断京(ダンケイ)を失った跋(バツ)軍の鎮圧は、そう難しいものではなかった。
一両日中に、ある者は逃げ去り、ある者は捕縛された。
そして、晃曜(コウヨウ)たちは整然と隊列を組み、花白(カハク)の城に入った。
跋軍に怯えていた住民たちが、次々と歓喜の声を上げた。その声を聞けただけでも、凄絶な戦を忘れるには十分だった。
玉髄(ギョクズイ)は晃曜に随って、花白の官衙(役所)へと入った。荒らされた役所に、暴虐の爪痕が残る。血染みの飛んだ壁もある。
「……?」
妙な気配を感じ、玉髄はそっと王たちの列から離れた。
回廊を曲がり、幾つかある部屋のうちの、ひとつの前に来る。
「ここか?」
扉を、静かに押し開ける。薄暗い部屋の中に、そっと踏み入った。
眠くなるような、甘ったるい香りがする。玉髄は口元を袖で押さえた。見れば、霊山を模した形の香炉から、紫の煙が立ち昇っていた。
「!」
人の気配を感じて、玉髄はすぐさま身構えた。
長椅子に、白い影が座っていた。
――否、影ではない。白い布を頭から、目深(まぶか)に被(かぶ)った人だ。顔は見えない。床まである長衣が、体の輪郭も覆い隠している。しかし、布のすきまからのぞく白く細い首筋は、男のものではなかった。
女――しかも恐らく、若い。
しかし、女は剣を向けられても、微動だにしなかった。
「あなたは誰だ?」
鋭い目つきのまま、玉髄は尋ねる。女が、すっと立ちあがった。
「あなたは……平気なの? それとも、もう?」
「どういう意味だ?」
剣を女に向けたまま、玉髄は質問を返した。
女が、また口を開く。
「琥符(コフ)を、渡しなさい」
「へ?」
女の言葉を理解しようとしたとき、すらりと伸びた脚が視界に入った。次の瞬間、玉髄は胸をしたたかに打たれて吹っ飛ぶ。
「かはっ!」
玉髄は香炉に体を打ちつけ、もろともに倒れた。
金属の香炉は派手な音を立てて床に転がり、甘い匂いの灰が飛び散る。その衝撃で懐の虎符が零れ落ちた。玉髄はあわてて、それを拾い上げる。
「それを渡して!」
「駄目だ!」
執拗に、細い女の手首が、玉髄の右手に伸びる。
玉髄はそれを左手で防ぎ、また流し、さらに彼女の隙を見出そうと、両腕をひるがえす。玉髄は咄嗟に、足払いをかけた。女は受身も取らず、床に勢いよく倒れる。
「跋軍の残党か! 顔を見せろ!」
玉髄は叫んで、白い布を引っつかみ、ためらいなく剥(は)ぎ取った。
「……っ!」
視界が白に満たされた次の瞬間、玉髄は目を見張っていた。
布の中にいたのは、最初に思ったとおり、女。それに加えて、少女と呼べるほど、若かった。
しかし、玉髄はその若さよりも、彼女の別の部分に目を奪われていた。少女の長い髪が、空のごとき淡青色だったのだ。
玉髄は、言葉を失った。この国にも、赤毛や銀の髪をした者はいる。異国には、金の髪をした者もいるという。しかし少女のそれは、誰がどう見ても、常人の持つ色ではない。
「くっ……」
ゆるゆると、少女の視線が上がる。湖よりも澄んだ青色だった。その青が、玉髄の黒眼とかち合う。一瞬の隙をついて、少女が手刀を飛ばした。
「あっ!」
虎符が玉髄の手から弾かれた。少女がそれを取ろうと身をひるがえす。
「させない!」
即座に玉髄は少女を追い、細い腕をとらえて床に組み伏せた。少女は、喉からキュウ、と息を漏らす。虎符は、カチンと堅い音を立てて、床に転がった。
「これ以上、手荒なことはしたくない。大人しくしてくれないか?」
油断なく少女の関節を極(き)めたまま、玉髄はできるだけ穏やかな声で言った。
少女の青い眼が、玉髄の表情を掠め見る。やがて、諦めたように細い肩の力が抜けた。
「玉髄! ここにいたの!」
「我が君!」
騒ぎを聞きつけたのだろう。晃曜と近衛兵たちが、部屋の入り口に集まっている。
「晃曜様、どうかお下がりください」
「登紀」
そのうしろから、軍師が姿を見せた。軍師は青い髪の少女を見やり――そして、尋ねた。
「力ある方士とお見受けしました。いかなる方でしょう?」
少女は組み伏せられたまま、眼だけを動かして軍師を見た。しかし、すぐさまその視線は、床に転がった虎符に向く。
その顔に初めて、濁った表情があらわれた。
「はやく……」
「え?」
「早く、それをわたしに!」
少女が叫ぶのと同時に、虎符が黄金の光を放った。
「うわっ!」
「おおっ!?」
人々が思わず下がる。虎符は光の珠となり、宙に浮かび上がる。そのまま、彗星のごとく尾を引いて、窓辺から飛び出した。
「虎符が!」
「いったいなんだ、あれは!」
呆然と、将軍たちが窓辺で騒いでいる。
「……逃げられた」
少女が小さくつぶやいたのが、玉髄には聞こえた。
「あなたは、あれについても、なにか知っているのですね」
登紀が、また尋ねる。
少女は息を吐いた。嘆息にも聞こえた。
「いまは、語る秋(とき)にあらず」
「ならば――語っていただくまで、あなたを捕虜として扱わねばなりません。いかが?」
「拒否はしない。抵抗も、しない」
登紀が指示すると、兵卒たちが玉髄にかわって少女を拘束する。後手に縛られ、立たされる。そうされながら、少女はひとつだけ尋ねてきた。
「断京は死んだ?」
「消滅しましたよ、彼は」
「そう……」
登紀の短い言葉の意味を、少女は即座に理解したようだった。そして、両脇を兵士たちに固められ、連行されていった。
峰王国軍、跋軍を撃退。
夏が、迫り来る時のことだった。
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