「玉髄」
突然、青玉は呼んだ。
玉髄はバッと起きて姿勢を正す。彼女に何を言われるか、何をしだすか、わからないからだ。
「この国の魚は、綺麗ね」
しかし、青玉の言葉は、雰囲気も内容も穏やかなものだった。
「ああ、淡水の魚には事欠かない風土だからね……」
脱力しながら、玉髄は答える。
峰国は、川が多い。細い流れが網目のように大地に走り、あちこちに湖がある。この国は水の国だ。池に泳いでいる魚は何代も交配させて作った観賞用のものだが、もとはこの国の川や湖に生息しているのだ。
「色もたくさんある。龍みたい」
「そういえば……そうだね」
龍にも様々な色がある。たとえば、前衛将軍朱剛鋭の龍は、鮮やかな赤。見習い騎龍の炎亮季の龍は、灰色がかった青の龍。甘喜玲の龍は、穏やかな黄だった。
「色が濃いほど、力が強い。色が淡いほど、神に近い」
「誰に聞いたの?」
「司龍殿だよ。で、それって本当なの?」
「そうね。だいたい当たってるわ」
「だいたい?」
くるん、と体全体で回ってこちらを向いた。
「神って、なにかしら?」
笑顔で、そう問いかけられた。
「え? えーと……」
思いがけない質問に、玉髄はあわてて頭を回転させる。
「天にいて……いや、山とかにもいるのかな。すごい力を持ってて、なんか、願いを叶えてくれて、でも祟りをなしたりして……」
「そうね。だいたい、そんな感じをみんな言うわね」
青玉は目を細めた。そして、大きく息を吸って、空を見上げる。
「確かに。神と呼んでさしつかえないほど、素晴らしい何者かは、いたわ」
空の彼方に、その神と呼べる者たちはいたのだろうか。そう思わせる青い視線だった。
「でも、彼らは龍とは違う。もっと強い何者かだった」
「神と龍は、違うということ? じゃあ、龍は?」
「龍は龍。ほかの何者でもない生命」
青玉が視線を玉髄に戻す。長い髪がその頬にかかった。
「色が濃いと力が強いっていうのは、人間で言う、腕力が強いってことかしらね。牙や爪の力は、万物を引き裂くわ。ちょうど、あなたの龍のように」
風が吹く。さらさらと青玉の髪をくしけずる。姿も意思のない風が、少女の姿をした仙女に奉仕しているようだ。
「神に近い、というのは……そう、さっき玉髄が言ったように、畏(おそ)れられるってことかしらね。わたしのように」
「じ、自分で畏れられるって言うかなぁ」
呆れ気味の玉髄に、青玉はケラケラと笑った。
「あなたが虹家の当主であるように、わたしは龍たちを統べる者。王としての自覚が、大切なのよ」
「王……そうか、君は王なんだな」
玉髄は納得する。
「いまは琥符にも咒縛されるような身だけどね」
「いまは……ってことは、昔は?」
青玉はその問いに答えず、ただ微笑んだだけだった。
「でも、それで玉髄たちに会えたんだから、何がよいことにつながるか、わかららないものね」
東風が吹く。池の蓮花が揺れた。その淡い紅色が、水面に映える。
その上を青玉の青い髪がなびき、濃い緑の中にふたつの淡い色彩が浮かび上がった。
「あなたと初めて会った時、この国にはまだたくさん騎龍がいるんだな、って思ったの」
「それは……普通じゃないのか?」
「違うわ。神代から、長い長い時間が経って――龍たちは、地上に拡散してしまった。土地によっては、龍なんて見たことない人ばかりのところもある。だから、どの国でも、龍と騎龍は怖れられているわね」
怖れる――それは、恐怖の対象である。
騎龍を、龍を間近で見た他国の人間は、彼らを怖れ、敵に回そうとも思わなくなる。だから、この国は小さいながら独立を保ってきた。
「そうだ。だから、大国の侵攻も防いでこれた」
西の異民族たちは、龍を怖れてこの国を侵そうとはしなかった。しかし、大国に北方を侵され、騎龍が北の地に集中すると――彼らは、この国でも略奪を始めた。戦が終わってからは、再び静かになった。龍を、怖れてのことだ。
だが、断京は怖れていなかった。
「ねぇ、青玉。断京がこの国を侵したのは……琥符のせいなの?」
「そうね。琥符の力は、その者の心を蝕むの。怖れる心を失わせる。断京はこの国を怖れる心を失っていた」
跋族の長である断京は力に溺れ、龍を怖れなくなった。そして、その力を示しながら、この国を侵した。
「琥符は強い。わたしを咒縛し、個々の龍の力では対抗するべくもない、大きな力――」
「僕らは、琥符に勝てるの?」
「大丈夫。勝てる」
玉髄の不安を、青玉は平然と退けた。
「だってあれは、造られたモノ。造られた意図以外では、動けない。剣で手紙は書けないように、琥符は琥符を造った者の意図以外では動かない」
「琥符を造った者の意図って?」
「破壊」
「……とんでもない意図もあったもんだ」
玉髄は深くため息をついた。
「ここは、たくさん、わたしの眷族が集まっている国。だからわたしは、龍たちに会える機会を待った」
龍に会う機会――ふと記憶をたどって、玉髄はハッと気がついた。
「まさか、牢にいた時言ってた秋って!」
青玉は、捕虜となった石牢の中で、「秋が来れば」と何度も言った。その時とは、おのれが外にひきだされる処刑の時だったのだ。
「そう。龍師が処刑されると聞けば、騎龍たちが多く集まると思ったの。そうすればたくさんの龍に会える。そしてわたしは龍たちに呼びかけた。あなたたちの総領(おさ)が帰ってきたってね」
「どうして、そんなことを?」
「また、ともに戦うためよ」
風が、すこし強まった。庭の木々が、さわさわと揺れる。
「龍たちは、長い長いあいだ、離ればなれだった。だから思い出させる必要があった。我らは、ひとつのものであるということを」
先程の微笑みとは違う、凄味のある笑顔だった。
「ん……?」
青玉が、空を見上げた。その横顔から表情がなくなる。玉髄も顔を上げた。
分厚く空をおおい、ゆっくり泳いでいた雲が、急に速度を上げて西へと流れてゆく。ややあって、地上にも東風が吹いた。先程よりも強い風だった。雲は強い流れに形を保てず、千切れて穴が開いていく。
「玉髄! すぐに登城しなよ!」
「へ?」
空を眺めていた青玉が、唐突にそう言った。玉髄は呆気にとられる。
「いいから早くっ! 女茄〜!」
「はい! こちらに!」
ずっと控えていたのだろう。出番とばかり、若い侍女は駆けつけてきた。
「玉髄を着替えさせて! 鎧も!!」
「はい、ただいま! 玉髄様、さぁお早く!」
「女茄、君はいったい誰の侍女なんだよ!?」
女二人にぐいぐい引っ張られながら、玉髄はわけもわからず、仕度に走らされる羽目になった。
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