その日の夜は、雲が晴れ、月が出ていた。
青玉の出現は、想像以上の騒ぎになった。なにせ、彼女は斬首を言い渡された捕虜である。処刑の途中で逃げ出しているので、見つかり次第、捕縛されても文句は言えない。
しかし、賢歩が熱心にとりなしたので、縄をうたれることは免(まぬが)れたらしい。しかも、兵舎にまで入ることを許され、いまもどこかの部屋にいるらしい。
らしい、というのは、玉髄が青玉に会えなかったからだ。陽が暮れてから、玉髄や亮季たちは完全に彼女から隔離された。食事の時にも、見ていない。おそらくいまは、剛鋭がどこかで彼女を監視させているか、賢歩が彼女と話をしていることだろう。
「もう寝ようか……」
玉髄は簡素な寝台に寝転がった。大きく息を吐いて、身を眠りにゆだねようと目を閉じる。
その時、コン、と窓の格子を叩く音がした。玉髄は飛び起きて、格子を上げる。その途端、するりと白い人間の体が入ってきた。青玉だった。どうやって抜け出して、ここまで来たのだろうか。たったひとりだ。
「青玉、どうしてここへ?」
「どうしても、あなたと話したかったの」
青玉は、すこしだけ首を傾げた。淡い青色の髪が揺れる。異形の色だ。だが、それが彼女には似合っている。腕や足首を露出した白い服、左上腕にぴたりとはまった金の腕輪、細い両足首にはゆったりとした金環があって、しゃらりと音を立てる。そのすべてが、青玉という少女を美しく彩っていた。
「あなたにも、話したいことがあると思って」
「あ……」
青玉の言葉に、玉髄は胸元を押さえた。胸の中に抑えていた不安や不満が、一気に渦巻きだす。そしてそれは、言葉になってあふれだした。
「……青玉、どうして僕なんかを騎龍にしたんだい!? 僕は、僕は……」
だがそれでも、周囲をはばかって怒鳴れない。それが彼の弱さだった。
「怒らないで、玉髄」
青玉の静かな言葉が、玉髄の怒りをとどめた。
「事情を説明したら、あなたきっと、逃げたでしょう?」
玉髄は、ぐ、と返答につまった。その通りだった。
「でも、その、困るんだ……騎龍になるのは」
「どうして?」
「ぼ、僕は……虹家の当主だ。ほかと違って、虹家は親戚も少なくてね。直系の血を継ぐのは僕しかいない」
「後継がつくれない体では、困るってこと?」
「……ああ」
一族の嫡子に課された使命は多い。家を継ぐ。一族を守る。領地を治める。そして、新たなる跡取りをなす。いまは妻を娶る予定もないが、いつかはせねばならぬことである。
「大丈夫。心配ない」
「どういうこと?」
「誤解があるみたいだけど。騎龍になっても、子種がなくなるわけじゃないわ。極端にできにくくなる、というだけよ」
「ど……どうして?」
「生命の力のほとんどを、龍との絆に使ってしまうからよ。体が、次の世代を作り出すための力まで使ってしまうの。でも不可能になるわけじゃない」
「そ、それでも……」
「それに、如意珠を与えた覚えもないよ」
青玉は、しれっとそう言った。
「何を言って……!?」
「勘違いしないで。応龍の力は、玉髄に貸しているの」
「応龍?」
「あなたの龍よ。琥符の件が片付いたら、わたしは容赦なく、玉髄から龍の力を取り上げる」
「も……戻れるのか?」
「ええ」
玉髄はへた、と床に座り込んだ。いままで胸に渦巻いていた不安が、ぽろりと落ちたような気分だった。
「この国の騎龍たちの多くは、生涯を騎龍として生きるから如意珠を手放す方法は知らないでしょう」
へたりこんだ玉髄に、少女の迷いのない言葉が降り注ぐ。
「でも、わたしは知っている。わたしは龍の一族の当主だから」
青玉は自信ありげに微笑んだ。
「玉髄、わたしを信じて」
青玉は自分の胸に手を当て、そしてその手を玉髄に差し出した。玉髄は、すがるようにその手を取る。白く小さな手が、なによりも頼もしく感じられた。
「……青玉は、どうしてこの湖へ?」
「琥符を、探していたの」
心が落ち着くと尋ねたいことが整理できる。
「琥符……ってなに? もしかして、あの翡翠の虎符のこと?」
「そう。断京に力を与え、その身を滅ぼさせたあの符よ。覚えているでしょう?」
「ああ……でも、あれは消えてしまった」
「消えてはいない。その証拠に、玉髄、あの牛の中に、琥符を感じたでしょう?」
そう言われて、玉髄は自分の胸に手をやった。
「……ああ、多分。断京のときと、同じ感じがした」
玉髄は胸元を押さえた。あの時も、今回の事件も、事が起こる前に、心臓をつかまれるような厭な感覚がしたのだ。
「わたしもね、多少は琥符の気配を感じることができる。だから、玉髄と別れたあとは、あれを追っていたの。でも駄目。見失ってしまった」
青玉は瞳を伏せた。悲しそうにも、くやしそうにも見えた。
「どうしようかと思って彷徨っていたときに、それに似た波動を感じて、駆けつけたのだけれど」
出くわしたのは、蜚牛の群れだったというわけだ。
「あの蜚牛は、誰かのもの。でも、そこに琥符の気配もした。つまり――誰かがまた、琥符に咒縛されたのかもしれない」
「青玉……君は、どうするの?」
「わたしは、琥符を壊す。ただそれだけ」
「……前に、断京のところにいたのも、そのため?」
「うん」
真剣な表情から一転、青玉はケロリとした顔でそう言った。だがそれも一瞬のことで、また真摯な光を目元に宿す。
「断京は、力が欲しかった。強い力が欲しかった。だから琥符はそこに取り入った」
まるで歌か詩のようだ。
「わたしは偽って断京に近づき、もうひとつの力を与える道具である如意珠を差し出した。それに惹かれて断京にスキが見えたら、琥符を奪おうと思ったんだけど……逆に、断京の琥符の力によって、咒縛されてしまった。不覚だった」
「そうだったのか……」
「あの琥符は、まだ強く動いている。探し出して、壊さないと!」
青玉の声が高くなった。玉髄はあわてて、青玉の口元をふさぐ。
「しぃっ、青玉! ここにいるってバレたらまずい」
子供を諭すように言う。青玉はとりあえず、口を閉じてくれた。
「また話をしよう。今夜はもう戻った方がいい。君はまだ……罪人だから」
「そうね」
玉髄は言い淀んだが、青玉はあっさりとうなずいた。先ほど入ってきた窓に向かう。
「大丈夫? 誰かに見つからない?」
「平気」
青玉は格子を思い切り開け、窓枠に足をかけた。
「玉髄」
さっと振り返った少女の頬に、青い髪がかかる。白い衣が、灯火をうけてその糸をきらめかせる。艶のある唇がわずかに微笑んで――そして、言葉を残す。
「わたし、あなたが必要なの」
玉髄がその意味を理解するより早く、青玉は窓から飛び出していった。
「え……?」
玉髄はひとり、残された。頬が熱くなるのを感じる。
ふらふらと寝台に倒れ込むも、彼はその夜、寝不足に陥ったのだった。
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