その日が来た。
新月の前夜だ。糸のように細くなった月は、黒い空の傷だ。殺気だつ夜には、白ささえわずらわしい欠点となる。
厳戒態勢が敷かれた学園は、もったりとした空気に包まれていた。人間たちの警戒心そのものを結界にしたような重い空気だ。
「間に合いましたね」
「……何とかな」
学園内の電源や連絡系統を司る場所には、ことごとく爆発物が仕掛けられていた。学園内のコンピューターには時限式のウイルスが仕込まれていた。どちらも何とか除去し、生徒らの配備も終わった。
時刻は深夜二時になるところだった。
(まちがいなく鬼児の仕業だ)
学園長は確信していた。学園の機能を後方から弱らせる仕掛けは、鬼児の仕事に違いない。
やったのは岡留だ。彼女は鬼児になったのだろう。
「もうすぐ丑三つ時だ」
構内全ての時計が、カチリと二時を指した。
学園の東端で爆音が上がった。土煙が上がっている。
「学園長、古井戸の防衛ラインが突破されました。損害は軽微です」
配備された全員に、相互通信式構内電話が支給されている。離れていても会話が可能だ。
「予定どおりだな。進路は?」
古井戸から正面玄関までは、トンネルのように結界を張らさせている。土蜘蛛の群れは結界でできた道に沿って進むしかない。
「そちらも予定どおり、こちらに向かってきます」
「わかった」
学園長は全員に向かって叫ぶ。
「総員、迎撃準備!」
屋上に設置されたサーチライトが、広大な正面玄関前を照らす。
光の中に影が浮かぶ。鬼の姿が現れる。
悪夢のパレードだった。
異形の鬼が舞いながら進む。子象ほどもある巨大な蜘蛛が列をなす。その周囲は、無数の小蜘蛛らが這い回り、まるで黒い絨毯が動いているようだ。
もっとも大きな蜘蛛を乗り物にして、四つ腕の鬼は姿を現した。
『約束どおり、参ったぞ』
朱顎王のかたわらに岡留の姿がある。マキシ丈の赤いワンピースをまとっている。
「古井戸から玄関前まで、一本道の結界……」
岡留が地面に下りたち、前に出る。
「ご歓迎、痛み入ります。ヤコージュ学園の皆様」
岡留はスカートの両端をつまみ、まるで貴婦人のように礼をした。
「さすがですね、学園長。苦労して仕込んだのに、発動しないったら」
岡留がリモコンのようなものを捨てた。爆発物の発火スイッチだったのだろう。
『だから言ったのう。鬼神に横道なし、と』
「結局、その方が早かったですわね」
朱顎王と岡留は親しげに言葉を交わす。
「岡留君! どういうことだね!?」
「こういうことです、学園長」
岡留はずるりと舌を出した。薄いピンク色の肉の上に、「ム」の刻印があった。
「呪印……か」
学園長は苦虫を噛みつぶしたような顔になる。
「岡留君! 君は操られているんだ! 鬼を倒せば、呪いは解ける!」
学園長は叫んだ。最後の希望を賭けた言葉だ。おのれの意志と無関係に操られているのならば、彼女は無実だ。まだ助けられる。
「操られてなどいない!」
岡留の返事は、希望を打ち砕いた。
「私はみずから望んだ。望んで呪印を受けた。操られてなんかいない!」
はっきりと意志を示す。自分は鬼児だ、と。
「警備員を喰ったのも、私よ」
人を捨てる。
人を捨て、鬼に成ると。
鬼に成ってやるんだと。
岡留美之は宣言した。
「なぜ、鬼児などに!?」
学園長が続けて問う。
「つがうの」
「え……?」
意外な単語だった。
「私たち、夫婦になるの。私、朱顎王様の妻になるの」
岡留は自分で自分を抱きしめるように腕を絡め、恍惚と空を見上げる。
「ああ……素晴らしい。あの素晴らしい方が、私のものになるの。そして私はあの方のものになるの。あの方ににふさわしい姿にしていただくの」
美しい顔に朱を昇らせる姿は、妖艶な女郎蜘蛛だ。
「今宵は私たちの婚儀。祝いの品に、玉石一磨がほしいだけ」
うっとりと祝儀をねだる。
『さあ、もうよかろう。哀れな人の殻を捨て、生きながら生を変える時ぞ』
「はい、我が君」
『見よ、我が花嫁の姿を!』
「ああ……!」
岡留の体が反り返る。全身の筋肉が脈打ち、異形に変化する。
額に角が盛り上がる。口が裂ける。上半身に蜘蛛の糸のドレスをまとい、下半身は巨大な女郎蜘蛛の姿になる。
ここに、あらたな土蜘蛛が誕生した。
『私は女王。土蜘蛛の女王、絡新婦!』
鬼独特の擦過音まじりの声が、岡留――否、絡新婦の口から放たれる。
『我が一族よ、今宵は宴だ』
朱顎王が諸手をかざす。
『奪い、喰らい、いたぶり、殺し、血の酒肴を愉しもうぞ!』
土蜘蛛の軍が、疾風に似た鬨の声を上げる。
「……笑止」
学園長はキッと睨んだ。
「岡留美之、現時刻をもって君を怪異存在と認定し、排除対象とする!」
みずからの意志で異形と化した人間は、倒されるべき存在となる。
学園長の叫びから、怒りと哀しみを感じ取らない者はなかった。
「明けぬ夜はなし。滅ばぬ者はなし。古きバケモノども、滅すのはお前たちだ!」
人間たちが雄叫びを上げる。
戦争が始まった。
「急々如律令、勅!」
紙でできた人形が飛んだ。小さな人形はたちまち大きくなり、武者の姿になって土蜘蛛に向かう。陰陽師が使う式神だ。
土蜘蛛側も負けてはいない。大型の土蜘蛛が鬼火を吐く。邪気を帯びた炎が、式神を焼く。
「押されてんぞ、陰陽式神学! もっと頑張れ!」
「うるっさいわね! あたしに指図しないでよ!」
才二のヤジに、仲本が怒鳴る。彼女は陰陽師系の術を得意としている。同じく式神の使役を得意とする生徒らが次々と自分の式神を放つ。
「対妖兵器学の連中はどーしたのよ!」
「今やってんよ!」
才二ら数名の生徒が、ガシャガシャと兵器を構える。火炎放射器に似たそれは、不動明王の種子「カンマーン」の梵字が刻印されている。
「対妖兵器火炎砲『不動』R型、行くぜ!」
才二が叫ぶ。彼は対妖怪に特化した兵器の扱いが得意だ。
「穢れは浄化だァッ!」
兵器が火を噴いた。紅蓮の炎が、土蜘蛛軍を襲う。小虫が次々と燃え尽きる。
「ちょっと平島! 施設に火ぃ着けるんじゃないわよ!」
「うっせー、仲本! オレに指図すんな!」
憎まれ口も信頼のあかしだ。
現在、人間側は遠距離を攻撃できる兵器や式神を全面に押し出して戦っている。人間が直接前へ出る肉弾戦は、最終手段だ。
「もっと戦力がいるな……」
才二がつぶやいたとき、いくつもの光の球が学棟を越えて飛んでくる。
「あれは……」
光の球と見えたのは、何人もの子供だった。美しい着物をまとい、みずらを結った童子たちが空から舞い降りる。
「守護霊学の護法童子だ!」
仏法では僧侶が魔物から身を守るために使役する童子神がいる。それが護法童子だ。十二、三歳くらいの子供の姿だが、手に矛や杖・剣を携えている。
降りたった童子たちは、たちまち中型の鬼らと干戈を交える。土蜘蛛を次々と倒す。
「よっしゃ、人間は後方支援に徹せ!」
「押し戻せェ!」
一気に人間側が優位に立つ。
『小賢しい人間ども、これでも喰らえ!』
大蜘蛛らが横並びになり、口を開く。疾風のごとく毒気が吐き出される。
「毒気だ!」
全員が退こうとしたとき、学園長が前に立つ。
「学園長!?」
手印を結ぶ。両手を組み、両親指と小指のみを伸ばす。
「オン・マユラギランディ・ソワカ!」
――おお、仏母大孔雀明王に帰命したてまつる。吉祥成就。
仏法守護の神、孔雀明王に身をゆだねる真言だ。
純白の孔雀が現出し、風を巻き起こす。毒気を押し返し、同時に浄化する。
『孔雀明王陀羅尼……』
孔雀明王とは、孔雀を神格化した女神の名だ。孔雀は本来より気性の荒い鳥だ。獰猛な毒蛇を狩って喰らう。その神の力を借りる修法は、あらゆる毒を退け恐怖や災いを鎮めるという。修験道の祖・役小角はこの法を修し、鬼も神も使役したと伝えられる。
『相性最悪ね』
絡新婦がつぶやく。孔雀明王の修法は毒虫たちの天敵だ
「無駄だ、土蜘蛛ども。毒気など先刻承知。我らには効かぬ!」
学園長が啖呵を切る。
『奥の手というわけ?』
絡新婦が笑う。
『だけど、奥の手はこちらにもある』
『妃よ、アレを出せい』
『はい、我が君』
絡新婦は後方に下がり、クッと腹部を曲げる。腹部の後端にある出糸突起が盛り上がり、球を排出する。
一磨の独鈷杵を閉じこめた球だった。如意宝珠を封じた球だ。
『すべてを切断せし金剛石、聖なる尊き宝珠よ、吉祥成就!』
絡新婦の声が響き渡る。
刹那、金色の光が周囲を貫いた。人間側は目がくらむ。
「しまった!」
真言に、如意宝珠が応えてしまった。
絡新婦は球を朱顎王に投げる。朱顎王は大口を開け、封じた球ごと独鈷杵を呑みこむ。あらゆる願いを叶える如意宝珠が、朱顎王の体内へ消える。
『オオ……オオオ……!』
朱顎王の口から、随喜の声が漏れる。乗った大蜘蛛の上でうつぶせになる。
「撃て――――!!」
学園長が叫ぶ。兵器が硝煙を上げる。式神と童子が突撃する。
『滅せよ』
朱顎王の声に応じて、土蜘蛛軍の前に目に見えぬ障壁が生まれる。障壁にふれた式神や童子は、まるで砂金のような塵となり、消えた。
『刻みつけよ、人間』
朱顎王の背中が裂ける。脱皮だ。人間型の姿を捨て、土蜘蛛本来の姿に戻る。
『これぞ真の我が姿』
土蜘蛛の王、朱顎王はまことに鬼王となった。四本の太い牙が左右に開き、八つの目の間に角状の突起がある。タランチュラに似た太い胴体と脚は、光を反射して金銅色に輝く。すべての脚に指が三本あり、鋭い爪が伸びる。
モコリ、と胴体が盛り上がった。独鈷杵を封じた球が皮膚から頭を出す。指輪の宝石を支えるツメのような突起が、しっかりと球を固定している。
『我こそは土蜘蛛の王、朱顎王なり!』
名乗りの声が風となって吹き荒れる。
「おぞましい……!」
学園長がつぶやく。
『我が巣となれ。我が糧となれぃ!』
朱顎王が叫ぶ。大蜘蛛たちが後方を向き、腹部をもたげる。出糸突起が盛り上がる。
蜘蛛の糸が放たれた。膨大な量の糸が校舎に降りかかる。如意宝珠は、大蜘蛛たちにも力を与えたのだ。
「くっそ、何だコレ!?」
才二がもがく。粘着質の糸で動けない。制服を脱ぎ捨て、ようやく兵器を構えなおす。
「喰らいやがれ!」
紅蓮の炎が、蜘蛛の糸を襲う。
だが糸は焼けない。ガラスのように硬質化しはじめる。
「嘘だろ!? 浄化の火が効かねぇ! そんなバカな!」
「式神も……ダメだわ!」
武器を封じられた。
『さあ、宴を続けよう』
優位に立った土蜘蛛軍が、じわりじわりと前に進む。
捕食者の愉悦があたりを包んだ。
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