龍は吟じて虎は咆え
弐ノ三.心通うとき


登紀トウキ、例の子だけど、乱暴なことはしていないだろうね?」
 幾日かして、王は軍師に問うていた。
「ええ、もちろんです。ですが……」
 ゆるやかな巻き毛を軽く揺らし、歳若い女軍師は、首を横に振った。
「何度か尋問を重ねましたが……自分の名前すら、答える気配はございません」
「気長にね。玉髄ギョクズイも、やってくれてるから」
「ええ、わかっております。ですが……玉髄殿に、あの少女の心を開けるのでしょうか?」
「僕の侍従を舐めないでね、登紀」
 国王は得意げに笑って、軍師をたしなめた。
「御意」
 軍師も思わず笑顔になって、拱手きょうしゅした。


「お腹、空いたでしょ?」
「ありがとう」
 その日も、玉髄は少女の夕食を持って、地下牢へと入った。
「……今日は、いいものを持ってきてる」
 粗末な食事を渡したあと、玉髄は、自分の幅の広い袖(そで)の中を探る。そこから、赤い果物を取り出した。少女の目の前に、それを差し出す。
すもも……?」
「ないしょだよ?」
 いたずらっぽく、玉髄は笑った。
 彼が持ってきたのは、種も小さく、皮も食べられる早生はやなりの李だ。格子ごしに手渡すと、少女は果汁の一滴も逃さぬように、果肉をほおばった。
「もしかして、好きなの?」
「うん。果物は、特に好き」
 その目元が、嬉しそうに笑っている。、甘い匂いが、かすかに牢の空気に混じった。
「あなたって、不思議な人」
「……そうかな?」
 少女から笑顔で言われて、玉髄は困ったような表情になった。
「玉髄、玉髄」
 少女の手から果物がなくなった頃、少女がちょいちょい、と手招きしてきた。
「なに?」
「もうすこし、こっちに来て?」
 玉髄は、何気なくそれに応じた。その瞬間、細い腕が格子のあいだから伸び、少年の背中をとらえた。ぐいっと強い力で引き寄せられる。
「ちょっと……!」
 玉髄は戸惑った。少女の美しい顔が近い。白く細い手がするりと伸びて、玉髄の懐をまさぐる。ぞくぞくと、背筋に奇妙な感覚が奔った。
 だが、少女に色っぽいことをする意志はなかったようだ。何かをつまんで、ぐっと引き出す。玉髄の懐から、紐(ひも)につながれた石が出てきた。
「そ、それは、駄目だよ!」
 玉髄はあわてた。
それは、黒い石が一個、紐にくくられただけの首飾りだ。ざらざらした石には、いびつな形の孔(あな)がある。美しさとはほど遠い奇妙な石だ。だが玉髄にとっては大切なものだった。死んだ父の形見なのだ。
 少女は、玉髄の様子を気にした風もなく、物珍しそうにそれを見つめた。一度二度くるくると回す。青い瞳に、その石のすべての角度を刻み込んでいるように見えた。
「これ、如意珠ニョイジュ?」
 唐突な言葉に、玉髄は完全に呆気に取られた。
「そう、なのかな」
 如意珠と言うのは、騎龍キリュウにとって、必要不可欠なぎょくのことだ。さまざまな色の、あなのある丸く美しい宝玉の中に、勇ましい龍が封じ込められている。騎龍はこの玉から、おのれの龍を呼び出し、戦うのである。
 龍を我が意のごとく操れる珠――だから、人々はそういった玉を如意珠と呼ぶ。
「父と、父の龍が死んだときに、龍の体から出てきたんだ。でも、いろいろな人に見せたけど――如意珠と言う人は、誰もいなかった」
「普通は、とても美しいものだからね」
「そう。こんな黒くて、ざらざらした石が如意珠なんて……騎龍の人たちが聞いたら、きっと卒倒するよ」
「ふうん……」
 少女は、ぱっと指を石から離した。黒い石は、玉髄の胸元に返る。玉髄はやっと、格子から離れることができた。
「ねえ」
 少女が首をかしげ、意味ありげに玉髄を見上げた。
「なに?」
「好きな子はいる?」
「えっ、ええっ!?」
 唐突な質問に、玉髄は自分でも驚くほど狼狽(ろうばい)した。しかし、少女はさらりととんでもないことを口にする。
「子供を作りたいと、思えるような人」
「そそ、そんなのいるわけないだろ!?」
 玉髄は力いっぱい否定した。頬が熱い。きっと、顔中真っ赤になっているだろう。
「だって僕は晃耀コウヨウのお世話で忙しいし、君と話さなくちゃいけないし、屋敷だっていまの僕じゃ維持するのでいっぱいいっぱいだし……」
 顔の熱さが、彼を雄弁にさせた。目を泳がせながら、こめかみあたりに浮かんでくる汗を手でぬぐう。言わなくていいことまでしゃべっていることに、まるで気づいていない。
「まだ身分が低いから、縁談もほとんどないっていうのに、そんなこと考える余裕は……」
「ふふっ」
 少女が、いたずらっぽく笑った。
「面白い人ね、玉髄って」
 そう言われて、玉髄は言葉に詰まる。今度は、言葉が出てこなかった。口がわななく。
「……からかってるの?」
 深く息をついて、やっと言えた。つぶやくような問いは、声が低くなる。
「ううん。そう思っただけ」
 少女からは、悪気が感じられなかった。玉髄は大きくため息をついた。
「そろそろ行くよ。また次の時に」
 膳を取って、牢をあとにする。その背中に、軽やかな声がかかった。
「ね、玉髄。果物の恩、忘れないから」
「た……たいしたことじゃないよ。気にしないで」
 少女の笑顔がまぶしい。まるで牢獄にいるとは思えない。その様子に、妙な胸騒ぎを覚えながら、玉髄はそこをあとにした。

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初出:2009年9月14日