龍は吟じて虎は咆え
伍ノ五.少年


 夕餉はなんとか平穏に済ませ、玉髄は青玉に割り当てた部屋にまで、彼女を連れていく。
 二つの部屋が続いた造りで、奥のの方に寝台がある。
「ここで過ごせばいいのよね?」
「ああ。中のものは好きに使って。隣に女茄を控えさせてるから、用事があったら、必ず彼女を通してね」
「玉髄は、ひとりなの?」
「……うん。父はもう亡くなったし。母は、東の領地のほうで暮らしてる。親戚もあまりいないから、使用人を除いたら僕ひとりだね」
「そう」
「青玉、夜中に抜け出したりしないでよ。一応、君は……まだ罪人なんだからね」
「うん」
 玉髄は、内心苦笑した。まるで口うるさい母親だ。
「じゃ、おやすみ」
 玉髄は奥の間を出て、控えていた女茄に小さく声をかける。
「女茄、よろしく頼む。変なところで、子供みたいな人だから」
「玉髄様は、あの方を拡小評価しすぎだと思います! あの方は、仙女様ですよ?」
「はいはい。君が世話をしてくれて、助かるよ」
 肩をすくめて、玉髄は興奮する侍女をなだめた。
 自室に戻り、玉髄は別の家人に命じて、風呂の準備をさせた。いろいろなことが起こりすぎて、体も心も疲れている。それを洗い流したかった。
「若様、湯の準備が整いました」
「ああ」
 家人たちの多くは、玉髄を「若様」と呼ぶ。この家の当主はすでに玉髄であるのに、「旦那様」とは呼ばない。だが仕方のないことだ――玉髄はそう思っていた。先代、つまり彼の父が、偉大すぎた。家人たちとって「旦那様」とは、いまだに玉髄の父のことを指すのだ。
(その方が……僕のほうも、しっくりくるけどな)
 髪を解く。腰まである長い髪だ。男のものとは言え、長くなると自重で大人しく垂れ下がる。その乾いた髪が腰の辺りに触れる感触は、くすぐったい。女の指で、かすかに触れられたなら、こんな感じがするだろうか。
 玉髄は、湯気に満たされた浴室に入った。
 広い浴室は、亡き父が母のためを考えて作ったものだ。貴族の箱入り娘であった母には、いつも世話役の侍女がついていた。水はけのよい洗い場が広いのは、数人が一度に入ってもゆとりがあるように作っているのだ。
「はあ……」
 湯につかって、玉髄は息を漏らした。嘆息ではない。久々に緊張がとけた気がした。
(青玉……か)
 立ちのぼる湯気を見ながら、あの少女のことを考える。
『――あの方は、仙女様ですよ?』
 女茄の言葉が蘇る。そうだ。彼女は、自分たちのような人間ではない。感覚がズレていると思い知らされるときが多い。生きている世界が違う。それは、繰り返し、感じていることだ。
 彼女は、それをわかっているのだろうか。
(そうだよなぁ……)
 とらえどころがない。それは、玉髄も感じている。けれども、会話を重ねれば、それほど警戒する気持ちもわいてこない。
 それに、眼と髪の色を考えなければ――とびきりの、美少女だ。全身の肌は白く、唇や頬は薄紅色(うすべにいろ)を帯びている。いつも垂らした髪は、夜でも艶を保つ。
(……いや、色さえも……彼女の美しさだ)
 そこまで考えて、玉髄は飛び起きた。
(僕は……いま、なにを考えて!?)
 湯が大きな音を立てる。大雑把な水泡が、わきあがって消えた。
(いや、違う! 綺麗だけど、そういうことじゃなくて!)
 支離滅裂な思考で悶(もだ)える。バシャバシャと水が派手な音を立てた。
「あのー若様、どうなされましたー?」
 外で火の番をしていた下男が、いぶかしげに尋ねてくる。玉髄はハッと我に返った。
「いや、なんでもない! 虫が来て驚いたんだ」
 苦しい言い訳をして、玉髄は口元まで湯につかった。
(いやな予感がする……)
 明日からはどんな騒ぎが待っているのだろう。そう思うと、玉髄は口元から盛大に泡を吐きだした。そしてその間抜けなため息に、顔を赤くしたのだった。


 次の日も玉髄が参内すると、晃耀は別の侍従から、西方からの報告を受けていた。
登紀トウキが、戻ってくるそうだ」
「呼び戻されたのですか」
「いや、相談の書簡を送ったら、戻ってくると言ってね。西方のこともあるのに。これじゃ予が頼りないみたいだ」
 まだ若い国王は、ふてくされたように頬杖をついた。
「登紀も、気負ってるのかな。父上が予のことを頼んだから」
 先王は、その臨終の真際まぎわに、臣下たちに晃耀のことをねんごろに頼んだ。軍師も、将軍らも、そして畏れ多くも玉髄までもが間近に呼ばれ、託された。その様子は、守護神とまで言われた先王が見せた、人の親らしい一面だった。
 それは、長い戦をともに戦ってきた臣下たちに、忠心と人情を植えつけた。
「軍師殿は、臣下としてのつとめを全うされたいだけですよ」
「わかってる」
 晃耀が笑った。ふてくされた態度はわざとだったらしい。
「そうだ、玉髄。登紀から、君宛ての書状も来ている」
 晃耀は、別の侍従に指示をして、一通の書簡を持ってこさせた。それを玉髄に手渡す。
 その中身を見て、玉髄はしばし固まった。

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初出:2010年庚寅6月18日