玉髄は、龍とともに水に沈んだ。
その大きいだけの翼に押し潰されながら、水底に落ちていく。
「父上……っ」
ごぽり、と口から空気が出る。
父は、騎龍だった。強い騎龍だった。若き頃から戦い、打ち立てた武勲は数知れず――。
自分は、その唯一の子。期待され、鍛えられ、護られ、育てられた。そして、父が死んで、おのれは毎日、若い国王とともに――。
(……僕は)
揺れる視界に黒い蛇体がうつる。その鱗のすきまから、赤黒い体液が幾筋も流れだしていた。
(龍も、血を流す……のか)
この龍――この力をおのれに与えた、青い髪の少女を思い出す。白く美しい顔、青く澄んだ瞳。彼女は、こうなることを知っていたのだろうか? それとも、ただ無邪気に、この力をおのれに与えたのか?
侍従となったことも、あの少女と出会ったことも、この力を得たのも――すべては、抗えぬものに流されて。
――外道。
流されて、道を外したというのか。
(…………)
死にたくはない。
ああ、でも――死ぬのだな。
玉髄は、目を閉じた。
『その玉は、あなたを選んだのよ』
意識の彼方で、光が閃いた。金の閃光。そして翡翠の光芒。玉髄は、目を見張る。急速に、体に力が戻ってくる。冷たい水の中で、体の熱を感じる。
死んだら。いま死んだら。
『王よ』
『まだ、わざわいは去っておらぬ。あの琥符が世にある限り、黄金の狂気がこの国を侵すだろう』
『しかし、応龍の力ならば、あの龍の力ならば、あるいは』
『――優しき少年の行くすえに、正しき道筋が見えんことを』
(僕は……)
龍頭がわずかに動いた。黒い龍の翡翠色の瞳が、少年の瞳を見ている。揺れる視界の中でも、それははっきりとわかった。
胸が張り詰める。でも、苦しくはない。
(龍よ……僕は)
黒龍の翼が動く。玉髄を護るように包みこむ。父の形見の玉、その龍に抱かれる――はるか遠い記憶を、思い出しそうだった。
(僕は、まだ死にたくない)
心臓が、高鳴った。
(父上――)
父は大将軍、遠く高すぎる存在。それでも尊敬し、父のようになりたいと思ったことがある。そしていま――自分は、父と近い場所にいる。
(こんなところで終われない!)
少年は、ぐっと奥歯を食いしばった。
水中で、黒龍が身をひるがえした。その頭のツノにつかまる。水が全身をかすめる。水の中に、光が生じた。
水が割れ、玉髄は胸いっぱいに空気を吸った。
「くたばったか?」
上空をゆっくり旋回しながら、剛鋭がつぶやいた。
空から見えるのは、穏やかさを取り戻していく湖面だけだった。
「!」
その刹那、水面が山のように盛り上がった。頂(いただき)が弾け、噴水のように水が飛び、大波の轟音と視界をふさぐ霧雨となる。
「生きていやがるッ!」
剛鋭が、即座に反応した。渾身の力を込めた紅い彈が、湖面に向かっていく。
一瞬遅れて、翡翠色の流星が、湖面を割った。それは大きく弧を描き、剛鋭らに向かってくる。その光の根元に――あの少年がいる。黒い龍の背に乗って、両手の指を広げている。
そして、二つの色がぶつかった瞬間、それは起きた。紅い彈がすべて、侵食されるように消されてゆく。翡翠色の光が、世界を喰らうかのような、光景だった。
「おおおおお!」
剛鋭は咆哮を上げた。圧倒的なものに、押し潰される者の上げる叫び――。
「!」
だが、いつまで経っても、剛鋭自身に彈が襲いかかってくることはなかった。
静寂ののち、目の前の光景に、剛鋭らは目を見張る。翡翠色の彈が、すべて空中で制止している。長く長く尾を引いて、そしてその根元には、黒い龍に乗った少年がいる。
少年――玉髄は、動きを止めていた。ぐっと奥歯を噛み締めている。手は、拳に握られる直前で、止まっている。指先が震えていた。強く眼をつぶると、玉髄は指を広げ、腕を大きく広げた。その手が羽ばたいた。
その瞬間、彈はすべて動いた。ただし――軌道を、大きく変えて。すべての彈が、剛鋭から退いて、そして水面に落ちていく。流星の墜ちるがごとく、すべて。水が大きく弾けて、飛沫を上げた。その上から、また彈が墜ちて、霧のような飛沫が水面を覆う。
飛沫がおさまると、黒い龍はゆっくり下降した。
少年はその背から、浅瀬へと降り立つ。膝が震え、頬は真っ赤になっていた。
「う……」
玉髄は、顔を手で覆った。涙があふれてくる。それはぼたぼたと、情けないくらいだった。
「う……ぁ、あ」
緩んだ口元から、嗚咽が漏れた。そうなると、もう止められない。
「うわあぁ……ああっあ……!」
間抜けな声を上げて、玉髄は泣いていた。心の奥底に封じてきた負の感情が、あふれ出してくる。いいようにやられたことへの悔しさ。その不甲斐ない自分への怒り。そして、おのれの手にした力への怖れ。それは、あまりに大きい。
力を手にしたことへの喜びは、不思議とわいてこなかった。ただ、自分に負い被さった目に見えぬ運命に、心が痛い。孤独に似た、痛みだった。
黒い龍が、不格好な玉の孔(あな)に戻っていく。
ぽちゃん、と間抜けな音を立てて、首飾りに戻った玉は、その主人の前に落ちた。だが、玉髄はそれを拾いもせず、浅瀬に膝をついて、泣きつづけた。
水の中を、誰かが歩いてくる音がした。
「なぜ、やらなかった?」
玉髄の目の前に、剛鋭が立っていた。
「僕の……力は」
しゃくり上げながらも、玉髄は答えた。
「僕の力は、あなたを殺すためのものじゃない!」
「……甘ぇな。俺は、手前を殺そうとしたんだぜ?」
「そんなの、知らない」
涙が、止まらない。声をひどく震わせながらも、玉髄は言うのをやめなかった。
「あなたにやられたこと、悔しいし腹立たしい。でも、僕が、僕自身が、殺したくないと思った」
そして、なによりも。
「……死にたく、なかった」
そこまで言って、玉髄は完全に脱力した。剛鋭は思わず抱きとめる。少年は気絶していた。
「玉髄!」
「玉髄君!!」
二人の若者が、水をかきわけて走ってくる。気を失っている玉髄を剛鋭から受け取り、揺さぶって呼びかける。
「気絶しているだけだ。休ませてやれ」
「は、はい」
亮季(リョウキ)たちに玉髄を任せると、剛鋭は身をかがめた。玉髄の如意珠を拾う。黒くざらついた表面に無数のひび割れが走り、そこから翡翠色が見える。その格好悪い玉を見つめながら、剛鋭はつぶやいた。
「死にたくない、か。一番単純な理由で、生き残りやがったな」
いつのまにか、水面は穏やかさを取り戻していた。それを照らす陽はずいぶんと傾いて、すでに赤味が空に射(さ)している。
「……本当に、デカい力だ」
そのつぶやきは、湖の小さな波の音に消えていった。
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