破鍋プルガトリオ
第四幕 鬼神ローリング

 その日のうちに退院してきたアズマと合流し、三人は熊野へ発つことになった。
 アズマはナツキらがさらわれたと知って、協力を承諾した。ナツキを助けるためではない。
「リョウの妹は無関係だったはずだ。だが巻きこんでしまった」
 その責任を取るというのが理由だった。
紀州熊野きしゅうくまの妙法山みょうほうざんへ向かう」
 熊野へは車で数時間かかる。
 時間はすでに夕方になっていたが、一刻を惜しんで三人は出発した。
「それにしても妙法山とは……まずいことになったよ」
「そう、なんですか?」
「ウチのお膝元もお膝元。そこに義経らは巣を作ったってことさ」
「妙法山って……山ですよね?」
「うん。日本の山は欝蒼と深く、里人の想像もおよばぬモノが棲み、コトが起こる」
 高速道路を飛ばしながら、イズルは説明する。
「わかりやすく言うと、猿みたいな人間に会ったとか、山ン中で死んだはずの身内に会ったとか……そういう伝承は結構あるんだよ」
 山が妖怪と死の世界につながっている。現代人が忘れてしまった考え方だ。
「熊野もまた、死者の国なのさ。山が海が川が、死と再生を司る異界プルガトリオ
「死者の……」
「義経はそこで、自己の再生を果たすつもりかもよ」
「不良たちが消えたのは……」
「もちろん、自分の肉体のかわりにするためさ」
 陽が暮れ始めた。無数のライトとすれ違う。
「プルガトリオには、強い霊感のある者しか入れない。不良たちは相性がよかったか、はたまたこっちの世界の誰かに操られたか……」
「そんなの決まってるでしょう! あのマスミが何か薬を使って――」
「そうかもしれないね〜」
 イズルは標識をちらりと見る。
「ちょっと寄るよ」
 紫のミニバンは、サービスエリアに入った。
「よしよし、来てるね」
 大型車用の駐車スペースに、ヤトー警備の中型バスが停まっていた。
 イズルたちもミニバンを停め、下りた。
 バスの中からは、特殊スーツを着た早瀬と上地が下りてくる。
「早瀬さん、上地さん、すまないね」
「いえ、これが我らの使命ですので」
「人員は集められた?」
「腕ききを集めました。地元に戻れば、さらに多くの戦士が集まるでしょう」
 スモークを貼ったバスは中の様子が見えないが、おそらく早瀬や上地と同じような者らが乗っているらしい。
「それよりも、義経の要求している物はどうするのです?」
「持ってきてある。交渉は、アズマ君たちにまかせる」
「何ですって!?」
「子供にそんなことを……!」
「残念ながら、僕には霊感がない。義経の強さを考えても、交渉は彼らにまかす」
「わかりました。あなたがそう仰るなら」
 早瀬たちは引き下がる。
「というわけだ。君たちに、ツキちゃんたちの命運を託すよ」
「は、はい!」
「ああ」
 ヤトー警備の者たちと別れ、ミニバンに戻る。
「……二人とも、これを」
「あ、はい」
 イズルがダッシュボードを開けた。桐の小箱を取り出し、リョウに渡す。
「これ……」
「〈大日の法〉の一部さ。かなり長い呪文らしくて、それだけじゃ何も起こらなかった」
「と、唱えてみたんですか?」
 アズマがわずかに身を固くする。
「まあね。けど、おそらく義経の方も同じなんじゃないかな」
 長すぎて覚えられない。すべて唱えないと発動しない。だからわざわざ敵前で巻物を広げる必要があった。
「伝承によると、〈大日の法〉は鬼を退け生死をも操る秘法だ。おそらく義経復活には、その巻物が必要不可欠なんだ」
「だから、人質を取って!」
「卑怯な連中め」
「リョウ君、アズマ君。それを預ける。上手く使って、ツキちゃんたちを助けるんだ!」
「はい!」
 イズルはラジオのボリュームを上げる。
「君たちだけが、今、信用できる仲間だ。頼むよ」
 陽気な音楽に、そのつぶやきはかき消された。
 コンコンと運転席の窓を叩く音がした。イズルが窓を開けると、いきおいよく風が吹きこんでくる。
「竹葉さん、準備できました! お気をつけて!」
「ああ、ありがと!」
 車の窓越しからも聞こえる轟音。ドラマや映画で聞く、ヘリコプターの音にそっくりだ。
「え、何?」
「二人ともシートベルトは忘れずにね」
「えっ、何、ちょ、浮いてる!?」
 いきなり、三人の乗ったミニバンが宙に浮いた。
 窓に張りついてみると、ミニバンの下に金属製のプレートがしかれ、その四隅からワイヤーが上に向かって伸びている。
「ええええええっ!?」
 ミニバンがヘリコプターで輸送されはじめていた。車はしっかり固定されているらしく、高速を走る車の光が遠ざかり、街の灯が眼下に広がる。
「イズルさん、すこし大げさじゃありませんか」
「すこしってレベルじゃねーぞ!」
 冷静なアズマに、リョウはすかさずツッコんだ。
「いやーこっちの方が速いからねー。運転せずに済んでラッキー」
 イズルはいつもと同じとにヘラヘラ答える。
「いったい何なんですか、熊野党って!」
「うふふ、歴史が深いとね。いろいろできるようになるかもよ〜」
 街が遠ざかる。
「ま、その歴史はいいものだけじゃないんだけどね」
 意味深につぶやいて、イズルはハンドルにもたれかかった。

 およそ二時間後、一行は熊野妙法山に到着した。
 麓の空き地に着陸し、一行はノロノロと車を前に進める。
「うわっ!」
 強いサーチライトが、ミニバンを照らす。
「出よう。仲間たちだ」
 車から降りると、烏宝印うほういんのマークがついた特殊スーツの集団が敬礼する。
「皆、ご苦労様。状況は?」
「道の封鎖、一般人の退避は完了しています」
「すでに地元の戦士で編成した先遣隊が、山中の偵察に向かいました」
 麓の空き地に、まるで軍事演習のような光景が展開する。
「妙法山の連中は?」
「それが……数時間前に連絡が取れなくなりました」
「ありゃー先手を打たれちゃったか」
 イズルはへらりとした雰囲気を崩さなかった。
「二人とも、こっちへ」
 ぽかーんと突っ立っていたアズマとリョウと手招きする。
 空き地に立てられたテントの中に入ると、卓上に地図が広げられている。
「山頂までは整備された道路が続いてる。奥地についても、ある程度の道はある。このあたりには神社もお寺もあるし、門前町みたいな感じで人も住んでるよ」
 熊野党たちも集まってくる。
「まずはそこを調べようか」
「しかし、山中に隠れられてしまうと、夜間の捜索は困難になりますが」
「いくら神出鬼没とはいえ、生身の人間をたくさん山奥に連れてくのはしんどいでしょー。どっかの施設に隠してあるか、道の近くにいるんじゃない?」
 現地と連絡が取れないなら、すでに敵が占拠してしまったのではないか。
 イズルはそういいながら、占い道具を広げ始めた。黒い算木を地図の上に置く。
「うーん、乱れてるなぁ」
「山の霊気が、ということですか?」
「うん。おそらく」
「俺たちは、何をすればいいんですか?」
「とりあえず、先遣隊の連絡を待とうかー」
 へばっているヒマはない。アズマとリョウもスーツと防具を着こみ、指示を待つ。
「で?」
「……で、とは?」
「長老がたはどうしてるのさ。熊野に地獄からの指名手配犯が入りこんじゃったんだよ?」
「そ、それが……」
 若い戦士が言いよどむ。
「義経の侵入を許したは、関東本願に責任がある。そちらで処理せよと……」
「そっかー……ま、いっかー」
「いいんですか!?」
 さすがにリョウが突っ込んだ。
「だってしょうがないじゃん。大丈夫、だいじょぶ。僕らには切り札があるしね」
 切り札とはもちろん、アズマとリョウ、そして〈大日の法〉だ。
「占い師のカンっていうのかなー。きっと大丈夫だって、感じるんだ」
「そんな楽観的な……」
「あなたといると調子が狂います」
 緊迫してるのかしてないのかよくわからなくなる。
 そこに、別の戦士が入ってきた。
「竹葉さん! 先遣隊が戻りました!」
 先遣隊は無傷だった。
 茶髪の少年を一人、連れている。少年は傷だらけで、おまけにひどくおびえている。ガクガク震えていたが、白い布の包みをがっちり抱えこんでいた。
「あの子は?」
「道路を歩いていたのを保護したそうです」
「ふむ」
 アズマが少年の顔を見て、何かに気づく。
「お前は……」
「知りあい?」
「俺によく絡んでたグループの……」
 つまり不良グループのひとりだ。
「あ……破鍋……破鍋東……!」
 アズマの顔を見たとたん、少年はダムが決壊したように涙を流し始めた。
「こ、こ、これを、わたせって」
 震える手で、包みを差し出す。
「誰からだ?」
「せ、先輩が、お、おかしく、ば、バケモノ……!」
 そのまま少年は頭を抱えて、号泣しはじめた。
「先輩ねぇ。心当たりは?」
津久田つくだとかいう不良が、よくそう呼ばれていた」
「ふむ。とりあえず、その子は手厚く保護したげて」
「はい」
 少年が連れていかれるのを見送って、一同は白い包みに注目した。
「何だい、これ……」
「開けてみましょう」
 皆が見守る中、イズルが包みをほどく。ぱらりと布がひるがえり、中のものが転がり出る。
「うわっ!?」
「きゃっ!?」
 それは人の腕だった。鋭い刃物で切断されたらしい。切り口には布が巻かれている。
 細く白い左腕だ。手首にはブレスレットを着けている。
「――!!」
 アズマが目を見開いた。
 ピンク色の石がついた、子供っぽいブレスレット。
 八幡神社の縁日で当てたブレスレット。
「……ナ、ツキ」
「え――」

「ナツキィィィィィッ!!」

 アズマが絶叫した。
 その体から放たれた霊力が、アズマとリョウをプルガトリオに転移させた。イズルたちの動きが止まる。
 アズマの口から、息が湯気のようになってもれる。
「ナベさん、どうしたの!」
 リョウの呼びかけに反応せず、アズマは身をぐっと曲げる。
「待って! 待って、ナベさん」
 アズマの顔を見て、リョウは言葉をつまらせた。
 鬼の形相だった。怒りに燃える瞳は、爛々らんらんと輝く。噛み締めた口元に、牙がのぞく。筋肉はスーツを破りそうなほど盛り上がっている。
「ナベさん、駄目だ! 落ち着いて!」
「邪魔だてするな!」
「わ……っ」
 立ちはだかったリョウを、アズマは突き飛ばした。リョウの体は舞い、地面に叩きつけられる。リョウは驚きのあまり、動けなかった。
「ナベさ……!」
 アズマが、飛んだ。強靭な両足が大地を蹴り、その巨躯を宙へ放りあげる。
「ナベさんが……飛んでった」
 呆然とリョウはつぶやいた。
 激昂したアズマには、親友の言葉が耳に入らなかった。届かなかった。リョウはすくなからずショックを受けていた。
「オレも……」
 プルガトリオはまだ続いている。イズルたちは固まっている。
 リョウは痛む体を起こし、アズマの飛び去った方向を見据えた。
(追うしかない!)
 リョウは巻物をスーツの中に突っ込み、携帯からストラップを外す。そして山頂を目指して道路を登りはじめた。

「はあ、はあ……」
 道に沿って登っているだけだというのに、ひどく疲れてきた。山頂まではまだまだある。リョウは汗をぬぐった。
「あ……木曽路さん!」
「早瀬さん!?」
 道の横、「王子社」と書かれた標識のそばに座りこむ影があった。ホタルだ。
「木曽路さん、木曽路さん!」
 泣きべそをかきながら、ホタルはリョウに抱きついてきた。
「早瀬さん、落ち着いて。どうしたんですか?」
「わ、私じゃ人質にならないからって……ひっく、ここに置いてかれたの」
 すぐ近くの小さな祠のそばに、ずっと隠れていたのだという。
「義経はどっちへ行ったか、わかりますか?」
「わからない、わからないんです……」
「ともかく、もう大丈夫です。この道を下れば、みんながいます。歩けますか? オレはナベさんたちを追うから……」
「行かないで! いやよ、怖い!」
「早瀬さん……」
「木曽路さん……お願い……ホタルって呼んで……」
「あ……」
 しなだれかかる、女の体のたしかな重さ。
「ホタルさ……」
 名前を呼びかけた刹那、柔らかい唇がリョウの唇をふさぐ。
 まるで映画のワンシーンだ。ピンチの時にキスを交わす場面のようだ。主人公ヒーローとヒロインの想いが重なって――。
 バシン!
「!?」
 強い衝撃が全身を貫いた。リョウは倒れた。
 ホタルの右手には、スタンガンが握られていた。
「ほ、ホタ……」
「ごめんなさい、こうするしかないの」
 ホタルはリョウからストラップを奪い取る。特殊スーツのファスナーを下し、中に隠していた〈大日の法〉をも奪う。
 そして無慈悲に、リョウにスタンガンを押し当てた。
 二度目の強い衝撃とともに、リョウは意識を失った。


「う……うう?」
 どれくらい経っただろうか。
 リョウは意識を取り戻した。
「〈大日の法〉……たしかに返してもらった」
 揺れる視界が定まる。
「あ……っ」
 逆さになった視界の端に、ナツキとカザミの姿が見えた。
 そこで初めて、リョウは自分があおむけに拘束されているのに気づく。
「ツキさん! カザミ!」
 二人は後ろ手に拘束され、座らされていた。気を失っているらしい。彼女たちのわずかに動く肩を見て、リョウは心の底から安堵した。
「マスミさんも……!」
 敵に通じている疑いのあったマスミも、拘束されている。ただ彼女は傷だらけだった。痛めつけられたのだろう。
 どこかの建物の中にいるようだった。蝋燭の明かりが、板敷の床をぼんやり照らしている。
「目が覚めたか」
 狩衣姿の男が立っていた。
「義経……?」
 目をこらすと、義経ではなかった。
「あっ! たしか津久田――」
 アズマにさんざんからんでいた不良が、狩衣を着て立っている。今までにはない堂々とした雰囲気がただよう。
「ほう、この体の名だな」
 その男は自分の胸をとん、と叩いた。
「この体……?」
「義経様の依代よりしろ……」
 義経の隣にはホタルがいた。白い衣に赤い袴、千早と呼ばれる上着をつけ、巫女のような格好をしている。拘束はされておらず、まるで義経の隣にいるのが当たり前のような顔だ。
「ほ、ホタルさん! どうして!?」
「こういうことだ」
 ツクダの顔をした義経が、ホタルのうしろから抱きつく。ホタルは恍惚の表情を浮かべ、それに身をまかせる。睦まじい恋人の仕草だった。
 絶句したリョウに、ホタルがささやく。
「義経様を現世にお戻しし、我が熊野党の惣領になっていただく……」
「な……!」
「そのために……あの不良たちには供物になってもらう。鬼たちは邪魔……」
 もはや彼女は朝顔ではない。人々を夜闇に惑わす夕顔だ。
「何てことを! ホタルさん、アンタ、竹葉家に感謝してるって言ってたじゃないか!」
「そう怒るな。すべては謀よ」
 リョウの顔を、義経が真上からのぞきこむ。
「さて、我がために、そなたにも協力してもらいたい」
「こ……断る!」
 リョウはきっぱり拒絶した。
 義経は笑った。この反応は予想していたらしい。
「では……そなたの前生に聞いてみようぞ」
 義経は懐から、巻物を取り出した。ホタルがリョウから奪った巻物を渡す。
 二つを合わせると、それは黄金の光を放ってひとつになった。
 義経は巻物を広げ、文字を読み上げる。
「南無梵天帝釈……」
 何といっているのか、聞こえない。
「――!」
 ぞく、と寒気がした。嫌な汗が、リョウの体からにじみ出る。
 ざわざわと木々が揺れる。下草が騒ぐ。
「――前生の因縁を、思ひ出したまへ!」
 義経が言い放った瞬間、黄金の光がリョウを包み込んだ。
「うわあああああああっ」
 リョウは絶叫した。脳が揺さぶられる。眼球が痙攣し、世界をないまぜにする。
 胸の奥のそのまた奥から、何かが引き出される。
「あ……ああ……」
 知らない光景が見える。
 山伏姿の仲間。
 山中の鬼ヶ城。
 捕えられた女たち。
 水辺に捨てられた女の屍。
 笑う鬼の姿。人喰い鬼の。鬼の鬼の鬼の――。
みやこの……平穏を乱す者……斬る、べし……!」
 リョウの口から、呪詛がもれた。
 光が収束する。義経がリョウの拘束を解いた。
「目覚められましたか、我が大伯父上」
「……ぞ?」
 リョウの口ぶりは、今までとまったく違う。
「我が名は源九郎判官義経みなもとのくろうはんがんよしつね。貴殿の弟、頼信公よりのぶの遠きすえに候。ゆえに貴殿を、大伯父上と申し上げたてまつりまする」
 義経の問いかけも、ひどく丁寧なものに変わっていた。
「大伯父上、御名をお聞かせねがいまする」
「よりみつ――そう、我が名は源頼光みなもとのよりみつ
 リョウははっきり答えた。
 それは酒呑童子しゅてんどうじを退治した古の武士の名だ。彼の精神は今や平安時代まで巻き戻っていた。
 ホタルがするすると近づき、リョウの拘束を解いた。リョウはゆっくり起き上がり、頭を振る。ぼうっとした目で床を見つめる。
 義経がニヤリと笑む。
「酒呑童子が参ります」
 その言葉を吹きこんだ瞬間、リョウの瞳に暗い炎が宿った。
「鬼め。首を斬りたれども、舞い戻ったか」
「ええ。討たねば、また人の世が乱れまする」
 リョウの瞳の火が、ゆらゆらと揺れて強まっていく。
「どうぞお出ましください、大伯父上」
「うむ」
 ふらりと立ち上がったリョウに、ホタルがうやうやしくストラップを差し出す。受け取ったリョウの手の中で、素魄王そはくおうは現出した。
 木戸を開く。和風の古い建築が玉砂利の上に連なっている。
 そのすぐ隣からは、欝蒼とした山だ。深い木々が闇を作り、地面の岩は苔むしている。
南無八幡大菩薩なむはちまんだいぼさつ、我を鬼のもとへ導きたまえ……」
 青い炎が揺らめくままに、リョウは山中へ踏みいった。


 リョウとアズマ。二人は出会った。
 深いシダをかきわけ、広葉樹の暗い山の中で、鉢合わせた。
「鬼め……都を侵せし鬼め……!」
「義経の……手先か……武士め……!」
 記憶と憎しみが、完全に感覚を麻痺させている。
 アズマ――否、酒呑童子が。
 リョウ――否、源頼光が。
 今が消え、古の闇が戻ってくる。鬼と武士が対峙していた。
「どおりゃああああッ!」
 アズマの拳が、リョウに襲いかかった。リョウは飛びあがって躱す。アズマの拳が地面にめりこむ。山の斜面を大きくえぐり、土砂が舞いあがる。
「どこだ!」
 ハラハラハラハラ。
 ウバメガシの緑色の葉が、シダの上に降りかかる。
「おおおおッ!」
 リョウが真上から、素魄王を振り下ろす。
 アズマが躱し、即座に拳を叩きこむ。
「くあっ!」
 リョウが転がる。それをアズマが追う。
 その騒ぎに、木々から鳥たちが飛び立った。ギャアギャアと鳴き声が耳を荒らす。
 暗い森林が割れ、空が見えるようになる。足元で水が弾けた。川だ。
「くっ、ちょこまかと!」
 水辺で渡りあい、二人は崖の上で対峙した。
 否、崖ではない。滝だ。透明な水が重力によって無数の糸束となり落ちていく。滝壺には白く水がはじけ、どうどうと重い音を立てていた。
 しかし二人は動じない。ただおたがいを憎み合うのみ。
「参る!」
 さらに十数合、鬼と武士が渡り合う。斬る。殴る。躱す。飛ぶ。
「うう……っ!」
 アズマの首に、リョウが素魄王を押しあてる。
 リョウの首に、アズマの手が喰い込む。
「う、ぐ、ぐぐ、ぐ」
「おぐ、ぐぐ、ぐ」
 一歩も引かない。
 アズマの首から血が滴る。
 リョウの口の端から泡がこぼれる。
 ズ、とアズマの足元が滑る。バランスが崩れた。
「あ……!」
 もろともに、滝を落下する。二人は滝壺に吸い込まれた。
 しばし、滝の音だけがあたりに響いた。
「かっ、ゲホゲホッ!」
 水を吐いて、リョウが岸に這い上がった。全身が痛むのか、顔をしかめている。
 アズマは上半身だけ岸に引っかかっていた。気絶しているらしい。起き上がる気配はない。
「鬼め……」
 リョウはずるりと立ちあがった。アズマの首に狙いを定め、素魄王を振りかざす。
「……死ね!」
 無慈悲に。
 刀が振り下ろされた。

「ナツキさん……」
「ごめんなさい、カザミちゃん。巻きこんじゃって」
 腕の痛みなどないように、ナツキは笑ってみせた。後ろ手に縛られているので、肩を寄せてカザミをかばう。
「腕を斬られても、気丈にふるまうものよ」
 ナツキはただうつむいた。わずかに視線を上げ、ホタルを睨む。
「この世に生まれて十六年、義経の居場所がわからないはずです。速水家が、ずっとかくまっていたのですね」
 ホタルは沈黙で答えた。
「わたしたちの行く先々で義経に出遭ったのも」
「私がずっと情報を流してた……」
 ホタルは淡々としたものだ。
「あなたたち家族はいびつ……家族じゃない者に、何ら関心も注意も払わない……。特にあなたは……破鍋東しか目になかった。監視はとても楽だった……」
「悪かったわね、興味がなくて」
 マスミが目を覚ましていた。ペッと血を吐き出す。
「ホタル、ずいぶん偉くなったわね。うらやましいわぁ」
 痛めつけられていても、マスミは憎まれ口を忘れない。
 義経が手を伸ばし、マスミの顎をぐっと据える。
「トツクニの仙女よ、その腕が確かなこと、あいわかった。熊野党どもに使役される身、哀れゆえ、我がそばに迎えたきのみよ」
「その割には、アタシは殴るし、ナツキは腕を取られたけど?」
「噛みつきそうな犬は、早めに打って躾けておくべきと思うたゆえな」
「なかなか狂ってていいわね、その言い草」
 マスミはニッと口を歪める。目は笑っていなかった。
「わしの仲間ともがらとなるか?」
「さあ? どうしようかしら」
 義経は即座にマスミの頭をつかみ、床に叩きつけた。ナツキとカザミはすくみ上がる。
「マスミさん!」
「仙女よ、あまりわしを弄ぶな」
 バン、と扉が開いた。リョウが立っている。
「兄ちゃん!」
「おお、大伯父上。戻られましたか」
「リョウ、くん……?」
 ナツキがすがるように見つめ――リョウの手からぶら下がるモノを見た。
「いやあああああああああっ!」
 ナツキが悲鳴を上げた。
 リョウが持っていたのは、アズマの首だった。
「どうして、どうして、アズマ君、アズマ君、いやああああっ!」
 ナツキが狂乱しても、リョウは無反応だった。暗い目をしたまま全身から水を滴らせる。
「義経、義経、どうしてこんなことを!」
 泣きながら、ナツキは義経に尋ねた。義経はただ笑う。
「さあ、その首になった鬼のように、貴様も鬼の本性を顕わすがいいわ。さあ牙を剥いてみせよ。角の生いし顔で、わしを憎んでみせよ!」
 ナツキは激しく首を横に振った。
「違う、ちがう、そうじゃない。わたしは、わたしたちは、もう、違う……!」
 ナツキはただただ泣くばかりだ。
「わたしは……ぁ……」
 やがてその嗚咽が途切れる。ナツキの目が、暗く沈んでいた。悲しみが絶望に変わり、精神を停止させていた。
「気を失のうたか。つまらぬのぉ」
 義経は興が冷めたようだ。
「弁慶!」
 義経が大声で呼ばわると、わきでるように弁慶が巨体を現した。
「欲しがっていたその娘、持ってゆけ」
「え……!」
 言葉を失っていたカザミが、血相を変える。
「い、いや! 離して! 離してよぉ!」
 カザミは抵抗するが、難なく押さえられる。
 弁慶は無言のままカザミをかつぎあげた。
「あ……ああ……」
 ナツキがわずかに意識を取り戻す。力なく右腕を伸ばしたが、届かない。
 弁慶はカザミを抱えたまま、消えていった。
「う……う……」
 ナツキはただ涙を流す。無念の情が流れるばかりだった。
「大伯父上。その女鬼も、斬りてたべ」
 リョウはうなずいて、刀を振りかざした。ナツキの白い首をじっと見据えていた。
「もと来た地獄へ戻りたまえ」
 義経が冷たく笑い――。
「く、くくく」
 別のところから笑い声が起こった。
「く、は、はは」
 マスミが笑う。
「あははははははは!」
 含み笑いは、高笑いに変わった。
 義経があっけにとられ、リョウも刀を下ろす。
「すごいわ、すごいわ、義経。ここまで狂ってるとは思わなかったわ」
 場違いなほどケタケタ笑いながら、マスミは義経に視線を向けた。
「わしの仲間となるか?」
「ええ、いいわ」
 縄を解かれたマスミは、傷も気にしないかのように髪をかきあげた。
「で、何をしたらいいの?」
「不退の寿命を得たい。その法を教えたまえ」
「つまり、不老不死になりたいってことね」
「できるのか、否か?」
「簡単よ……アタシを抱いて」
 すらりと長い腕を、義経の首に回す。
「口を吸って。アタシを悦ばせて」
「誰が媚びろと申した?」
「勘違いしないで。不老たるアタシの精気を、直接アナタにあげるのよ」
 マスミはクスクス笑う。
「まあそれだけじゃないのも確かだけど?」
 妖艶な視線とともに、マスミは義経の体をなでた。
「アタシも長い間縛られて……久しく忘れていたのよ。肉の悦びを」
 はあ、と吐き出す息は色気に満ちている。
「思い出させて……」
 二人が口づけようとしたとき――。
「義経様、抱いては……だめ」
 ホタルが止めた。義経は怪訝そうに、愛人をみつめた。
 マスミが鼻で笑った。
「あらあら、やきもち? アンタみたいな小娘じゃ、英雄は満足させられないのよ?」
「離れて! 離れてよ!」
「あら、こわいこわい」
「ホタル、邪魔だてするな」
 しゅ、と刀がひらめいた。
 義経の刀が、ホタルの首を貫いた。
「な」
「口応えだけの女は」
「に」
「いらぬわ」
 ホタルの口から、プシッと血が噴いた。目を見開いたまま、体がガクガク震えだす。少女はそのまま物のように倒れた。
「利用するだけして、捨てるの? ひどい人ねぇ」
「昔からそうしてきた。夫婦の契り、前生の縁とかき口説けば、どんな女もわしに従い、どんな愚かしいことをもする……」
「アタシもいつか捨てる?」
「そうならぬように、勤めよ」
 義経とマスミが、深く口づける。抱きしめあって恍惚とした表情を浮かべ――。
「!?」
 突然、義経がマスミをはねのけた。顔色が蒼白になっている。
「な、何を、した……!?」
 義経が口を押さえる。
「ばぁぁか」
 マスミが、舌を出した。
「房中術、知らないの?」
 房中術とは、男女の交わりをもって体内の気を充填し、命を保つ術である。
「男は陽、女は陰。女と接するとき、男はみずからの精気をもらさないようにする。そうしなければ、かえって体を損なう」
 出した舌で唇をツウとなめる。
「女は、もれやすい男の精気を吸い放題ってこと」
 スックと立ち上がり、手を閃かせる。
 応じようとしたリョウの体が、壁に叩きつけられた。彼の全身に、明るい色の糸がからみついてきらめく。その糸でリョウは壁に縫い止められていた。
「げええ、おぅげえぇぇぇ」
 義経が嘔吐を繰り返す。口から、白くどろどろした液体が流れ出る。
 義経――津久田だった体が倒れた。
 液体が徐々に人の形をなす。
「フン、それが本体ね」
 エクトブラズムとでも呼ぶべき物体を、マスミは鼻で笑った。
「ナツキ!」
 マスミは覇気のある声で叫んだ。ナツキがビクリと震えた。
「約束は、守るわよ」
「あ……」
 マスミはホタルを担ぎあげ、アズマの首を奪う。みずからの糸で、ホタルの体とアズマの首を自分の体にくくりつける。
 そのまま建物を脱出し、また手を振る。樹齢数百年の杉に糸が絡みつき、彼女を空へと引き上げた。


 マスミは体重を感じさせぬ勢いで、山を飛ぶ。
「山全部にプルガトリオ……気張ったわね」
 途切れなく手から糸を飛ばし、迷いのなく木々の間を飛びぬけていく。
 欝蒼と暗い山、苔むした古い石畳、
「いたわね」
 そして難なく、アズマの肉体にたどりつく。水に浸かった巨躯を引き上げる。
 太ももに手をすべらせる。タトゥーをなでると、その端を指でつまんだ。ピイッと音がして、タトゥーが皮膚からはがれる。
 それは真っ白な糸だった。
「アズマ、まだ死ねないわよね?」
 アズマの首に語りかける。
「虚実も生死もないまぜになったこの世界でなら、アンタは生き返る!」
 ニイッと笑って、両手をかざす。
「見せてやろうじゃないの、アタシの縫合術をね!」
 糸が舞う。針が皮膚を貫く。
 アズマの首と体が縫合されていく。外科手術というより、まるで熟練の職人が服を縫っているようだった。ひと針の迷いもない。
「仕上がり」
 ぷつ、と糸が切れると、アズマは完全にもとの姿に戻っていた。ただ息はない。見開かれた目は濁っている。
「義経の体が持ってた精気だけど、ガマンしてねぇ」
 アズマの鼻に口をあて、マスミはふっと息を吹きこんだ。
 ビクン!
 巨躯が震える。濁って止まっていた眼球が震えだし、唇がわななく。
「俺は……」
「正気に戻った?」
 アズマはハッとして、マスミの腕をつかんだ。
「ッ、ナツキが! ナツキの腕が!」
「みたいね。大丈夫、まだ生きてたわよ」
 ぐったり力を抜いたアズマに、マスミは静かに告げた。
 言いながらマスミは滝の水をすくい、ホタルの首にかけた。こびりついた血が流れて皮膚があらわになる。傷の様子を見て、ホタルは縫合しはじめる。
「そいつは……」
「裏切り者は、ホタルよ。ま、当然黒幕はほかにいるでしょうけどねぇ」
「……そうか」
「かわいそうな子」
 縫合が終わると、ホタルにも精気を吹きこむ。
 ごほ、と咳をしてホタルに息が戻った。
「息が……それに、俺も」
 アズマが自分の首をなでる。縫合のあとが、徐々に消えていくのがわかる。
「知ってる? この滝には不老不死の宝貝が沈んでるって伝説があるの。その宝貝から霊力が染み出して、この水に染みこんでる。その水のおかげ」
「……また伝説か」
「ふふ、そうねぇ。アンタの人生、伝説でできてるもの」
 そのおかげで助かったじゃない、とマスミは笑う。
「まして今はこのプルガトリオ……生死の境すら曖昧になる」
 山という異界に近いロケーション、プルガトリオという異界。
 それは人間界とは違う、異形の世界への入口だ。人間の常識がくつがえり、妖しき者も力を取り戻す。
 山とは、熊野とは、そういう土地なのだ。
「ナツキの腕は、アタシが取りに行ってあげる。アンタはあのクソ義経から、かわいいアンタの友達を助けるのよ。場所はここから西、熊野神社の社殿よ」
「俺は……」
 アズマは頭を抱えた。大きな体が縮こまっている。
「こんな俺と、戦ってくれるのか?」
「大丈夫。また一緒に、きっと戦ってくれる」
 マスミが言い切る。
「親友、なんでしょ?」
 アズマは初めて笑った。
 ゴ、と風が巻き起こる。大風に乗ってアズマの体が舞い上がる。
 それは鬼神の姿だった。しかし平安を脅かした悪鬼ではない。悪魔の身から、仏の眷族となった夜叉のごときまっすぐな姿だった。
「さて、アタシもアタシの義務を果たさなきゃね。拉致られて、薬奪われて悪用されて……ああヤバ。下手したら滅されるわ」
 マスミはブツブツ言いながら、す、と髪をかきあげる。数本の毛が抜けてキラキラと輝く。空を飛ぶ糸の正体はコレだ。
「アンタも連れてってあげたいけど。待ってなさい、そこで」
 意識の戻らないホタルを置いて、マスミは手を振った。


「はー……無事かなぁ、みんな」
 一方、山の麓では、イズルが一同の身を案じていた。
 無理もない。気がつけば、アズマもイズルもいなくなっていた。
「イズルさん」
「何? 何かわかった?」
「関東本願名代、竹葉出。拘束させていただきます」
 突然、熊野党の戦士たちが、イズルの周囲を取り囲んだ。
「これはどういうことかなぁ?」
 イズルは変わらずのんびりした口調だ。
速水郷はやみごう様のご命令です」
「速水……ホタルさんのお父さん?」
 八幡神社の神主で、早瀬蛍の父親だ。
「ホタルさんのお父さん、もしかして義経の子孫とか言い出すんじゃないでしょーね」
「その通りです」
「うわ、マジでそんなこと考えたんだぁ。ドン引きかもよ」
 それは伝説のはずだった。
 しかしそれを信じ――現実になそうという者がいる。
「今宵、義経様が復活なされます。古の熊野別当、湛増たんぞうの子たる弁慶様も!」
「まあ皇族の子孫と、昔の一番エラいさんの子ねー。なるほど、戴くには一理あるかもね」
「そして全国三千社の熊野社、そして熊野党は一人残らず源氏の御旗のもとにひれ伏すのです!」
「…………」
 イズルがツッコむのをやめた。
「……驚きのあまり、声も出ませんか?」
「ううん、知ってた」
「な……!?」
 戦士が目をむく。
「君らさぁ、僕が占い師だっていうの忘れてない? 顔を見れば、裏があるかないかくらいわかるよ」
「裏切られていると知って……ずっと泳がせていたと!?」
「君たちがさっくり山を占拠できたのも、義経がさっくり熊野入りできたのも、わざとだよ。僕が手を回しておいたの。今だけは、君たちと僕しかここにいないことになってるよ」
「なぜ!?」
「貴様、妹があんな目に遭っても、そんな悠長に構えていたというのか!」
「君らほんとーに何もわかってないね。僕ら……僕も、ツキちゃんも、アズマ君も皆みんな、権現様の加護を受けてるんだよ?」
 当たり前のことを言うように、イズルは平然としている。
「ツキちゃんも、アズマ君も、権現様からいただいた子だしさ。それに――いや、いいか」
 ニコニコ笑った顔には、信仰に支えられた確信がある。
「つまり、こんなところで死にはしないってことさ」
 イズルの顔は殉教者のようであり、仏への道を思念する弥勒菩薩のようでもある。神仏にすべてを捧げる、ある種の狂気じみた信心深さが、にじみ出ていた。
「あとさ」
 イズルがフッと真顔に戻る。
「圧倒的な力でねじ伏せた方が面白いじゃない?」
 爆発が起こった。
 キラリと、流星のごとき輝きが空を横切った瞬間、ヘリが切断されて爆発した。
「なに……!」
 イズルの前に、ハイビスカスが咲く。マスミが立ちはだかっていた。
華倍美はなますみ……!」
 神人たちが青ざめる。
「マスミさん、無事だったんだねー」
 イズルがのほほんと尋ねる。
「長居はしないわよ」
「いーよ、来てくれたんだし。これで敵がハッキリしたよ」
「どうせ、アタシのこと疑ったんでしょ?」
「うん、ちょっとねー」
「そういう正直なトコ、嫌いじゃないわ」
 マスミは呆れたように肩をすくめたあと、ニッと加虐的な笑みを浮かべた。
「こいつらどうする? 痛みも感じさせず、頭カチ割ることもできるわよ?」
「カチ割ってもらっちゃ困るなぁ。人死にはいやだよ」
「じゃ、自白剤でも飲ませようか?」
「大丈夫。今頃、黒幕の人も捕まってるよ」
「根回しがいいわね。怖いわねえ、親戚づきあいって」
 唖然とする敵を前に、マスミとイズルは世間話でもするようだ。
「さて、とりあえず君たちにはおしおきだ。ウチの神様は寛容だけど、実際この世に迷惑かけてもらっちゃ困るかもよ〜」
 イズルの手に、算木の入った箱がある。
南無帰命頂礼熊野三所大権現ナムキミョウチョウライクマノサンショダイゴンゲン
 いとも偉大なる熊野三所権現に、身命捧げ、帰依したてまつる。
 古来から彼らが伝えてきた、祈りの言葉だ。
熊野数秘術クマノスウヒジュツサン
 地面に三本の算木がぱらぱらと落ちる。
 その途端、神人たちは地面に這いつくばった。
「な、何だとぉぉ!」
 屈強な戦士たちが、起き上がれずもがく。まるで見えない重しがあるようだ。
「これぞ算木の妙技、なんて言っちゃったりして」
「下手ねぇ、冗談が。助太刀は?」
「いらないよ」
 イズルが算木の入った箱を落とした。カタン、と軽い音がする。箱の中は空だった。
「熊野数秘術!」
 イズルが両腕を空に向かって伸ばした。その手から、無数の算木が飛ぶ。
「――セン!」
 千本の算木が地面に突き立つ。それは彼らをぐるりと囲み、輪になっていた。
 突如、地面が揺れた。
「じ、地震!?」
「大きい!」
 揺れはどんどん大きくなり、雷のような音とともに地面に亀裂が入る。亀裂はあっという間に大きくなる。
「うわああああッ!」
 神人たちは次々とクレバスのように深い亀裂に呑みこまれる。
「権現、憎しとおぼしめして山を揺り崩し、うち潰したまふ」
 古文を口ずさみながら、イズルは亀裂のふちに立った。
 神人のひとりがしがみついている。
「なんで若輩者の僕が、大役をまかされてるかわかったでしょ?」
 ダン、と神人の手をイズルは踏みつけた。
「力が強すぎてさ、熊野にいるとよくないかもよ〜って言われてたんだよね。だからツキちゃんの養育も合わせて、関東に引っ越したんだ」
「あ……あ……」
「来世に期待するんだね」
 カッと、戦士の手を蹴り上げる。戦士たちは地底へと落ちていった。


 あたりは静寂に支配された。
「はー……終わった」
 地割れなどどこにもない。倒れたはずの機材はただ静かに立っている。
 おまけに、地底に落ちたはずの戦士たちが、泡を噴いて地面にぶっ倒れていた。
「つーかれーたなー、もう」
「たかが幻術に何いってるの」
「だってさぁ、僕は能力はあるけど、才能ないんだよねー。うまく能力をセーブする才能が」
「だからアタシが見張っててあげないとダメなのよねぇ」
 イズルがフッと笑う。いままでのヘラヘラした笑い顔ではない。信頼する者にむける安堵の表情だった。
「……ありがとうね、マスミさん」
「いいわよ。こうするのが、アタシとアンタの一族で交わした約束なんだから」
 マスミが糸を閃かせる。
 気絶した戦士たちがあっという間に拘束された。
「ナツキの腕をちょうだい」
「ああ、頼みます」
 白い布に包まれた、ナツキの左腕を渡す。
「大丈夫かな?」
「アズマしだい――いや、あの三人しだいよ」
 マスミは踵を返し、ふたたび山へと飛んでいった。
 カラスの大群が、山奥に向かって飛び立っていた。


 アズマはナツキたちが監禁されていた社にたどりついた。
「ナツキ! リョウ!」
 開け放された社殿の中に、倒れている若者と壁に縫い止められた親友がいる。
「リョウ!」
 アズマは床に落ちていた刀を拾うと、リョウの糸を切った。
 リョウは床に崩れ落ち、怪訝そうにアズマを見上げる。
「なにゆえ、助けた?」
「…………」
 リョウ――否、頼光の問いに、アズマは答えない。
「何故だ! 鬼よ!」
正気いまに戻れ!」
 ぱあん。
 大きな掌が、リョウの頬を打った。
「……何だったら、納得いくまでやるか?」
 平手をぎゅっと握る。次は拳でいくつもりだ。
 不器用なアズマには、不思議な術を出す力はない。薬で癒すすべもない。
 ただ、こうするしか知らないのだ。
「……やめとくわ」
 頼光が答えた。
「だって、ナベさん強いもんな」
 リョウが、戻ってきていた。
「言ったろう、俺は戦いなんぞしたくない、と」
「そう、だね」
 打たれた頬をさすりながら、リョウはすこし気まずそうに笑った。
「こいつは……」
 床に倒れている、津久田を見やる。息はあるようだった。
「義経の依代……とか言ってた。でも、義経は出てったよ」
「結局こいつも、巻きこまれただけか」
「義経の本体と、ナツキはどうした?」
「あ……」
 リョウはうつむく。
「ツキさんは、どろどろになった義経が連れていった」
「よし、追うぞ」
 アズマはさっぱりとしていた。
 二人は社殿を出ると、山中が騒がしいのに気がついた。
 人の声でも木々のざわめきでもない。
「カラスが……」
 山中から集まってきたかのように、カラスが群れをなして飛んでいる。
 漆黒の影が無数に集まり、紺碧の夜空にはっきりと浮かぶ。それは渦になって、山奥の上空を飛んでいた。
「あそこか。リョウ、乗れ」
「え」
「負ぶされ。早く!」
「う、うん」
 アズマはリョウを背負った。強靭な脚が地面を蹴った。


 負われて飛ぶ空は、冷たい大気となってリョウの肺を膨らませる。
「ナベさん……」
 リョウはまたうつむいた。
「ごめん……ごめん……」
「何を謝っている」
「オレ……オレの前世、源頼光だったんだ」
「…………」
「ナベさんを、斬ったんだよ」
 沈黙が流れる。
「前世って、つらいな」
 ぽつ、とアズマが漏らす。
「覚えていると、つらいな……」
「……うん」
「だから、首をつっこむなと言ったのに」
「うん」
 また、会話が途切れる。
 気まずさはすこし薄れていた。
「前世の俺は……斬られてしかるべき存在だった」
 アズマがぽつりつぶやく。
「俺はずっと目を背けていた……。自分からも、使命からも、前世からも……そして」
 自分に言い聞かせるような独白だった。
「あいつからも」
「ナベさん……」
「俺は……あいつに、普通に生きてほしかったんだな……」
 あいつ――。
 ただ一人生き残り、腕を斬られて死んだ彼女に。
 地獄で先に命を落とした彼女に。
 人として生まれたいま、平穏に暮らしてほしかった。
 その気持ちが、あまりに不器用な彼の中で不器用に曲がってしまっていた。突き放すような言動と態度になった。それでも彼女とずっと一緒にいた。
 矛盾した二つの行動。その理由は、同じところにあったのだ。
「ナベさんは、ツキさんのこと、本当はずっと――」
 好きだったんだね――。
 リョウの言葉は、風の中にかき消える。
「俺とお前は、今、人に生まれた。生まれて出会った。使命を負い、たとえ普通の人間と違うとも」
 アズマの独白は続く。
「俺は今、人であることを全力で生きたい」
 だからこの世を守る。
 自分の友人たちを守る。
 それはアズマの誓いのようだった。
「なあ、リョウ。俺たちは……」
 アズマはやっとリョウに
「親友だろう?」
 アズマの声に、わずかに不安げな音が混じっていたのを、リョウは聞き逃さなかった。
 「ごめん」も「頼りにしてる」も、その問いかけに中にあった。
「……うん」
 リョウも震える声で、しかしはっきりと答えた。
「オレたち、親友だよ」
 大きな背中ごしに、アズマが笑った気配がした。

「ツキさん!」
 スギの木の頂点に、ナツキが立っている。
 アズマとリョウは別のスギに降り立った。
「リョウ、気をつけろ!」
 義経の姿がない。ナツキの右手に、義経の刀がある。
「うわっ!」
 いきなりナツキがリョウに斬りかかった。リョウは素魄王で受けたが、二人の体は宙に投げ出される。
「義経か!」
 アズマがうしろからナツキの服をつかみ、ともに木の上に飛び上がる。
「リョウ!」
「うわ、わ!」
 地面に叩きつけられる直前、リョウはネットのようなものに受け止められる。
「え、何?」
「はぁい、天パのぼうや」
「ま、マスミさん!?」
 リョウを受け止めたのは、マスミの糸でできたネットだった。
「ナツキの腕、持ってきてあげたんだけどねぇー。アレじゃ無理かな」
 見上げると、ナツキがアズマを突き飛ばすところだった。
「ナベさん!」
 アズマが地面に降り立つ。
 ナツキは荒く息をしながら、木の上に立った。震える右手を腹にすえる。めりこむ勢いで、胃を押し潰す。
「なに……が……!」
 ナツキの喉から、ごぽと白い液体がこぼれる。
『出ていけ!』
 ナツキが叫んでいる。
『わたしの体は』
 支配しようとした者を吐き出しながら、叫んでいる。
『アズマ君だけのものですッ!』
 ごぱ、と義経のエクトプラズムが吐き出される。
 ぐらりとナツキの体が揺らいだ。木から落下する。
「ナツキ――ッ!」
 アズマが叫ぶ。
 ナツキの瞳に、ハッと光が戻る。
 空中で回転し、しなやかな脚が木の枝を蹴る。夜空に、左の袖を引きちぎり、ひじから先のなくなった腕を伸ばす。
「チャンス!」
 マスミが飛んだ。ナツキに向かってまっすぐと。
 すれ違いざま、マスミの縫合術が閃いた。正確無比に、ナツキの左腕をつなぐ。
 ブレスレットが輝いた。
 月が、あたりを照らしていた。
「しっかりやんなさい」
 ポン、と肩を叩く余裕をもってマスミがほほえむ。ナツキがうなずく。
「アズマ君、リョウ君!」
「ナツキ!」
「ツキさん! よかった!」
 三人は再会を喜ぶ。しかしすぐ気を引き締め、空を見上げた。
『ギイエエエエエエッ!』
 エクトブラズムはでたらめに空を飛ぶ。逃げ遅れたカラスが時折、そのドロドロした体に吸収される。
『オオオオオオッ!』
 山に満ちる気を吸い込むように、義経が大口を開ける。
「あっ、あれ! 〈大日の法〉だ!」
 どこから出したのか、巻物が宙に浮いていた。巻物は義経の口の中に吸いこまれた。
 ようやく、義経が人の形を取り始める。もはや小柄な優男の面影は一切なかった。肥大化した姿は、獰猛そうな獣のようであり、巨大な餓鬼のようでもあった。
『何故! 貴様らはともに戦う!?』
 義経が三人の襲いかかる。
 アズマとナツキは避けたが、リョウは素魄王で受けた。
『鬼と! 人が! 酒呑童子と源頼光が!』
「それは過去だよ。今のオレらには関係ない。オレたちは――」
 押し返しながら、リョウは答える。

「親友だもの」

 ゴ、と両頬がえぐれ、義経が吹っ飛んだ。
 リョウのうしろから、大きな拳と小さな拳が突き出ている。アズマとナツキのダブルパンチが決まっていた。
「リョウ、大丈夫か?」
「うん」
 不思議と怖くなかった。だから避けなかった。
 二人が加勢してくれると、信じていたから。
 三人の心は、しっかり結びついていた。
『キイイェェエ――――ッ!』
 義経は狂乱し叫ぶ。
『オオオ南無や梵天帝釈、四大天王、日輪月輪、総じては氏神正八幡、願わくば我が敵を退けたまへ! 我が郎党、出でよ出でよ出でよ――ッ!』
 呪詛のような呪文とともに、武者が出現した。
 大鎧をまとい、人面の馬に乗った軍勢。絵巻に描かれた、源平合戦の武士たちだ。その顔は地獄の炎にあおられて焼け焦げ、あるいは土気色の肌をさらし、落ち武者の群れといっても過言ではない。
「おい、あれは義経の一党か」
「ええ。本当は義経の復活を待って呼び出すつもりだったんでしょうね」
「あの時と同じだ」
 山中に蠢く落ち武者の軍勢を見つめて、アズマがつぶやく。
「地獄で、叛乱軍と戦った時と」
「……! アズマ君、前世の記憶が」
 ナツキには答えず、アズマが一歩前に出る。
南無帰命頂礼梵天帝釈堅牢地神ナムキミョウチョウライボンテンタイシャクケンロウジシン、特に熊野三所大権現に帰命キミョウしたてまつる!」
 いとも偉大な梵天、帝釈天、大地の神々。
 そして特に、この土地を司る大権現に帰依し祈りを捧げる。
「出でよ、阿防羅刹あぼうらせつども! 地獄の鬼軍よ!」
 ぞる、と世界が揺らいだ。
 地面のあちこちに穴が開く。赤く輝く穴の中から、武装した鬼が何百、何千と出現する。
「これは……!」
「アズマ君!」
「行けるな?」
 馬が三頭、出現する。金色の鞍と鐙をつけた、角と鱗のある馬だった。
「ああ!」
「ええ、アズマ君!」
 ナツキが地面に両腕を押し当てる。二つの赤い円が生じ、武器が飛び出す。
 地獄の鬼がもっともよく使う、三つ又の叉だった。
「弓、前に出でよ!」
 馬に乗ったアズマが、叫ぶ。
「打て!」
 いまだまとまりなく蠢く義経の軍に、矢の雨を降らせる。
「すっげー……」
 大江山の人喰い鬼ではない、アズマの姿。地獄鬼軍の総帥・酒呑童子の雄姿。どんな絵巻にもない凛とした姿だった。
 リョウもナツキも馬に跨った。ナツキが、三叉の一本をアズマに渡す。
 三人はたがいに顔を見合わせ、うなずきあった。
「全軍、突撃!」
 プルガトリオが鳴動した。


 鬼軍は強かった。いつかの欝憤を晴らすように、義経の軍を揉み潰した。
『おのれ、おのれ、おのれェェェッ!』
 押されるばかりの義経が歯噛みする。
『弁慶! 弁慶はいずこ!』
 義経は半狂乱になりながら、腹心を呼んだ。
『弁慶ェェェッ!』
「もはやこれまでだ」
「覚悟をお決めなさい」
「武士のくせに、往生際が悪いんだよ」
 三人が立ちはだかる。
我呼召八大地獄第八ガコショウハチダイジゴクダイハチ無間地獄ムゲンジゴク!」
 ナツキが唱える。
 義経の足元に、穴が広がる。
『た、たす……け……』
 義経の体が徐々に地面の中に引きこまれていく。地獄の最下層へ直結するその穴からは、熱風が吹いてくる。
「終わりそうね」
「マスミさん!」
「今までどこに?」
「うふん、様子見。死人と戦うなんてアタシの仕事じゃないわぁ」
 悪びれないマスミに、全員がシリアスな気分を壊される。
 でも、これで終わる――そう確信したとき。
「義経様!」
 ホタルが飛びこんできた。
「ホタルさん!?」
 ホタルはまっすぐに義経のもとに飛び込んだ。
「ちっ、手間のかかる子ね!」
 マスミが糸を繰り出して助けようとする。糸はホタルに届かず、燃えあがった。
「しまった! 地獄の熱がもう……!」
「ホタルさん! 離れて! じゃないとあなたまで地獄に!」
 ホタルには何も聞こえていないようだった。義経に抱きつく。
「離れません……よしつねさま……」
 こちらに背を向けたホタルの表情は見えない。ただ恍惚とした声だけがした。
『あ……あ……』
 義経が、この上なく恐ろしいものを見た顔になる。
 そのまま、二人はもろともに消えていった。
「ああ……!」
 ナツキががっくり膝をついた。
 全員が、呆然とその場所を見つめていた。
「まったく、とんでもない悪女だよ。ホタルは」
 マスミが垂れた憎まれ口が、手向けの花のように散った。


 鬼軍は義経の軍を圧倒し、ことごとく地獄へ連れ戻された。
 長く続いた叛乱は、ここで終結した。
「え、えーと、終わってない……」
 リョウが青ざめる。
「カザミは! カザミは!?」
「そういえば、弁慶が連れていってそれから――」
「見て! あそこ!」
 地面に穴が開く。そこからカザミを抱えた弁慶が姿を現した。
 弁慶はあっさりカザミを解放する。
「カザミ!」
「兄ちゃん!」
 駆け寄ってきたカザミを、リョウは受け止めた。
「弁慶……!」
 アズマとナツキが構える。
「ま、待って! 待って!」
 カザミはあわてて両腕を広げ、四人の前に立ちはだかった。
「カザミ、どうして?」
「悪い人じゃないの。あたしのこと、守ってくれたの!」
 嘘や脅されてというわけではないらしい。
「……弁慶、なぜ?」
「娘に……似ていた」
 青黒い顔の僧兵は、ぼそぼそと答える。
「某はずっと鬼子と呼ばれ忌み嫌われてきた。ただ武を磨いてきた。娘ができたのも、草葉のころがり寝の末よ……」
 つまり、夜に乗じて行きずりの女とできた子供がいたということだ。もっとも、弁慶は子供がいたことさえ長らく知らなかった。
「殿の妻が平氏の娘だった。頼朝公の疑いを晴らすには、その妻君を殺さねばならん。しかし殿の御子を宿しておられた妻君を斬るに忍びなく――下女を身代りにした」
 現代と違って、下賤の命がはるかに軽い時代だ。父親もわからぬ下女を殺すのに、誰も異を唱えなかった。
「それが某の娘とわかったのは、すべてが終わってからだった」
 下女の母親と会ってはじめて、弁慶は思い知った。
「某は……ただ、ただ、必要とされたかっただけだ……」
 もしかしたら、家族で生きる道があった。
 もしかしたら、主君を英雄たらしめん道があった。
 その後悔とともに、すべては終わった。終わってしまったのだ。
「酒呑童子よ、拙僧と戦われい」
「承る」
「アズマ君……」
「手出しをするな」
 大男同士が向き合う。
 かたや鬼子よ悪僧よと忌み嫌われた男、武蔵坊弁慶。
 かたや人喰い鬼から地獄の獄卒を束ねた男、破鍋東。
 火花が散った。
 薙刀と叉がぶつかり、はじけ、また切り結ぶ。
 怖ろしく勇壮で、壮烈で、烈風吹きすさぶ一騎討ちだった。
「アズマ君……どうして?」
「オレにはわかるよ」
 リョウはじっとその戦いを見つめた。
「男のロマンってやつかな」
「男の人同士でわかることがあるって……なんか、くやしいです」
「ツキさん、やきもち?」
「えっ」
 ナツキが目をぱちくりさせる。
 リョウは思わず笑った。
「決まった!」
 マスミがうなる。二人が視線を逸らしていたあいだに、決着がついた。
 弁慶の巨体が倒れた。
「弁慶さん!」
「あっ、カザミ!」
 カザミが弁慶に駆け寄る。
 ほんのわずかな時間に、カザミと弁慶のあいだには奇妙な絆が生まれていたようだ。
「許してくれ……悪い父であった……」
 カザミが首を横に振る。
 弁慶は悲しそうに、それでいて満足そうにほほえんだ。
「カザミ、離れて」
 いずれ地獄に落ちる身だ――誰もがそう思っていた。
「何だ?」
 月の光が、弁慶とカザミの上に落ちる。
 黄金色の光が、あたりを包み込む。
「この光は……?」
「なんて温かな……」
 光に包まれた少女は、穏やかな表情で弁慶の頭をなでた。
「お、お……」
 弁慶が目を見開く。
「菩薩……よ……」
 まるで母に抱かれた赤子のようにほほえんで、弁慶の体が消えていく。
 それは神仏が手を差しのべた瞬間だったのか。
 それは月光が見せた奇跡だったのか。
 わからなかった。
「プルガトリオが、消えるわ」
 ザア、とカラスの群が散っていく。
 ぶわ、と冷たい風があたりにふいた。胸のすくような澄んだ空気だった。


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