龍は吟じて虎は咆え
弐ノ七.仙女


 定められた時刻に、朝が来る。
 玉髄ギョクズイは昨夜、結局眠ることができなかった。とはいえ朝が来たので、起きるしかない。立っていると、頭の根っこがふらつくように痛む。
 今日は、あの少女が処刑される。それも、大仰(おおぎょう)な儀式を伴って。刑場には、桟敷さじきができているはずだ。重い気を引きずりながら、それでも見届けようと、玉髄は刑場へと向かった。
 刑場に入り、人ごみをかきわけ、粗末な桟敷になんとか自分の席を取る。と、後衛将軍至英凱シエイガイが、玉髄の横に陣取ってきた。
「結局、あのおチビちゃんはなにもしゃべらなかったのかい?」
「申し訳ありません」
「意外に頑固な子だったんだね」
 刑場に設けられた桟敷のうち、最も立派なそれには、国王峯晃曜ホウコウヨウの姿があった。そのかたわらには、軍師知登紀チトウキ、前衛将軍朱剛鋭シュゴウエイ、そして幾多の近衛兵たちが控えている。
 捕虜一人の処刑に、国王が出ることは異例だ。おそらく軍師の取り計らいだろう。ろくに戦を知らぬ姫王に、戦(いくさ)が起こすもろもろのことを見せ、より良き王になるように導く。残酷なようだが、汚れた部分も見なければ、王ではいられない。
「晃曜様がお出でになってるからとはいえ……見物の多いこと」
 英凱が、軽くため息をついた。
 ――仙人が、処刑されるらしい。それを、国王陛下が御覧あそばされるらしい。
 その噂は、軍の中、王宮の中、そして城の中まで溢れ出していたようだ。刑場の内外は、仙人と王をひと目見ようと集まった民衆でごったがえしていた。
「……人が、死ぬのに」
 玉髄は口の中で呟いた。

 刑場に、少女がひきだされてきた。
 後ろ手に戒めなおされ、牢での粗末な服のままだ。しかし、髪は結(ゆ)われていた。斬るときに邪魔になるからだろう。断髪されなかったのはせめてもの温情だろうか。
 途中、少女は顔を横に向けた。その視線の先に玉髄がいる。少女は、ニコ、と素直な表情で微笑んだ。
 その動作を引き金きっかけにして、刑場に集まった人々の視線が、玉髄に注がれる。奇妙な好奇心を含んだ視線だった。玉髄は思わず少女から眼をそらした。刑場中からの視線にも耐えられなかったし、まっすぐ彼女の顔を見られる気もしなかった。弱い自分に、嫌気がさす。
 そのあいだに、獄卒が少女を軽く促した。
 ゆくは死の道。それなのに、少女は泰然とその歩を進めた。
 刑場の中心で、火が焚かれている。そのかたわらに、首斬りの大刀(だいとう)を携えた刑吏が立っている。一太刀ひとたちで、大男の丸太のごとき首さえ斬り飛ばした、という剛の者だ。彼が刃を振るうなら、すこしの間違いもなく、少女は斬られるのだろう。斬られて、そして焼き捨てられるのだ。
 獄卒が少女を押さえ地面に座らせる。少女はうなだれ、白く細い首筋が露(あら)わになる。妙に色気があった。
 大刀が、振り上げられた。朝日を、刃が反射する。
 玉髄は、ぐっと唇を噛んだ。見たくない。だが、その瞬間に、目をそらすわけにはいかない。そう思った。
 そして――刃が、力強く、振り下ろされた。
「なに……ッ!?」
 その瞬間、刑吏たちが目を見張った。刑場にざわめきが走った。
 刃は振り下ろされ――確かに、少女の首に到達した。しかし、少女の首は飛ぶどころか、皮膚の上に刃を乗せたまま、一寸も斬れていなかった。
「人の使う刃が、わたしを斬れるはずはない」
 少女が膝を立てた。首の位置が、上がる。刃を押し戻す。大刀を首に押しつけられたまま、少女はゆっくりと立ち上がろうとする。
 無論、刑吏はそれを防ごうと腕に力を入れているようだった。しかし、少女の首――その皮膚にすら、傷はつかない。
 そして、乾いた音が誰も彼も押し黙った刑場に響いた。刑吏が大刀を取り落としたのだ。少女が顔を上げた。凛とした表情が、見る者の心を打つ。彼女が手首を動かすと、枯葉をちぎるがごとく容易さで、手枷(てかせ)が割れた。さらに少女が白い腕をひとふりすると、手枷は木屑(きくず)のようになって炎の中に飛び込んだ。
「おいで」
 少女の短い言葉に、彼女の衣が破け飛んだ。儚げな裸体が一瞬、露(あら)わになる。そしてそこに白い気がまとわりついたかと思うと、衣に変わる。風が青い髪を吹き上げる。彼女に付着していた、薄汚れた牢獄の残滓が消えてゆく。両の足首に金環きんかんが現れて、軽い音を立てた。
 長いようでいて、一瞬の間(ま)。そのあいだに、少女はまざまざと見せつけた。風に吹きあそぶ、青い長髪。彗星のような光を宿す、同じ色の瞳。異国風の、白く透けるような衣装を身にまとい、それはまるで天女のようであった。
手前てめえ! 本性をあらわしたな!」
 怒鳴り声が、呆然が支配していた刑場を解き放った。
 前衛将軍朱剛鋭が桟敷を飛び降りる。剣の柄に手をかけ、青玉に迫る。
「――!」
 青玉(セイギョク)が振り向きざま、剛鋭(ゴウエイ)に向かって右手を突き出した。その瞬間、剛鋭の動きが止まった。
 剛鋭の眼前に、白い針のようなものが突き出されていた。だが針ではない。青玉の手に握られた、極端に細身の剣のようだった。白銀にきらめく。
 彼女の隙のない動きに、剛鋭は完全に自身の動きを封じられていた。
「下がれ、人間」
 淡青色たんせいしょくの瞳が、赤い将軍を見据える。そしてその青い視線は無造作に、呆気に取られている国王に移った。
「青玉、やめて!」
 青玉の視線に危うい意図を感じて、玉髄は叫び――彼もまた、刑場の中央へと走った。
「――応えよ、龍たち」
 青玉のつぶやき。
 同時に、あたりに突風が吹きわたった。誰も彼も顔を覆い、玉髄も足が止まる。そしてさらに、桟敷や刑場にいる騎龍キリュウたちが混乱の叫びを上げた。彼らの如意珠ニョイジュが、彼らの指示なしに光り輝いている。あらゆる色の光が放たれ、まるで宝玉の箱のうちだ。
「なっ、如意珠が!?」
 剛鋭も、愕然として叫んだ。彼の紅い玉が、光を放って懐から零れ落ち、空へと舞い上がる。そのあなから、紅の龍が現出した。同じようなことがほかの如意珠にも次々と起こる。紫・蒼・灰・黄――天に、何頭もの龍たちが踊り出した。龍たちは吟声うなりごえを上げながら、空を自由に飛び回る。風が収まらない。それは空に雲を呼び、やがて温かい雨が降り注いだ。
 人々は手で袖で顔を隠し、怖れおののく。
「ああ……いい、気持ち」
 少女は目を細めた。剛鋭に向けていた針剣はりをおろす。次に両手を空に捧げると、その白銀のきらめきは消えていた。そのまま全身で雨を浴びる。だが、その体が濡れているようには見えない。灰色の空と混乱の中、ただひとり美しい色彩を守り、輝いているようだった。
「あなたは、いったい……!?」
 晃曜が、座から身を乗り出す。少女は、答えた。
「我が名は、青玉。かつて白き舟に乗り、銀河の果てより天下りし者なり」
「白き舟……銀河の果てより天下りし……? まさか!」
「わたしはその、なれの果て。いまや、たいした力はない」
 少女が微笑む。その意味ありげな笑みが、雨に霞(かす)む。
「大いなる災いを防がんがため、断京ダンケイに近づいたが……不覚を取った。だが、王よ。そなたらが彼の注意を惹き、体力を消耗させたゆえ、縛を解くことができた」
 そう言って、少女はゆっくりと体の前で両手を組んだ。右手を拳にして、左手で包む――拱手の礼だ。
「深く、礼を言う」
 下げた彼女の頭に、霧雨(きりさめ)がさらさらと降りかかる。だが雨粒は髪をぬらさず、地面へと落ちる。
「しかし、いまだ脅威は取り除かれていない。あの琥符コフのことだ」
「琥符?」
「あれが断京に暴なる力を与えた。この国の騎龍ですら、敵わぬほどの力だ。あの琥符は、狂気の塊だ」
 あの不思議な少女はどこへ行ったのだろう。いまここにいるのは、託宣(たくせん)を下す女神だ。
「王よ、まだ、禍は去っておらぬ。あの琥符が世にある限り、黄金の狂気がこの国を侵すだろう」
 少女の青い瞳が、神のそれになっている。神のいます空のそれになっている。淡いようでいて深く、単一であるようで複雑で、近いようでいて遠い――そんな青色を、宿していた。
「だから、力を与える」
 少女は宣言した。
「玉髄」
「へっ……!?」
 玉髄は、ハッと我に返った。その刹那、彼の懐から、父の形見が零(こぼ)れ落ちる。孔のある、黒く不格好なあの玉だった。そしてそれは、玉髄がどうする間もなく、少女――青玉のもとへと飛んでいった。
「あなたの玉、龍だったことを思い出させてあげる」
 青玉が、その玉を頭上に掲げた。黒の表面に無数のヒビが入り、そこから翡翠色の光がほとばしる。
 漆黒の塊が、玉の孔から膨れ上がった。その表面から二枚の翼が飛び出る。そして、塊は龍の形になっていく。
「翼ある……龍……?」
「漆黒の、龍……!」
 誰がつぶやいたのか、誰も覚えていない。
 鱗の境すら見えぬほど、黒い蛇体。その前脚のつけ根から生ゆる翼が、風に揺らめいている。夜闇ですらこの龍ほど黒くはないだろう。
 その黒い龍が、玉髄の前に身を乗り出した。玉髄は思わず一歩あとずさる。しかし、それ以上は動けなかった。
「玉髄、眼を、そらさないで」
 少女の言葉が、玉髄を縛った。
 目もそらせない。翼を持つ蛇体が、ずる、ずる、と少年の前に近寄ってくる。どんどん距離が縮まる。そして目が合った。
 龍の双眸そうぼうに輝くは、翡翠のごとき深い緑色。その色が、玉髄の黒い瞳にうつり込んでくる。
(魅入られ……る……)
 玉髄は、喉元に熱を感じた。灼けつくように、喉仏あたりの皮膚が痛い。思わず手で押さえたくなったが、体が動かなかった。眼も閉じられない。視線が外せない。
(こわい……!)
 自由のきかぬ身体で、玉髄は恐怖を感じていた。何か大きな、大きなものが、自分の中に入ってくる。自分を、いままでと違う場所に連れていく。
「――っ!」
 玉髄は何かを叫んだ。声にはならない。黒龍が姿を消した。彼の手の中に、あの不格好な黒い石が握られる。ざらざらした表面に、いくつものひび割れができている。その割れ目から、深い緑色がのぞいていた。
「玉髄」
 少女の穏やかな声が、玉髄の耳元で聞こえた。
「その玉は、あなたを選んだのよ」
 歪みくる視界で、玉髄は少女を見る。離れて立っているのに、声は近く聞こえる。
「応龍の力ならば。その龍の力ならば、あるいは、この国を護れるだろう」
 少女が、青玉が微笑んでいる。
「優しき少年の行く末に、正しき道筋が見えんことを」
 彼女のその言葉を聞いて――玉髄は、気を失った。

 雨が降り続いている。龍たちが、白い空に舞っている。
「さて、いま、わたしのすべきことはこれだけ」
 そう言うと、青玉は大きく息を吸った。彼女の背中にかかる髪が、盛り上がる。
「お待ちを!」
 誰も彼も呆然となる中、青玉を呼びとめた者がいる。軍師知登紀だった。だが彼女もまた混乱しているらしい。整った顔に、普段はあらわれぬ狼狽の色があった。
「あなたは、あなたは、いままで、その力を隠して――」
「賢いひと」
 青玉が目を細める。笑っているようにも見える。だが凄味(すごみ)はいままでの比ではない。
「あなたたちの日常は、これから破られる」
 青玉はスッと手を上げた。雨に乱れていた風が、方向を得て渦巻きだす。
「また、ときが来たら、語りあいましょう」
 青玉の髪の毛の一部が、彼女から離れた。否、別のものが青い毛をひるがえしたのだ。
 龍が現出していた。純白の鱗に覆われ、その背になびくのは、青色のたてがみ。青玉と同じ、蒼穹そらのような色の大きな眼。世にも珍しい、二つの色を持った龍だった。
 ふわ、と青玉の体が浮く。重さを感じさせない仕草で、白い龍の頭に乗る。龍が顎門あぎとを開いた。その鳴き声は、女の歌う声に似る。そして、少女は飛び立った。白と青の龍は、あっというまに空の高みに至り、雲に吸い込まれていく。
 その様子を、ほかの龍たちが見送るように、鳴きながら見上げていた。
 少女の姿が完全に見えなくなった時――龍たちは如意珠に戻り、それぞれの主人のもとに降り注いだ。

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初出:2009年10月4日