戦場に夜の帳が下りている。
濃紺の空に黒い雲が浮かび、星のきらめきさえない。
「ひどい有様だな」
「ああ、ひどい」
二人の男が話している。
「常軍は撤退し、騎龍も半分やられた」
「方士も似たようなものかな。皆、逃げてしまった」
「だが、お前は残ってくれたな、夜光」
「私まで逃げてどうするんだ、玉仙……」
男たちの周囲は、死体の山だった。人だけではない。馬や牛、そして異形の獣の死骸さえある。ただ倒れているだけならまだしも、原型を留めないものも多い。腐臭が漂い始めている。
それだけではない。どこからともなく、魚の腐ったような臭いもする。気の弱い者ならこの臭いだけで嘔吐し、光景に失神するだろう。
「しかし……そなたが、騎龍たちにも撤退を命令するとは思わなかった」
「某とお前と奴に付き合って、全員死ぬのはバカげてると思ったのさ」
「よく従ってくれたな。あの勇敢な騎龍たちが」
「勇敢と無謀は違う」
玉仙はきっぱりと言った。しかしすぐ苦笑する。
「……だが、かなりゴネられた。剛鋭なぞ泣いてたぞ」
「あの若者か」
「いい騎龍だ。生き延びれば、いずれ将軍になれるだろう」
「生き延びれば、か。我々がやらねば、彼の未来も閉ざされる」
玉仙と夜光はただ二人、戦場に残った。勝算はある。しかし、それは賭けでもあった。
「まったく……崩国の妖魅、とはよく言ったものだ」
この地獄は、実はたった一頭の妖魅が引き起こした光景だった、
「夜が明ければ、奴はまた水から上がってくる。そこを叩く!」
玉仙が見据えた先には、巨大な湖がある。夜空と同じ色をした黄泉の鼎だ。
「残された某の力、その全力で!」
玉仙は、戦友である夜光を見上げた。
「夜光、某は奴を押さえるので一杯になると思う。上手く打ち込んでくれ。じゃなきゃ、某の血を使ったかいもなくなってしまう」
「……わかっている。わかっているよ」
「そんな顔をするな。ただ、某より先に死なず、琥符を奴に打てばいいんだ」
ぽた、と音がした。布をきつく巻かれた玉仙の体から、血がしたたる。木の根元に座り込む彼の影は、右腕と右足が欠けていた。
「そして生きてくれ。長く、長くな」
「玉仙、私ははがゆい。生きねばならぬ自分が」
「お前はいろんなもののために生きる。某は、いろんなもののために死ぬ。陛下の分も、将軍たちの分も、方士たちの分も。それだけだ」
「そなたにだって、家族がいるのに! 母君も、細君も、子供も!」
「お前にだっているだろう。弟子や、子供が。特に……あの一角という子、親はお前だけだ。お前が守ってやらねば。立派な琥師に、するんだろう?」
玉仙が笑う。
「某は心配ない。母や妻がどうにかしてくれる」
玉仙はひどく懐かしそうな顔をした。
「某の子は今年、青山に入った」
「青山に? 騎龍になるのか」
「ああ、血を分けた子だが……騎龍になれば家は継げぬ。すこし残念だが、しかたない」
「血を分けた……そうか、あの子が」
「だが、きっとよい騎龍になる。某を超える、強い龍を得るだろう」
玉仙は、残った腕を見つめた。まるで赤子を抱くように、優しく曲げる。
「夜光」
「何だ?」
「我が子……玉髄が成人したら、いつか、伝えてくれないか」
「何と伝えよう?」
「それは――……」
玉仙が夜光に遺言する。
その言葉は、白み始めた空にかき消える。
「玉仙……朝だ。陽が昇る」
「さて、往くとするか」
玉仙が残った腕で木をたぐり、残った脚で立ち上がる。紅で統一した鎧と衣に血が滲む。
「来い! 我が龍よ!!」
玉仙の瞳に、朝日と同じ黄金の色が宿った。
紅龍将軍虹玉仙、戦死。
第百六代峰国王峯晃刀、雲月八年のことだった。
|