龍は吟じて虎は咆え
肆ノ三.落ち来るモノ


「さて、天気も悪くなってきたし、そろそろ兵舎に戻ろうかー」
 見れば、剛鋭や亮季たちも湖から上がり、兵舎に向かっていた。玉髄と賢歩ケンホも足元の水を割りながら、陸を目指す。
 その時、さっと風が吹いた。
「……何だ?」
 ふと、玉髄は足を止め、空を見上げた。厚さを増した雲が、淀んだ色でうごめいている。雨が降りそうだ。
(何か……厭な、感じだ)
 ただの風に、なぜそう感じたのか。玉髄にはわからなかった。だが、まだ釈然としない。
「玉髄クン、どうしたの〜?」
「あ、いえ」
 賢歩が玉髄の様子に気づいた。玉髄は首を横に振り、陸へ向かおうとした。
「!」
 その時――玉髄は心臓に衝撃を感じた。空を見上げる。なにかが降ってくる。大きな丸い塊が、いくつも落ちてくる。玉髄と賢歩の真上に。
カイ司龍!」
 玉髄はとっさに、賢歩をかばって飛びのいた。生い茂る葦の中に突っ込む。落ちてきた物が、浅瀬の水を割った。
「熱ッ!」
 水飛沫が熱水と化して、玉髄に降りかかった。賢歩をかばいながら、玉髄は湖面へと視線を走らせる。
「なん……だ?」
 彼らのいたところには、赤黒い革袋のような塊が、いくつも落ちている。人かそれ以上かといった大きさだ。袋は卵のように膨れ、そのまわりの水が湯気を立てていた。
 ぶつ、と袋の表面が割れた。ぬらりと光るひづめのある脚が出てくる。そして、布袋ぬのぶくろの表裏をひっくり返すように、塊は明確な姿に変わっていった。
「何だ、こいつら……!」
 卵のような肉塊は、もうひとつもない。かわりに、浅瀬に何頭もの牛が立っている。しかしただの牛ではない。いびつに歪んだ頭には、眼が一つしかない。足元の水が沸騰したように沸きあがり、湯気を立てる。厭な臭いが、あたりに立ちこめた。
蜚牛ひぎゅう……」
 その姿を見た賢歩が、愕然としてつぶやいた。
「馬鹿な! 蜚牛は古書にしか登場しない化け物で……!」
 司龍は絶句し、厭な臭いに咳き込んだ。玉髄は彼女の口元を、みずからの袖でかばう。
 牛たちの単眼が、玉髄を睨んだ。その刹那、玉髄は心臓に衝撃を感じる。
 ――この気配を、知っている!?
「あの……虎符と同じ……!?」
 無意識のうちにつぶやいた。
 単眼の牛たちが、鳴き声を上げた。低く下品な音が、水面に輪を作る。
「解司龍、お逃げを!」
「う、うん!」
 玉髄は賢歩を先に逃がし、蜚牛たちの前に立ちはだかった。
「来い! 我が龍よ!」
 天地を揺らす咆哮。空を覆い尽くさんほどに、広がる黒い翼。猛々しい咆え声が、大気だけでなく大地をも震わせる。浅瀬に半分身を浸して、玉髄の黒龍が現出した。
 蜚牛たちは一瞬ひるんだ。だが、また低い声をいくつも上げ、前足で砂をひっかく。雄叫びを上げて、独眼の牛たちは玉髄に突進した。
「ハッ!」
 玉髄は飛び上がった。龍は彼を乗せて間一髪、空へと舞い上がる。同時に翡翠色の光が彈となり、数匹の牛の頭を弾き飛ばした。
「玉髄君、大丈夫!?」
「亮季! 喜玲も!」
「俺たちもやるぜ!」
 見れば、亮季たちもそれぞれの龍を現出させていた。亮季の龍は、濃い蒼色の鱗に同じ色の眼。喜玲の龍は、明るい黄色に琥珀色の眼をしている。蒼、琥珀、そして翡翠色の彈が、浅瀬を襲った。
「朱将軍や解司龍は!?」
 玉髄はあたりに感覚をめぐらせながら叫び、それに喜玲が応じた。
「兵舎の方に戻って守りを固めてる!」
 こんな事態だ。前衛将軍である剛鋭が、己の赤龍を駆って出てきても、なんら不思議ではない。だが実際のところ、いま彼は兵舎で指揮を取っているのだろう。将軍として、不測の事態に対さねばならない。斬り込み将軍は、いち早く龍を現出させた若者たちを信じ、おのれは守備に回ったのだ。
「攻撃は俺たちがやっていいってことだ! おし! 一発、手柄(てがら)を立ててやるぜ!」
「油断しないでよ!」
「へっ、地上を動くだけの牛に、負けるわけないだろ!?」
 亮季がニッと笑って啖呵を切る。だが次の瞬間、玉髄が怒鳴った。
「亮季、よけて!」
「!?」
 黄金の塊が、亮季の蒼龍をかすめた。
「おあっちゃぁ!」
むしだ!」
 地上にいた数匹の蜚牛の体が突如バラバラになったかと思うと、何十匹もの蟲に変化して飛翔した。堅い甲殻を持った、黒い蟲だ。それが黄金の霊気を帯びて、玉髄たちに襲いかかってくる。
「クソッ! いてっ!」
「やだっ、気持ち悪い!」
 若者たちは思わず体勢を崩す。だがそれに負けず玉髄が手を払うと、それに応じて翡翠色の彈が生じ、蟲の群れを薙ぎ払った。古い脂が燃えるような、厭な臭いが立ち込める。
「かー! うっぜぇぇ!」
 亮季は勢いよく高度を落とし、残った蜚牛の群れに突っ込んだ。彼の放った剣が牛の単眼を貫き、龍の爪が敵を膾にする。
「ちょっと! あいつら、陸に上がってるわよ!」
 喜玲が、別の動きをする一群を見つけていた。また高度を上げた亮季が、蟲を焼き払いながら叫ぶ。
「喜玲、まかせた!」
「もー! 玉髄君、手伝って!」
「ああ!」
 喜玲は人差し指をまっすぐに伸ばした。親指をその垂直に伸ばし、走る牛を狙う。琥珀色の彈が生じて、牛頭を撃ち抜いた。あまりの威力に、単眼の首が千切れ飛ぶ。首を飛ばされた牛は走りながら大地に倒れ、地面を線にえぐった。
 その上から、玉髄の彈が降り注いだ。肉が焦げ、蜚牛は完全に死滅する。二人の連携によって、周囲への被害は最小限に抑えられた。
 そうして次々と、蜚牛は倒されていく。最後の蜚牛が倒れ、水面と陸上に多くの死屍が晒された。生命は完全に絶え、血が流れだしている。
「これで……全部か」
 上がった息を整えながら、玉髄らは浅瀬の上空をゆっくりと飛んだ。
(――駄目。毒が流れだすわよ)
 その時、声が降ってきた。その声を、玉髄ははっきりと聞いていた。誰のものでもない声に、玉髄は顔を上げた。
「なに……?」
 喜玲や亮季も、空を見上げた。
 青色の、糸のように細い光が、雲から降りてきている。幾本も幾本も。それは、牛の血が流れ出した湖面に突き刺さり、まるでそれをせき止めるように、丸く水を囲った。
 玉髄たちから見ると、雲と湖面のあいだに、細い糸を何本も使って、鳥籠(とりかご)を作ったようだった。
 だが、それは籠ではない。
 玉髄は、ぞくりと背筋に悪寒を感じた。
「に、逃げ……っ!」
 玉髄が言葉を終わらせぬうちに、彼の黒龍が動いた。籠のすきまから、その外へと離脱する。ほかの龍たちも危険を悟ったのだろう。あっという間に籠の外へと逃げ出す。
 次の瞬間、雲から雷が落ちた。――そんな風に、玉髄たちには見えた。籠を作っていた細い光が、爆発的に太さを増し、轟音と閃光であたりの大気を貫いたのだ。
「うわっ!」
「きゃああっ!」
 あまりのまぶしさと音の大きさに、騎龍たちは空中で均衡を崩しかけた。遅れて、飛沫と乱れた大気が風となって、彼らをかすめる。思わず誰も彼も顔を手でかばった。
「なん……っ、だこりゃ?」
 湖に穴が開いていた。光の糸が囲っていた範囲の水すべてと砂利を、五尺(二一〇センチメートル)ほども削り取って、黒い穴がぽっかりと出現した。だがそれも一瞬のこと。周囲の水が、崩れるように穴に流れ込む。ぶつかった水同士が波となり渦をつくる。巻きあがった砂が、水を濁した。
「いまのは……」
 呆然と、玉髄はつぶやいた。
(――玉髄!)
 その時、空の彼方から声がした。したように、玉髄には聞こえた。空を見上げると、白い雲が途切れて、青が見え始めている。
 その空の果てから、なにかが下りてくる。真っ白な細長い体をくねらせ、青いたてがみをなびかせて――二色の龍が、雲を割って玉髄のもとに下りてきた。
 その龍の首に、龍のたてがみと同じ色の髪を揺らす、少女がいる。玉髄に手を振っている。
「……せ、青玉!?」
 玉髄は、その名前を呼んでいた。

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初出:2010年庚寅2月9日