龍は吟じて虎は咆え
陸ノ一.平穏


「っ、クシッ!!」
 翌朝、玉髄は小さくくしゃみをして目が覚めた。
「冷えたか……」
 つぶやいて、寝台から体を起こす。珍しく寝相が悪かったらしい。肩から上が、冷たくなっている。自分を抱きしめるようにして、玉髄は肩をさすった。
「おはようございます、若様」
「おはよう」
 先に起きていた乳母がやってきて、水の入ったたらいを差し出した。顔を洗うと、目に残っていた眠気も落ちる。
 今日は、数日に一度の休暇である。朝の支度も、穏やかなものだった。
「庭ですこし、体を動かしたい。服、頼むよ」
「はい」
 玉髄の言葉に、乳母はてきぱきと反応してくれる。それだけで安心できる。
 彼女が出してくれた細い袴と、丈の短い上着を着る。まだすこし、体に寒気が残っていた。
「おぐしを、お結いいたします」
 乳母が櫛を手に取った。玉髄は椅子に座り、それを受けた。
 休みの日でも、髪はきっちり結う。それがこの国でのたしなみだ。被髪――つまり髪を結わずに垂らすのは、仙人か幽鬼ゆうれい。人の世の外にいる者のすることだ。
 準備を終えて庭に出ると、ぼんやりとした光が目に入った。厚く白い雲が、空を覆っている。雲はそうしてあるものの、蒸し暑かった。
 庭の開けた場所に出ると、玉髄はゆっくりと身構えた。
「ハッ!」
 蹴りを繰り出す。亡き父から学んだ、体術だ。それは玉髄にとって唯一、父を師として学んだことだった。その通りに体を動かす。陽にあたり、血のめぐりが強まってくると、寒気もなくなってくる。そして、動きを止めた。
「はぁ……」
 ゆっくり息を吐いたその時、ぺたぺたぺた、と素足で歩く音がした。そんな無防備な格好で動き回るのは、この屋敷にはひとりしかいない。玉髄が振り返る前に、あの少女の声がする。
「玉髄……登城はしなくていいの?」
「今日は、休みだよ」
 答えながら、玉髄は振り向いて――。
「わあああぁぁっ!! 青玉! その格好!」
 素っ頓狂な叫びを上げて、玉髄はまた青玉に背を向けた。それもそのはず。青玉は一糸まとわぬ裸だった。
「ははは早く服を来て!」
 いま見たものを忘れようと、玉髄はどもりながら、うしろにいるであろう青玉に言った。一瞬のことだったのに、まぶたに白い裸体がちらつく。
 ぺた、とまた音がした。玉髄の耳に、そっと少女の指がかかる。少女の指が冷たい。自分の耳が熱い。きっと、耳は真っ赤になっているだろう。
「……玉髄」
「〜〜!」
 囁かれて、背筋が震えた。
 目に焼きついた光景が、浮かび上がった。真っ白な傷のない肌、豊かな胸を隠した淡青色の長い髪を垂らし、それに右腕の金環が、鮮やかな装飾になっていた。一瞬だったのに、よく覚えている。
 玉髄は思わず、うう、と意味不明のうめきを漏らした。
「……面白い人ね」
 青玉が、吐息を多く混ぜて、囁く。
「か、からかってるでしょ!!」
「うん」
「青玉〜〜!!」
 玉髄は怒りとも悲鳴ともつかない声を上げた。
 と、青玉の気配が、離れる。ばさ、と彼女の長い髪の毛をかきあげる音がすると、背後で空気が動いた。
「玉髄、もういいよ〜」
 玉髄はため息をついて、おそるおそる向き直った。いつもの彼女の姿が見える。白い衣に、両脚の金環。玉髄はほーっと大きく息をついた。
「そんなに驚いたの?」
「ほんとにもう……。青玉、あんまり突飛な行動は……」
「ところで、鍛錬中だったの?」
 お説教のひとつでもしてやろうと思っていたのに、青玉は気にせず話題を切ってくる。見ると、その青い瞳がキラキラと輝いていた。
「え、あ……うん」
 曖昧に答えると、青玉がニッと笑った。
「相手、してあげよっか?」
「相手って……うおっ!」
 次の瞬間、玉髄は思わず仰け反った。細い足首が、玉髄の顔を狙って飛んできたのだ。
「青玉、ちょっと待って!」
「敵は待ってくれない!」
 至極もっともなことを言い放って、青玉は拳を繰り出した。玉髄がそれをなんとか躱すと、青玉は地面に手をつく。白い足首が、風を帯びて襲いかかってくる。「ひぇー」と思わず情けない声を上げながら、玉髄は必死に躱した。
「君の技を受けきる自信ない! やめて!」
 哀願しながら、玉髄は情けない姿勢で青玉を避けた。青玉は、ぱっと体勢を直して、首を傾げる。
「すこしは強くなったと思うのに……」
「それ褒めてるの?」
「あんまり」
「青玉〜〜〜〜!」
 少年が頬を真っ赤にして怒った。青玉はケラケラと笑う。
 雲の厚い空が、それを眺めていた。


 特に予定もない日。
 やりたいことはないが、することはある。青玉を、見張っていなければならない。破天荒な色を体に持った少女は、することも破天荒である。あの処刑の日のように、また混乱が起こってはかなわない。罪は赦されたとはいえ、監視をすり抜け、あまつさえ王都に入りこんでいる身だ。この屋敷の外に出れば、ひと騒動起こるのは目に見えていた。
「はー……」
 玉髄は窓枠に両手を乗せ、その上に顎を乗せる。まるで退屈した犬のようだ。そこから、あまり手入れの行き届いていない庭を眺める。
 その庭は、戦で遠方に行ってばかりだった父が、留守を守る母のために作ったのだという。春秋いちねんすべて楽しめるように木々を配し、池に蓮が咲き、綺麗な魚が泳ぐ……玉髄が幼いころは、そんな庭だった。
 だが、庭を深く気にかけていた人――つまり、父が死に、母が王都を去ってから、この庭はあまり手入れをされなくなった。
 この庭のいまの主人――玉髄は、木の花の時期もあまり知らない。木々に父が籠めた伝言も、忘れてしまった。庭を受け継いでからは、それが顕著になった。乳母や侍女に催促されてから、庭師を入れる程度になった。
 いまその庭には、青玉がいる。池をジッとのぞき込む、その背中が窓から見える。庭に長く人がいるなど、母がここにいた時以来のことだった。
(なにが楽しいんだろ……)
 青玉は池をのぞきこんだまま、動かない。さっきからずっとそうしている。なにが楽しいのか――と言えば、さっきからずっと青玉を見ている玉髄も、同じ穴の狢である。
 だが、玉髄本人はすくなくとも「青玉を見張っている」と言い張るだろう。
(こうしているあいだにも、あの雲は、王都に向かっているのに)
 こんなにヒマにしていていいのか。玉髄はすこし、うしろめたい気持ちになる。
 王都の騒がしさは、日に日に増していた。
 王都郊外にある王国軍の営舎では、ふたたび戦が起こるがごとく、調練が進んでいるという。前衛将軍朱剛鋭シュゴウエイも帰還した。
 登紀からは、毎日のように青玉に宛てて書簡が届けられ、青玉はそれにすらすらと対応しているようだ。
 準備は万端か、と言えばそうでもない。
 剛鋭とともに上洛した司龍解賢歩が、頭を抱えているのを見た。「青山から返事が来ない」と、若すぎる司龍は嘆いていた。いくら国防に関与せぬ慣例があろうと、王国軍の重職にある者からの正式な手紙を無視するのは、礼儀に反している。
 聖地から返事が来ない理由は、ついにわからなかった。
 ともあれ、王都は着々と、迫り来る脅威へ備えていた。また、雲の城が通る範囲にある城や村には、急報が届けられ避難の指示が出ているという。
 そして、そのものものしさは、普通に暮らしている人々にも、伝わり始めている。嵐が来るだの、イナゴの大群が迫っているだの、強大な盗賊団が出ただの、どこかズレた噂が流れている。王都を出て行く人や、物価の上昇も見られるようになった。
 そういった事柄への対応が、いちばんの悩みどころでもあった。
 あの雲の接近で事件が起こったのは、まだ蟠大湖だけだ。あの化け物は厄介なものだが、あれ以来、被害の報告はない。雲の正体もわからないうちに民を動かそうとすれば、必ず混乱が起こるだろう。そこをどうするか、大臣たちが協議を重ねていた。
(けど……僕にはあんまり話来ないしなぁ)
 そう――玉髄は、ただ淡々と侍従の職務を果たす毎日だった。侍従という仕事柄、高官たちが動いている話を知っている。それだけだ。
(前にも同じようなことがあったな)
 騎龍としての力を得てしばらく、玉髄は普通の人間として過ごした。そののちに、軍人たちから騎龍としての調練を受けるよう、指示されたのだ。
(また急に呼び出されて……戦うことになるのかな)
 知らないところで話が決まって。
 大きな力に、従わされて。
 そう考えると、悔しさと怒りを埋め火にした闘志が、玉髄の心の隅に点火される。ぐっと口をつぐんだ。
(来るなら来い。今度は――)
 ためらったりしない。
 玉髄はそう決意していた。

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初出:2010年庚寅7月9日