鵬はゆっくりと翼を上げる。
それだけで風が起こった。暴風雨のような、激しい風。さすがの騎龍たちも、空中でもんどりうっている。
「下から煽れ! 空の上に帰すんだ!」
剛鋭が叫び、合図を飛ばす。騎龍たちは必死になって、彈を鵬にむかって放つ。だが、効果はいまひとつだ。
突如、鵬からなにかが零れ落ちた。山の木々の折れる音が響いて、そこに白い山が現れた。その山は、泥のように緩やかに崩れていく。渦巻きはじめた風に乗って、そこから肺腑を腐らせるような嫌な臭いが漂ってくる。魚が腐ったときのような臭いだ。
「あれは……もしかして」
「鵬の、糞……ってやつか」
玉髄は、青ざめた。たかが糞と侮っていたとか、予想外のものに度肝を抜かれた、などという段階の感情ではなかった。
あってはならない。
こんなことは、この世界にあってはならない。人間が生きているこの世に。――世界の異なるものへの恐怖が、ゆっくりと彼の心の中に焼きつけられつつあった。
鵬は、騎龍たちの攻撃などものともせず、今度はゆっくり旋回を始めた。
精鋭と呼ばれる騎龍たちは、この暴風と巨大すぎる敵に、体勢を保つだけで手一杯のようだ。さらにその精鋭たちから、手練と呼ばれている者たちですら、彈を十分に撃てていない。風に流された仲間が、彈の軌道の上をかすめるからだ。下手をすれば、同士討ちになってしまう。
玉髄も、何もできないでいた。いくら彼の龍が優れていても、彼自身は未熟な騎龍でしかない。
(何か……方法があるはず。何か――)
玉髄は、考え続ける。
(青玉は、斬れと言った)
彈を使って鵬を斬る。どうすればいいのか、それは頭の中でおおよそ想像できる。
(でも、この風じゃ鵬に近づけない)
ただでさえ強い風が、大きく乱れている。その乱れた空気に、龍たちは胴を流され、尾を取られ、須とたてがみをかきまわされている。玉髄の龍も例外ではない。翼を風に取られ、何度も体勢を崩しかけている。
(もっと小さければ、どうにかできる?)
変わり続ける風に機敏に対応できれば、あるいは。
(できる……か?)
応龍の翼がひるがえった。想像が固まる。
こうすれば上手くいく。そういう考えがまとまった。
(ならば!)
できる。否、ここでできなければいけない!
突如、玉髄は龍を消滅させた。少年の体は空中に投げ出され、落下していく。
「来い! 我が龍よ!」
玉髄は、手の中にしっかと如意珠を握り、叫んだ。喉元に、再び逆鱗が現れる。手の中で、翡翠色の光が強まる。しかし、玉を空中に放り投げない。頭の中で、理想とする姿を思い描く。雑念を排し、ただそれだけを願う。
「頼む、できてくれ、我が心よ!」
光が極限まで強まった刹那、玉髄は手を開いた。
先ほどよりもずっと小さく、細長い蛇体が、ずるりと現出する。それは玉髄の体にまとわりつき、前足が彼の肩をとらえ、龍頭は彼の兜に装飾のごとく乗った。そして翼が、伸びてくる。黒い、黒い羽だ。それが伸びる様子は、玉髄の背中から翼が生えてくるように見えた。
ほんの数瞬の後――空中に、ひとりの戦士が現出した。黒い翼を生やした、戦士。古い伝承にある、羽人のごとき姿だった。
「できた……!」
玉髄は思わず口走る。喜びの混じったつぶやきだった。その喜びも薄れないうちに、剣を抜く。そして、彈の特別なかたちを念じる。青玉がそうしていたように、霊気のかたちを想像する。龍から緑の小さな彈が現れ、剣にまとわりつく。
銀の刀身が、鵬の影を映し――そして、翡翠色の光が、剣を大剣へと変貌させた。
それを下段に構え、玉髄は大きく息を吸った。風の強さを見る。体に、刹那の力をこめる。
「行くぞ!」
玉髄は、放たれた矢のように、上空へと加速した。暴風をかいくぐる。黒い翼が風を切り流す。
「総員、玉髄を援護しろ!」
剛鋭が叫んだ。龍たちは体勢を立て直し、鵬から距離を取った。そして鵬の大翼に向かって彈を放つ。
風を生む鵬の飛羽が動きを鈍らせる。暴風が弱まった。
「玉髄君、鵬を倒して! 蟲はあたしが!!」
「ありがとう、喜玲!」
黄色の龍が、玉髄に添う。迫りくる蟲の群を、喜玲が的確に撃ち落とした。
そして、鵬の目前へと迫る。
同時に鵬が咆えた。大気が揺れ、風が竜巻になる。鵬の体が、ぐらりと前傾した。敵を見つけたのだ。また嘴が開く。口の奥に、黄金の光が宿る。
「――!」
舌が玉髄に襲いかかる。玉髄は目を閉じず、怖れず、歯を食いしばってその黄金を斬り伏せた。
鵬が苦しみの叫びを上げた。反撃が来るとは思っていなかったのだろう。
「ああッ!」
その時、玉髄の剣が砕け散った。彈の負荷に、耐えきれなくなったのだ。
「玉髄、俺の剣を使え!」
亮季が、素早くおのれの腰の剣を取った。鞘ごと、黒の羽人へと投げる。玉髄はしっかとそれを受け取った。
「負けんな!」
「ああ!」
玉髄は剣を抜き放ち、鞘を捨てた。鋭い刃の光が、その強さを物語る。投げ飛ばして使う騎龍の剣は、その過酷な使用法に耐えうるものでなければならない。亮季の剣は、玉髄のものよりずっと業物だった。
「やれる!」
玉髄に恐れはなかった。剣に彈をふたたびまとわせ、速度を増していく。翡翠色を宿した瞳が、鵬を正面から睨みつけた。
「こんなことで滅びるなんて」
嘴に、緑の光がぶつかった。厚い黒檀の板が割れるような、厭な音がした。
「絶対に、厭だ――ッ!」
玉髄は奔った。火花が飛び、鵬の体の上を、滑る。頭から尾羽までを貫く白線を、斬りなぞる。剣先の通った場所に光の筋が描かれる。翡翠色の剣の筋だ。
「おおおおおおおおッ!!」
渾身の力を込めて、玉髄は剣を振り上げた。
次の刹那、緑の筋が、大きく弾けた。鵬の巨大な体が、真っ二つに割れる。
「青玉――!」
確信をこめて、玉髄は叫んだ。鵬の体内に取りこまれた、あの少女に向かって。
「玉髄!」
割れゆく鵬の体内から、返事があった。
緑の光の中から、黄金の光が飛び出してくる。黄金の光に包まれた、深い緑色の割符――琥符だ。
「斬って!」
一閃。
玉髄は、声に応じて剣を振り下ろした。金の光が割れる。堅い感触が一瞬して、そして弾けるように割れる。琥符は真っ二つになって、光を失った。
「うわっ!」
彈の負荷に耐えきれなくなった剣が、粉々に砕けた。玉髄は柄ごとそれを放棄し、空いた手で二つになった琥符を捕らえた。目の届かないところにそれを落とすのは、あまりに危うく感じたからだ。
「青玉、手を!」
鵬の割れた背から、青い髪の少女が、ただ一人身で飛び出してくる。玉髄は手を伸べた。青玉もまたそれに応じる。
「まだよ、玉髄!」
「ああ!」
大気を振るわせる断末魔を残して、巨大な鵬の体が、空中で均衡を崩した。巨大な体の上半分が二つに割れ、全体が浮力を失って大地を目指す。
玉髄は手を突きだした。また彈が生まれる。それは長く尾を引いて、縄のごとく、巨大な鵬の体を絡めとる。大地に落ちるかと思われた鵬の死骸が、空中で止まった。
「く、う……!」
玉髄は顔をしかめた。重い。腕がもぎ取られそうな負荷を感じる。
「このまま……大地に下ろせば」
つぶやくと、一気に息が乱れた。
鵬の死骸から、羽根が落ちる。
「空中で消滅させろ! 一枚も地上に落とすな!」
剛鋭が叫んだ。
散った羽根を、ほかの龍たちの彈が、空中で焼き飛ばす。あたりは、幾つもの流星がぶつかり合うような、幻想的な光景に包まれた。
鵬の亡骸を支えているのは、玉髄の彈だけ。そして、彈に絡めとられた鵬の体は、ゆっくりと、だが確実に高度が下がってきている。
「どうしよう……このままじゃ、落ちる……!」
「あとは、わたしが」
青玉が、右手をすっと差し出した。
青く細い、糸のような光が、鵬の中からそれを貫く。それは何本もあらわれ、鵬は針で刺し抜かれたかのような姿になる。
青玉の意図を悟った剛鋭が退避を叫ぶ。小蛇を散らすように、龍たちが距離を取ろうと逃げていく。
「鵬よ、安らかに」
青玉は小さくそう言って――そして、手を振り下ろした。
鵬の内部から、雷光が轟いた。緑色の光網ごと、青い光が鵬を呑みこむ。鵬の体が、焼き尽くされていく。強い――しかし、浄化された風が、大気に広がっていく。異臭を吹き飛ばし、焼かれた蟲の残骸を消し去る。
鵬の中には、まだ青玉の龍がいた。純白の龍が放った彈は、鵬の体を内部から喰い破っていく。
琥符という力を失った大鳥は、たやすく、消滅していった。
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