び出す術を体系化した。私は一角の術は使えず、一角は私の術を使えない」
「知らなかった。てっきり同じ術を伝承していくのだとばかり思っていました」
「ああ、そうする場合もあるようだがね。ウチは違う」
 基礎は教え、あとはそれぞれの才能に任せる。それが九陽門のやり方だそうだ。本当に才ある者ならば、のびのびと羽を伸ばすことができるだろう。
「一角は、あの歳で自分の術を体系化した。これからが楽しみな子だ」
 夜光はそう言ってから、苦笑した。
「親馬鹿だったかな。これはあの子には内緒にな」
「あ、はぁ」
 玉髄は気の抜けた返事を返した。
「話が逸れたな。どこまで話したか?」
「ええと……騎龍は撃退、駆除。琥師は基本的に封印、操作。たがいに違う方法で、妖魅を退けると。それはいいと思います」
「うむ」
「それに、あなたがたにも実績があります。その力は、この国を救うに足りるものです」
 玉髄は慎重に、それでもしっかり自分の意見を述べる。
「でも、無法が許されるわけではありません。何でもかんでもやってみせると声高に言うのは問題かと。特に……妖魅を愛玩物にするのは、感心しません」
 玉髄が琥師を嫌悪するとしたら、その一点だった。
 見た目の珍しい妖魅、恐ろしげな外見の妖魅――それらを琥符で支配し、愛玩動物として飼うことが、一部の貴族のあいだで流行っていた。人が恐れる者を飼うのは、おのれの権威を高めてくれるように見えるらしい。貴族に取り入ろうとする一部の琥師にとって、それは好都合なことだった。
「権威を高めるのは、ほかの方法でやればいい。妖魅を使うのは危険すぎます。俺の家にも、妖魅を献上しようとした者はいましたが……断りました」
 玉髄の実家は、峰国でも折り紙つきの名門である。そこに縁を結びたがった琥師から「妖魅を差し上げましょう」との打診が過去にあった。全力で断り、お引取りいただいたが。
「どうして断った?」
「琥符で妖魅を支配したとして、その支配力は常に一定なのでしょうか?」
 断ったのには、嫌悪のほかにもきちんと理由がある。
 夜光の眉がすこしだけ寄った。
「術師の腕によっては、すこしのことで妖魅が暴走するとも聞いています」
「事実だ。世間は、琥符の力を過信している」
 夜光はあっさりと認めた。
 支配したはずの妖魅が、そのくびきから離れて暴走する。過去にはそうして起こった騒動もある。琥師の力不足が原因とか、琥符に欠陥があったとか、理由はいろいろと囁かれていた。
 それでも、世間は琥符の力を求める。琥師も力を伸ばし続ける。
「世間だけじゃない。琥師らも過信している。あれは万能ではないし、琥師だけではどうにもできない妖魅もいる」
「ええ。知っています」
 玉髄は目を閉じた。夜光の表情を見ないようにするかのように。
「我が父は騎龍でありながら、琥師とも協力し、この国のために戦いました。それでも、最後の戦いでおのれの命を引き換えにしました。龍の力も、琥符の力も、両方ともあったのに!」
「そうだ。二人で戦って、かろうじて崩国の妖魅を封印することができた。だが……」
 崩国の妖魅――十年前、突如として峰国を襲った悪夢。国を崩すほどの事件。玉髄の父は、その戦いで命を落とした。
「そうです。力とはそういうものなのではないでしょうか。絶対はないし、いいところも、悪いところもある。ならばせめて……節度を、求めます」
「そうだな」
 玉髄と夜光は、過去の戦いに思いを馳せていた。
 人間との諍いで、妖魅との戦いで、多くの者が命を落としてきた。そして、その者たちの家族が流した涙は、この国の川を満たすだろう。
「一角も、似たようなことを言っていた。いまこそ、琥師には法が必要なのではないかと」
「……そうですか」
 一角は琥師の中でも、規制を容認する立場らしい。もし同じことを思っているなら、まだ友情を持っていられそうだ。
 閉じた視界の中でそう思っていると――。
「ただいま帰りまし……あー! ズゥちゃん! 来てくれたんだ!」
 陽気な声がした。目を開けると同時に、背後から抱きつかれる。
 夜光の弟子、優秀なる若手琥師――一角娘イッカウジョウ。金茶色の短髪は、この国ではよく目立つ。方士らしい長衣に、縁に毛皮をあしらった短い外套、加えて銀色の額当てをしている。額当ては武具ではなく装飾品だ。全体に龍の文様が流れるように彫られ、額の左端からは白く短い角が一本出っ張っている。龍はその角を守るようにわだかまっているようにも見える。
 容貌は太陽のような美少女だが、その出で立ちのせいか異形の者にも見える。しかし玉髄は見慣れているので、それくらいのことでは驚かない。
「抱ーきーつーくーなー! あとズゥちゃん言うなー!」
「いやーん、ズゥちゃん冷たーいー」
 革鎧ごしに感じる圧迫感は、確実に彼女の胸だ。玉髄は座ったまま上半身を左右にねじる。一角は左右に振られながらも、しがみついたまま離れない。
「はーなーれーろー! おりゃあ!」
 玉髄は一角を背につけたまま立ち上がった。体をやや前かがみにすると、一角の足は簡単に地面から離れる。
「きゃ〜落ちる落ちるー」
「はい、もういいだろ。下りろ!」
「はーい」
 二人は幼馴染だった。十年以上前に、王宮で当時の王太子の遊び相手をつとめた仲である。一角が玉髄を「ズゥちゃん」と呼ぶのはその名残だ。
 とはいえ、玉髄は騎龍の修行のために、王都を離れていた時期が数年ある。そのあいだに、おたがいすっかり成長した。そのため玉髄はやや距離を置いて接しようとしているのだが――一角は昔のまま玉髄に懐く。
「一角、子供のようにしてはいけないよ。そなたはもう大人なんだから」
 そして一角を叱れるのも、子供の頃からずっと夜光だけだ。夜光は一角の育ての親でもある。孤児だった彼女を養い、宮廷に出入りを許される琥師にまで育て上げた。
「一角、それくらいにして。ほかの者たちの習練を見てやりなさい」
「はい、わかりました、お師匠様。……玉髄、またねー」
 ふりふりと手を振って、一角は素直に庵を出て行った。嵐が通り過ぎたようだった。
「すまないね、いつまで経っても子供で」
「いえ、まあ……いいこともありましたけど」
 玉髄はいたって真面目にそう言った。
「いいこと?」
「王宮の女官連中の色じかけに動じないで済む、とか」
 夜光がプッと噴き出した。
 ここに来ると、一角が何の臆面もなく抱きついたり目の前に座ったりしてくる。その豊かな胸ぼいんぼいんを喰らったことも一度や二度ではない。おかげで、玉髄は見目麗しい女たちからの求愛に、過剰な反応を返さないで済んでいる。むしろ枯れ木を見るような目をすることも可能だ。一角に勝る体の持ち主ぼいんぼいんにはいまだに巡り合えていないのだから。
「まあ、若いうちから堅実なのはいいことかもね」
 そういう夜光にも妻はいない。神仙の術を修める者に、配偶は必要ないのかもしれない。……というのは玉髄の素人考えだが。
「あ、そうそう。王宮といえば、夜光殿。明日の饗宴にはおいでに?」
 王宮で大規模な宴が開かれる。貴族や特別な功績のあった者だけが参列を許される名誉ある宴だ。夜光は貴族ではないが、生ける英雄である彼には資格があるはずだ。
「いや、今年は欠席だ。明日は天文の関係で、琥師の大事な修練の日にちょうどよいのでね。師である私が、皆を放り出して饗宴に参るわけにもいかない」
 夜光はまた苦笑した。というよりも、困ったように笑うのが癖なのかもしれない。
「王宮での饗宴には毎年出ていたし、建国節の大詰めにはきちんと参上するつもりでいる。陛下にはそれでお許しいただいた」
「そうですか……お会いできるかと思っていましたが」
「まあ、いまの王宮では話もできないだろうがね……」
 などと話しているうちに、手元の薬湯が尽きた。陽が傾きかけている。
「すっかり話し込んでしまいました。そろそろ失礼いたします」
「ああ、そこまで見送ろう」
 二人して、夜光の庵を出た。庵と庵を結ぶ簡素な回廊から、質素な庭が見える。そこでは夜光の弟子たちが、体術の習練を行っていた。
 琥師は、妖魅と対する方士だ。武術を行っていても不思議ではない。ただ――武官である玉髄から見ると、かなり初歩的なことしか行っていないようだった。
「ウチは精神的にも肉体的にも若い者が多くてね。ああして体作りをさせるのだ。座学の欝憤もあれでいくばくか晴れる。持て余している体力も消費できる」
 夜光はふと、心配そうに玉髄を見つめた。
「玉髄君は……騎龍たちに交じって、つらくはないか」
「大変なときはありますけど、つらくはありません」
 常人の身で、騎龍とともに働くのは並大抵のことではない。本物の騎龍は体力も武術も、普通の武官を軽く上回る。おまけに相手は妖魅だ。命の危険を感じた回数はもう覚えていない。
 それでも、騎龍たちのそばで命を張れるのはなぜか。
「俺は騎龍になりたいと、何度も思っていました。もうその夢は叶わないでしょうが……それでも、あそこにいると心が躍るんです」
 玉髄は懐に挟んであった面を取った。騎龍の力をほんの一部、常人である彼に与えてくれる面だ。
「この面の力を知らなければ、俺はただの馬鹿当主ばかぼんとして生きていたでしょうね」
 父の形見でもあるこの面。あるとき、父がこうした物を持っていたことを知った。そこで玉髄は覚悟した。これに賭けてみよう。望気の力、辟邪の血、そしてこの面で騎龍たちを支援する兵士になるのだ。そうすれば。
 ――龍のそばで生きていけるかもしれない。
 ただそう思ったから。
「そうか。ならば、私が心配することでもなかったな」
 玉髄の希望と覚悟を感じたのだろう。夜光が微笑んだ。苦笑ではなかった。
「では、夜光殿。これにてお暇いたします。これは本日のお礼です」
 玉髄は布の小袋を取り出した。玉髄の馬を牽いてきた童子に渡す。中身は金と銀貨だ。
「ありがとう、玉髄君」
 夜光は素直に受け取ってくれた。
「では、いずれまた」
「ああ」
 夜光が拱手する。玉髄も拱手し、馬に乗った。颯爽と駆け出す。
 その背中を、夜光がまぶしそうに見つめていたのを、玉髄は知らなかった。

 玉髄を見送った夜光のもとに、一角がぱたぱたとやってきた。
「あー、玉髄帰っちゃったんだー……」
 一角ががっかりしたように外を眺める。夜光は微笑んだ。
「一角、玉髄君は好きか?」
「うん、大好き!」
 子供が好物を答えるように、一角は即座に答えた。
「人を好きなのはよいことだ。しかし……」
「わかってますよー。ウチの掟は、『未熟なうちは恋愛ご法度!』なんでしょう?」
 一角はにっこりと笑った。
「大丈夫! だってズゥちゃんには、好きな人がいるんですよー」
 一角は得意げに人差し指をくるくると回した。
「好きな人? 初耳だな、王宮でもそんな噂聞かないのに。誰だい?」
「あ、あたしも直接聞いたり見たりしたわけじゃないですよ」
「何だい、それは。一角の推測じゃないのか」
「えーわかりますよー。だって……」
 そこまで言って、一角は指を止めた。
「あれ? 何でだろ?」
 一角はきょとん、と首をかしげた。夜光は苦笑して、傾きかけた陽を見上げた。



 建国節――今年も、その日がやってきた。
 正月にも劣らぬ、めでたい日だ。誰も彼も、浮かれてそわそわしている。
 街角には美しい燈籠が掛けられ、めでたい紅色の布があちこちに引かれている。火が随所で焚かれ、竹がくべられる。竹は熱せられると弾けて、大きな音を立てる。いわゆる爆竹だ。それが街のあちこちで行われ、火花が散り、破裂音に皆がはしゃぐ。
 王宮でも宴が設けられていた。前庭に宴席が広々と設けられている。大臣、将軍、身分ある武官文官が列席を許され、それぞれの席に座している。
「峰国の守護神と呼ばれた、我が父王が――」
 国王が、高く作られた壇上から祝辞を述べられる。神を祭るときと違い、文言が決まっているわけではない。国王自身が考え、我々に向けられるお言葉だ。
「――今日、この日を迎えることができて、予は嬉しく思う」
 酒の注がれた杯を、かざす。
「建国の女神と、我が祖たる龍の血に感謝を! 人々に幸あらんことを!」
 乾杯が行われ、人々は酒と馳走で心身を満たし、神祇祖霊に感謝する。
 やがて酔いが回ってくると、人々は自分の座を離れて、それぞれ望む場所に固まり始めた。宴席は床に座すようになっているので、それがやりやすい。半ば無礼講だ。
 王もそれを咎める気配はない。この国ではこれが当たり前なのだ。王は壇上で酒を飲み、気になった者を呼び寄せては話をさせている。
「ねーえ、玉髄ギョクズイ様。お話いたしません?」
「玉髄様」
「玉髄様ってばぁ!」
 美しく着飾った女たちが、玉髄に群がり始めた。白い肌、ぽってりと塗った口紅、匂やかな指が、男を花芯とした華を創り出す。恋に飢えた男なら、誰もが憧れるであろう光景だ。
 しかし玉髄は違った。心底うざったそうに眉をひそめただけだ。
「よう、玉髄。呑んでるか?」
 剛鋭ゴウエイの声に、玉髄が顔を上げる。女たちもいっせいに剛鋭を振り返る。女たちの目は、剛鋭が遠慮するのを期待している。玉髄は助けを求めるように、迷惑そうな表情を隠さない。
「……先日のことで、話がある。あちらで話そう。ほかの連中も待っている」
 剛鋭は玉髄の方の意を汲んだ。武官同士の話となれば、着飾った女たちに出番はない。女たちはしぶしぶ玉髄から離れていく。花が散るようだった。
 玉髄は剛鋭に従い、別の席に移動する。
「将軍、助かりました」
「よかったのか?」
「いいんです。俺の顔が、家系図にしか見えない連中ですから」
 玉髄の返答に、剛鋭が苦笑する。
 玉髄の実家――虹家は、峰国でも屈指の名門である。史書によれば、初代国王の弟が虹氏の姓を頂き、始祖となったらしい。つまり、建国の時より続く歴史ある家系なのだ。
「お前も騎龍になれればよかったな。その女嫌いは、騎龍向きだ」
「……そうかも、しれませんね」
 騎龍は、結婚しないのが慣例だ。騎龍である剛鋭も、名門出身でいい歳なのだが妻はいない。ほかの騎龍たちもたいていはそうだ。
「ま、呑め。建国七公の子孫がそれじゃ、盛り上がらねぇ」
 剛鋭は玉髄に杯を渡し、酒を注いだ。

「陛下!」
 宴もたけなわ、国王の座す壇の前に、平伏した者がいる。風体からすると方士、それも琥師の老人だった。
「このめでたき日と王家の繁栄を寿ぎ、この右弟ウテイ、陛下に差し上げたいものがございます!」
 老人特有のしゃがれ声で、右弟と名乗った琥師は奏上した。
 何だ何だと、人々の視線が集まる。酒をあおっていた剛鋭が手を止め、玉髄に囁く。
「あのジジイは?」
「たしか、如意派ニョイはの琥師ですよ」
「如意派?」
「宮廷琥師の最大勢力は、九陽門ですが……それと異なる派閥の琥師もいます。たしか如意派は、規制反対派ですよ」
「なるほど。献上品で陛下のご機嫌を取ろうってか」
 老琥師が合図すると、前庭の門が開いた。琥師の弟子たちだろうか、数名の方士風の若者が何かを牽いて入ってくる。
 オオオッと、ざわめきが起こった。
 それは巨大な虎だった。
 否、虎ではない。黄色い体に黒い縞は虎そのものだが、立った姿は大人でも見上げるほど高い。顔には毛が少なく、どこか人間じみている。額には金色の光を放つ割符――琥符コフが貼りついている。
馬腹バフク、という妖魅でございます。西部の山中で捕獲し、調教いたしました」
 見た目は虎だが、大人しい。首輪からは三本の鎖が伸びているが、それを持つ手を離しても暴れ出しそうにない。
「でっかー……」
 玉髄は思わず感嘆した。妖魅を操ることにはよい印象を持っていないが、「すごい」と思ったことは素直に認める。それが玉髄の若さだった。
「ケッ、バケモン操って得意になるなんざ、碌なこたぁねえ」
 剛鋭は苦々しげに吐き捨てた。
「いかがです、陛下?」
 老人琥師が胸を張った。
「それを、予に?」
 壇上の国王が団扇だんせんで口元を隠す。見張った目だけが見える。
「このようなものを意のままにしていると知らば、悪しき者も諸外国も、陛下をあなどることはございませんでしょーォ!」
 琥師の得意げな奏上は続く。宴席の一部から、冷ややかな視線を受けているとも知らずに。
 そのとき、琥師の動きが止まった。
「お、おお、オ?」
「……何だ?」
 様子がおかしい。シワだらけの顔に血管が浮かび上がり、目がだんだん虚ろになっていく。そのまま白目を剥いて、老人はばったりと倒れた。
「先生!?」
「どうした!?」
 宴席にどよめきが走る。
「おい、何があった?」
「どうも、病気の発作か何かみたいですね。生きてはいますが……助からないでしょう」
 玉髄は目をこらし、老人の気をる。濁った老人の気が、かなり弱くなっている。
「チッ、早く運び出せ。これだから琥師は……」
 剛鋭が文句とともに杯に口をつけようとしたとき――。
 突如、馬腹が咆哮した。その声は泣き喚く赤子のようだ。首を左右に振って暴れ出す。鎖を持っていた若者らがまず弾き飛ばされた。そのまま馬腹は、倒れた老人琥師に喰らいつき、丸ごと呑み込んでしまう。
「きゃああああ――ッ!!」
 絹を裂くような女たちの悲鳴が上がる。それが混乱の幕開けだった。高官たちも安全を求めて、我先にと逃げ出す。
「押さえろ! 早く!!」
 警護の近衛兵らが、馬腹の鎖に取り付いた。しかし妖魅の力は人の想像を超えるもの。首を振っただけで兵の体が浮き上がり、次々と弾き飛ばされる。
 押さえる者が途絶えると、馬腹の視線が壇上――国王晃耀コウヨウに向いた。
「我が君――ッ!」
 玉髄だ。席を蹴って飛び出す。馬腹の尾に取りついた。馬腹は凄まじい力で尾を振り回し、玉髄も左右に引きずられる。
「うおッ!?」
「キャアアッ!」
 ついに引き剥がされ、玉髄は壇上、国王のすぐそばに飛ばされた。
「いつつ……」
「ぎ、玉髄……!」
「我が君、お逃げください!」
 玉髄は晃耀をかばうように立つ。
 晃耀は明らかに震えていた。周囲に控える女官たちも半分気を失ったようになっており、役に立たない。近衛兵たちも、勇ましい者は真っ先に馬腹にやられ、残った者も腰が抜けたようになっている。
(剣はない。やるしかない!)
 帯剣はしていない。玉髄は頭に手をやった。髪をまとめた冠の簪を引き抜く。硬い翡翠でできた簪だ。同時にぐっと奥歯を噛み締める。抜いた簪を、横にくわえた。
 馬腹が、まだこちらを敵と見なしている。うなり、前足で床を掻く。赤子が泣きわめくような声とともに、飛びかかってきた。
「喰らえッ!」
 玉髄は口の簪を抜き、馬腹の爪をかいくぐり、その目に突き刺した。肉が破ける厭な感覚がする。一瞬のことだった。
 玉髄は追い討ちをかけるように、馬腹の顔に唾を吐きかけた。唾液には血が混じっている。そう、玉髄は口の中の肉を噛み、みずから出血させたのだ。それを簪に塗りつけ、馬腹を迎撃した。
 馬腹が苦悶の叫びを上げた。顔を引っかきむしりながらのけぞる。
「俺の血に抗えるバケモノはいねぇ!」
 玉髄の血――それが、彼の「辟邪」という称号のもと。彼の血には、生まれながらにして「邪をける」力がある。虹家の血統は皆そうらしい。その血を塗った、同じく魔除けの宝玉・翡翠の簪だ。もはや馬腹は、致死量の毒を打たれたようなものだった。
「おい、剣を貸せ! 我が君を非難させろ!」
 馬腹は顔を引っかくように悶えている。そのあいだに、玉髄は近衛兵や女官らを叱咤する。腰抜けの近衛兵から剣をなかば奪い取り、構えようとして――。
「玉髄、うしろ!」
 馬腹の体が、ぐるりと半回転した。長い尾が、玉髄を襲う。払おうとした右腕に絡みつき、そのまま壇上から引きずり落とす。そのまま凄まじい力で引き上げられた。
「うおっ……ちょッ!」
 受身を取るひまもなく、玉髄は庭の石像に叩きつけられた。獅子を模した像が砕ける。そのまま尾からは解放され、床に落下する。玉髄の右腕に激痛が走った。
「う……っく――」
 玉髄は息を詰まらせた。全身が痛む。腕が動かせない。骨が外れたか折れたか。
 赤ん坊の鳴き声がする。馬腹が、玉髄に狙いを定めている。
(動けない……!)
 誰か助けてくれ――そう思ったとき。
「来い! 我が龍よ!」
 低い雷撃のような声が、あたりに響き渡った。紅い光がほとばしり、馬腹の体が何かに引きずり倒される。
「朱将軍!」
 剛鋭の龍が、現出していた。鱗も眼も血紅色けっこうしょくをした龍が、馬腹を押さえ込んでいる。馬腹よりはるかに大きな蛇体が、馬腹に巻きつき、文字通りねじ伏せている。
「玉髄、生きてるか!?」
「お、かげさまで……痛ッ」
「動かすな、折れてるぞ」
 動けぬ馬腹の横をすり抜け、剛鋭が玉髄の様子を見る。命だけは大丈夫そうだと見て、剛鋭は馬腹に向き直った。
「噛み殺してやりてぇが、血で王宮をけがすのももったいねえ!」
 剛鋭の獅子吼ししくが、宴席を貫く。
「陛下! こいつを灰も残さず焼き殺しますが、かまいませんねッ!?」
「我が君、おゆるしを! でなければ、シュ将軍は掟破りとなってしまいます!」
 腕と胴の痛みをこらえ、玉髄は叫んだ。
 騎龍は、その龍を現出させる場所や条件が厳しく制限されている。王宮内などもってのほかだ。しかしいまは火急のとき。王の赦しがあれば、咎めを逃れられる。
「ゆ……赦す。そいつ、早く何とかしてぇ!」
 晃耀は両手で頭を抱え、おばけを怖がる子供のように怒鳴った。
 剛鋭がニヤリと笑い、そして片手を高く掲げた。龍がそれに応え、もがく馬腹を抱き込んだまま、空に昇る。
「玉髄」
「はい」
 玉髄は全神経を眼に集中させた。霊気の大きさから二頭の高さを見定める。記憶の中にある剛鋭の龍のクセと照合させる。そして龍が十分な高さまで昇ったとき――。
「十分です、将軍!」
「ようし!」
 剛鋭が掲げた手首を回す。
 龍が一気に馬腹から離れた。馬腹は空中で回転しながら放り出される。
残骸かけらも残さず、吹き飛べやぁッ!!」
 剛鋭の咆哮が、龍のそれと重なった。
 真紅の霊気が龍を取り巻き、瞬時にたまに変わる。馬腹に殺到する。上から下から左右から、肉を弾き飛ばし焼き尽くす。高さを十分に取っているので、残り火も燃え尽きて、大気の中に消える。
 空中で燃え尽き、その火も消える光景。
 狼煙より不思議な火花が、空を焦がした。



 玉髄はやはり右腕を骨折していた。それに加えて、肋骨にも傷が入ったらしい。ほかの怪我人とともに、医術を心得た方士が手当てしてくれた。その方士によると、三月(みつき)は動かさないようにしなければならないという。
「あい……って」
 紅龍隊の詰め所に運ばれ、手当てを受けると気が緩んだ。すると不思議なことに、かえって痛みが襲ってくる。
「どうだ、腕は」
 剛鋭や彼の配下、つまり玉髄の同僚たちが様子を見に来てくれた。
「全治三ヶ月だそうです。それより、陛下は?」
 玉髄は騒動が鎮まってすぐ治療に向かわされたので、どれほど混乱したかは知らない。
「かなりご心痛の様子だ。まわりの連中もな」
 そして剛鋭はニッと笑う。
「ヘッ、ざまぁみやがれ。これでいかがわしい妖術師どもを小さくできる。方術は素人の文官どもも、あいつらの危なさがよ〜くわかっただろうよ」
「決まり、ですか」
 琥師たちは、国の定める法に縛られる存在になる。彼らがもっとも嫌がる結果につながろうとしている。夜光や一角とて、こんな結果は望んでいなかったはずだ。
「……法が定まるのはいいとしても、変な噂が立たなければいいのですが」
「えらく心配してるな」
 しまった、と玉髄は口をつぐむ。何か咎められるか。そう思ったが、剛鋭も肩をすくめただけで、それ以上は追及してこなかった。
 そのとき、にわかに人が騒ぐ気配がした。何だ、と全員が入口に視線を集めると――。
「玉髄様――っ!」「玉髄様――――っ!」「ギョ・ク・ズ・イ様――――――っ!」
 甲高い声が多重奏になって雪崩込んできた。王宮の女官たちだった。玉髄の熱心な信望者たちが、負傷の報を聞きつけたらしい。さほど広くない詰め所は、あっという間に華麗に着飾った女たちで埋まった。女たちがそれぞれ焚きしめている香の匂いがすさまじい。白粉の匂いもだ。それに慣れていない武官たちは思わず手で口元を覆う。しかし玉髄はそれができず目を白黒させている。
「玉髄様、何とおいたわしい!」
「ちょっと待て手前ら! 怪我人だぞ、体に障る! 労れ! ってか散れ! 帰れ!」
 いち早く体勢を立て直した将軍剛鋭が、女たちの前に立ちはだかる。しかし女たちも負けてはいない。
「将軍様、わたくしたちは玉髄様のお世話に参ったのです!」
「だー、もー!」
 女たちに悪意はない。その分タチが悪い。そのまま混乱が続くかと思われたが――。
「全員、控えなさい! 陛下がお出ましになられます」
 馴染みのある声がした。国王づき侍女の声だった。
「我が君……!?」
 国王峯晃耀がお出ましになられていた。手狭な詰め所も意に介さず、しゅるしゅると衣擦れの音をさせながら、国王はまっすぐ玉髄に近づく。剛鋭もほかの騎龍たちも。そして女官らも一斉に道を開け、拱手する。
「玉髄、すまぬ。予をかばったせいで……」
 国王晃耀はいきなり玉髄の手を取ってそう詫びた。玉髄は目を丸くする。周囲の者も同様だ。
「強くなったね、玉髄。予には、そなたこそが英雄だ」
「もったいなきお言葉。この虹玉髄、一生の名誉といたします」
 玉髄は救われた、とばかり礼を述べた。
「皆、今日はもう戻りなさい。彼のことは心配いらないから。下がりなさい」
 国王みずからの言葉は重い。「下がれ」と言われては、女官たちも従うしかない。詰め所から、一斉に人がいなくなった。香の匂いは残っているが、すぐに抜けるだろう。
 助かった、とばかり玉髄はほっと息をついた。
「剛鋭、そなたも。騎龍の業(わざ)、見事であった」
「ありがたき幸せ」
 長身の将軍は深々と礼をした。
「すまないね、騒がせた。皆、今日はもうゆっくりお休み」
「御意」
「ありがとうございます」
 剛鋭らが拱手する。玉髄は片手だけを上げて拱手の形をとり、礼をした。

 晃耀の姿が見えなくなると、剛鋭がため息をついた。皮肉っぽい視線を玉髄に向ける。
「ほんっとに手前は人気者だな」
「できることなら誰かに譲りたいです」
「しかし、あれだけモテて好みの女がいないんだろ? 顔は美人でも、体は貧相なのが多いからなー」
「え、玉髄君は豊満な女性(ぼいんぼいん)が好みだったんですか?」
「おう、しかもとびきり胸の形のいい奴が好みだ」
「ちょ、ちょっと将軍!?」
 途端、玉髄は顔を紅潮させた。
「将軍、そうなんですか?」
「おうよ。コイツ、大人しーい体型なんか目に入らねえ。もっとこう胸にも腰にもメリハリのある、例えば妓楼の売っ妓(うれっこ)のような――」
「わ――っ! わ――……あだだだっ」
 大声でかき消そうとしたが、肋骨に響いて前屈みになる。そもそも、そんな反応をすれば、剛鋭の言っていることが本当だと証明してしまうようなものだ。それに気づいていないあたり、玉髄も修行が足らない。
 玉髄は息を吐いて痛みを遠ざけると、バッと顔を上げた。騎龍たちがニヤニヤしている。
「将軍、いくら何でもひどいですよ!」
「ひどいのは手前だろうが。手前が歯牙にもかけてない女どものせいで、こっちも窒息するところだったぞ」
「しょ〜ぐ〜ん〜、それ俺のせいじゃありません〜」
「とっとと恋人でも何でも作ればいいんだ。そうすりゃ女どもも大人しくなるのに」
「あなたに言われたくな――……あいててて」
 ワハハハハ、と騎龍たちはいっせいに笑う。玉髄は突っ伏しながら「ちくしょーちくしょー……」とつぶやくばかりだった。
「で、手前は明日はどうするんだ?」
「このまま自宅で療養です……。腕吊った人間がいても不吉でしょう」
「やっぱりな。こっちの仕事も、治るまで出なくていい」
 彼らの任務は命がけ、たとえ万全の体調でも下手を踏んで死ぬことがある。まして怪我人は足手まといでしかない。
「出なくていいんですか〜」
「何だ、不満か?」
「皆、喧嘩っ早いから心配なだけです」
「ハン、それでお返したつもりか? 甘いな」
「次の任務は、蟠湖周辺の調査ですよ。地元の氏族ナメてると痛い目遭いますよ〜」
 剛鋭の表情がすこし引き締まる。
 蟠湖は王家の領だが、その周辺は虹家が握っている。虹家の当主である玉髄の口添えがあると、仕事はグンと楽になる。
「おや、そりゃマズいな。じゃ、よろしくお願いしますよ。虹家当主サマ」
「とりあえず、祖母に手紙を出しておきます」
「そうか、地元はあの虹青河(コウセイガ)殿に任せてんだったな」
 玉髄は都で勤めているため、虹家(じぶん)の領地に目の行き届かないことも多い。そのため、祖母にその管理を任せている。彼の祖母は虹家直系の血をひく烈女であり、頼もしいことこの上ない。
「それじゃ祖母君にもよろしく頼む。今日はこれで解散だ。ああそれと、見舞い客には用心しろよ」
「ええ」
 剛鋭の忠告に、玉髄はうなずいた。ため息をついて、腕の痛みをまぎらわせた。


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