龍は吟じて虎は咆え
陸ノ三.巨鳥・鵬


「まったく……あの子が来てから、大騒ぎだな」
 馬を軽く駆けさせながら、玉髄は王宮へと向かっていた。
 休日だというのに、事情もわからず、しかも軍装で登城したところで――変な揉め事しかないような気がする。それでも行ってしまうあたり、玉髄は青玉に弱いらしい。
「でも、悪くないでしょ?」
 その声を聞いた瞬間、玉髄は馬上でずっこけそうになった。あわてて体勢を整えて見ると、青玉が徒歩あしでついてきている。いや、正確には走っているのだが。
「青玉、屋敷でおとなしくしててよ!」
「駄目よ。なにが起こるか、わからないのに」
 青玉は真剣な表情だった。玉髄の心に不安がよぎる。おそらく、いま王都を騒がせているあの雲がらみのことなのだろう。
「青玉、王宮には、入れられないからね!」
「やっぱり?」
 馬を駆けさせる、戦袍の少年。その隣に、並んで走る白と青の少女。異様だが滑稽な光景だった。
 そのとき、突然、突風が王都中に吹き荒れた。
「うわ……ぷぷっ」
 舞い上がった土埃の直撃を受けて、玉髄は口や眼の中にざりっとした厭な感触を覚える。思わず馬を止め、唾液と一緒に口中の砂をふき出した。
 同時に、あたりが暗くなる。玉髄は空を見上げた。
「あ、れは……!」
 王都を囲む城壁を超えた先――郊外の山に、黒い雲がかかっている。
 雲の城。雲海の上に浮かんでいたはずの、あの巨大な雲だった。あまりに大きく、その上端が太陽の光をさえぎっている。そして、かなり高度が下がっている。雲の下端が、山々の頂上に触れているのだ。重厚なその曇りは、色は黒味を帯びて、なにやら不穏な雷電さえ見える。
「うわっ」
 また突風が吹いた。砂が目に入る。
(……まただ)
 玉髄の心臓が、大きく打つ。胸元を押さえて、玉髄は体の中をめぐる不安を感じていた。
(琥符の、気配だ)
 不安の源に確信を持って、彼がぐっと口をつぐんだ時――巨大な雲の端から、なにかが吐き出された。
「な……っ」
 玉髄は、痛む眼を大きく見張り、言葉を失った。
 雲から排出されたのは、黒く薄い――それでも山々と比較するに、五丈(約一二メートル)はありそうな大きさの何かだった。それは、見る分にはひらりと一回転し、山の斜面に墜落した。同時に、木々の折れる音が、風に乗って王都の中にまで届いた。
「なに……あれ」
 玉髄の視力は、その巨大な落下物の形をとらえることができていた。だが、形と結びつく単語に納得できず、頭が混乱している。
「あれは、羽根」
 青玉が、その語を口にした。
「羽根!? やっぱり羽根なの!? でも、あの大きさは――」
 そう、雲から飛び出したのは、どう見ても鳥の羽根だった。しかし、周囲の物と比較して推測するに、人家ほどもありそうな大きさだった。
「雲の中にいるのは、ホウか」
 青玉が、うなった。
「ホウって……なに?」
ホウ。簡単に言うと、とにかく、大きな鳥よ」
 青玉の視線が、鋭くなっている。
「東の海に棲む大魚が空に昇ると、ああなるの。もし王都の上で羽根と糞が落ちたら、家が全部潰れちゃうよ」
 玉髄は息を呑んだ。


 青玉を引き離す勢いで、玉髄は王宮の門前まで馬を駆けさせた。
 宮門警護の近衛兵たちが、馬蹄の音を聞いて詰所から出てくる。
コウ侍従、そのような姿でどうされた!?」
「我が君に、急ぎ申し上げることがある!」
 顔なじみの近衛兵が、玉髄の鎧姿に驚いて駆け寄ってきた。玉髄は馬上から、緊急事態を告げる。
「虹侍従、宮中での帯刀は禁じられております。こちらに――」
 近衛兵は、玉髄の腰の剣を見咎めた。彼らの対応は、規定どおりだ。
 まどろっこしい、と玉髄は感じた。跋軍との戦の時、将軍たちは自分をこのように見たのだろうか。
 その時、王宮の門が開いた。三十名ほどの兵士が整列して出てくる。その先頭にいるのは、前衛将軍朱剛鋭だ。
「朱将軍ッ!!」
 玉髄は馬から下りて、彼らのもとに駆け寄った。
「玉髄か! あれがなにかわかるか!?」
 剛鋭が、咆えるような声を上げて、尋ねてくる。
「あれは……鵬。その羽の重さだけで、家屋すら潰せる大鳥です」
 玉髄は呼吸を整えて、青玉から聞いたことを伝える。
「やっぱりあれは、鵬なんだね」
「解司龍」
 司龍解賢歩カイケンホもいた。あどけない顔が緊張でこわばっている。
「ボクも、もしかしたら、と思ってたんだ。玉髄サン、その判断はキミの?」
「いえ……青玉から聞きました」
「あの女、来てるのか」
「ええ。ここにいるわよ」
 ふわり。そう音がしそうなほど軽やかに、青玉が騎龍たちの前に現れた。剛鋭の顔色が変わる。
「手前! 蟠湖から、よくも逃げ出してくれたな!」
「剛鋭サン! もうその話は終わったの! それどころじゃないんだってば!」
 剣の柄に手をかけた剛鋭を、賢歩があわてて押しとどめる。剛鋭は苦々しげな表情で、剣から手を引いた。
 賢歩はさっと拱手した。まるで神に祈りを捧げるようだった。
「仙女殿、我らは鵬という物を、古書の一文字でしか知りません。どうか、彼奴を倒す方法を、お教えください」
 青玉の瞳が澄みわたる。氷の青色だ。
コンという大魚がいる」
 そして少女は、まるで古書のように物語る。
「いつもは、東方の海の彼方で大鮫を喰らって生きている。ところがなにか大きな力を持った物を喰った時、鯤は鵬となる。鱗が羽根となり、鰭は翼となり、浮袋に溜まった膨大な霊力で、九百里の蒼穹を飛ぶ。鱗のすきまに棲む蟲も、姿を変えることがあるかもしれない」
 魚が鳥となる――その奇妙な話を、騎龍たちは真剣な表情で聞いている。
「糞と羽根がひとたび地上に落ちれば、人の家屋などひとたまりもない」
「さっき山に落ちたのは羽根か」
「ええ」
 剛鋭は、獅子がうなるような表情になった。そして踵を返しながら、玉髄を手招きする。
「ともかく、王都の真上に来られる前に排除だ。玉髄、手前(てめえ)も来い」
「ですが、我が君が」
「心配すんな。近衛将軍と英凱がついてる。王宮はその連中で護る。陛下には、あとで申し上げてやる」
「王都は?」
「軍師と泰壱タイイツが護る。騎龍以外の動ける兵士は、全部そっちに回した」
 後衛将軍至英凱シエイガイも、左衛将軍天泰壱テンタイイツも騎龍だ。この空から迫る驚異を迎え撃つ力を持っている。だが、将軍という役職柄、普通の兵たちの指揮も取らねばならない。王都を護らねばならない。空を飛ぶことを無上の喜びとする戦士たちにとっては、つらい役柄だ。
「地上は、やつらに任せろ。いまは、手前の力も必要だ」
「……わかりました」
「おい、龍師! 手前も来い!」
 剛鋭は青玉も呼んだ。だが、名前を呼ぶのはまだ忌々しいらしい。
「あら、一応、認めてくれたのかしら?」
 龍師は、如意珠を他人に与える力を持った、仙人を指す。並の者では名乗れないし、呼ばれもしない。誇り高い剛鋭が、その称で彼女を呼んだということは――さしもの彼も、彼女の力を認めたことになる。
「茶化すな。手前がここにいるだけで業腹だが、王都を護るために仕方なく使ってやろうってんだ。ありがたく思え!」
 剛鋭は怒鳴っているが、青玉はクックッと笑っただけだった。対照的な二人の様子に、ほかの騎龍たちも呆気に取られている。
「あーもー剛鋭サンってば! 全員、集合!」
 賢歩の言葉で、四衛将軍麾下の騎龍たちが集められる。
「玉髄!」
「玉髄君!」
「亮季! それに喜玲も!」
 その騎龍たちの中に、見知った顔がいた。
「調練を終えて、めでたく王都(みやこ)づとめさ」
「でも、最初にこんな大仕事なんてね」
 二人の見習い騎龍は、王国軍の革鎧を身につけていた。鎧の肩紐につけられた飾り房の色が、彼らの所属を表している。亮季は青色の飾り房、左衛軍。喜玲のは白色、右衛軍だ。
風加羅フウカラ将軍は、まだ西方だろう?」
「うん、でも騎龍の何人かは呼び戻されてるし……今日は、朱将軍の指揮下に入るの」
「おい! 何してる!」
 ほかの騎龍が、若者たちを咎める。
「いけね、行かなきゃ」
 亮季と喜玲は、それぞれの隊へと戻っていく。人数からして、ここにいるのは騎龍だけなのだろう。
「……僕は、どこにいたらいいんだろう」
 ふと、玉髄は困ってしまった。騎龍たちはそれぞれの所属に従って整列したが、玉髄は王国軍の兵士ではない。どこに立っていればいいか、わからない。とりあえず、一番うしろの隅に待機する。
 不安だ。だが、やらねばならないことがある。
(約束した。戦える者になるって)
 王座にいる幼馴染に誓った。戦士になると。まだ未熟だが――いま、玉髄は戦わねばならない。胸に、不安とは違う鼓動が宿った。
「全員、よく聞いて!」
 賢歩が、声を張り上げた。
「あの中には、巨大な鳥がいる! 万が一、羽が散ったら、すぐ焼き尽くして。羽が散ったりしたら、この城は尽く滅びちゃうから!」
 途方もない話だ。だが、騎龍たちの表情は動かない。王都に迫る巨大な雲が、司龍の言葉を確かなものとしていた。
「それと、その鳥は、琥符という神器が支配している。跋軍との戦で、キミたちを翻弄したあの力の根源! 向こうの動きには、十分注意して!」
「行くぞ、手前ら!」
 剛鋭が剣を抜き放った。彼の眼に赤い光が宿り、龍が現出して飛び立つ。同じように、ほかの龍たちも空へと昇る。真昼の空を、いくつもの輝きが星のように彩った。
 玉髄もまた、呼吸を整え、体の中におのれの意識を向ける。血脈の中を力が走り、体の奥から熱があふれだす。喉元に菱形に光る逆鱗が現れる。瞳の色が黒から翡翠に変わり、体の内側からわきあがった霊力が風に変わる。

「来い、我が龍よ!」

 玉髄は、おのれの如意珠に呼びかけ、放り投げた。
 そのあなから、応龍が現出する。
 玉髄は跳躍してその背に乗り、騎龍たちが織りなす光のひとつになった。

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初出:2010年庚寅7月9日