破鍋プルガトリオ
第四幕 鬼神ローリング |
栞| 一 | 二 | 三 | 四 | 五 | 六 |
一 |
その日のうちに退院してきたアズマと合流し、三人は熊野へ発つことになった。
アズマはナツキらがさらわれたと知って、協力を承諾した。ナツキを助けるためではない。
「リョウの妹は無関係だったはずだ。だが巻きこんでしまった」
その責任を取るというのが理由だった。
「紀州熊野、妙法山へ向かう」
熊野へは車で数時間かかる。
時間はすでに夕方になっていたが、一刻を惜しんで三人は出発した。
「それにしても妙法山とは……まずいことになったよ」
「そう、なんですか?」
「ウチのお膝元もお膝元。そこに義経らは巣を作ったってことさ」
「妙法山って……山ですよね?」
「うん。日本の山は欝蒼と深く、里人の想像もおよばぬモノが棲み、コトが起こる」
高速道路を飛ばしながら、イズルは説明する。
「わかりやすく言うと、猿みたいな人間に会ったとか、山ン中で死んだはずの身内に会ったとか……そういう伝承は結構あるんだよ」
山が妖怪と死の世界につながっている。現代人が忘れてしまった考え方だ。
「熊野もまた、死者の国なのさ。山が海が川が、死と再生を司る異界」
「死者の……」
「義経はそこで、自己の再生を果たすつもりかもよ」
「不良たちが消えたのは……」
「もちろん、自分の肉体のかわりにするためさ」
陽が暮れ始めた。無数のライトとすれ違う。
「プルガトリオには、強い霊感のある者しか入れない。不良たちは相性がよかったか、はたまたこっちの世界の誰かに操られたか……」
「そんなの決まってるでしょう! あのマスミが何か薬を使って――」
「そうかもしれないね〜」
イズルは標識をちらりと見る。
「ちょっと寄るよ」
紫のミニバンは、サービスエリアに入った。
「よしよし、来てるね」
大型車用の駐車スペースに、ヤトー警備の中型バスが停まっていた。
イズルたちもミニバンを停め、下りた。
バスの中からは、特殊スーツを着た早瀬と上地が下りてくる。
「早瀬さん、上地さん、すまないね」
「いえ、これが我らの使命ですので」
「人員は集められた?」
「腕ききを集めました。地元に戻れば、さらに多くの戦士が集まるでしょう」
スモークを貼ったバスは中の様子が見えないが、おそらく早瀬や上地と同じような者らが乗っているらしい。
「それよりも、義経の要求している物はどうするのです?」
「持ってきてある。交渉は、アズマ君たちにまかせる」
「何ですって!?」
「子供にそんなことを……!」
「残念ながら、僕には霊感がない。義経の強さを考えても、交渉は彼らにまかす」
「わかりました。あなたがそう仰るなら」
早瀬たちは引き下がる。
「というわけだ。君たちに、ツキちゃんたちの命運を託すよ」
「は、はい!」
「ああ」
ヤトー警備の者たちと別れ、ミニバンに戻る。
「……二人とも、これを」
「あ、はい」
イズルがダッシュボードを開けた。桐の小箱を取り出し、リョウに渡す。
「これ……」
「〈大日の法〉の一部さ。かなり長い呪文らしくて、それだけじゃ何も起こらなかった」
「と、唱えてみたんですか?」
アズマがわずかに身を固くする。
「まあね。けど、おそらく義経の方も同じなんじゃないかな」
長すぎて覚えられない。すべて唱えないと発動しない。だからわざわざ敵前で巻物を広げる必要があった。
「伝承によると、〈大日の法〉は鬼を退け生死をも操る秘法だ。おそらく義経復活には、その巻物が必要不可欠なんだ」
「だから、人質を取って!」
「卑怯な連中め」
「リョウ君、アズマ君。それを預ける。上手く使って、ツキちゃんたちを助けるんだ!」
「はい!」
イズルはラジオのボリュームを上げる。
「君たちだけが、今、信用できる仲間だ。頼むよ」
陽気な音楽に、そのつぶやきはかき消された。
コンコンと運転席の窓を叩く音がした。イズルが窓を開けると、いきおいよく風が吹きこんでくる。
「竹葉さん、準備できました! お気をつけて!」
「ああ、ありがと!」
車の窓越しからも聞こえる轟音。ドラマや映画で聞く、ヘリコプターの音にそっくりだ。
「え、何?」
「二人ともシートベルトは忘れずにね」
「えっ、何、ちょ、浮いてる!?」
いきなり、三人の乗ったミニバンが宙に浮いた。
窓に張りついてみると、ミニバンの下に金属製のプレートがしかれ、その四隅からワイヤーが上に向かって伸びている。
「ええええええっ!?」
ミニバンがヘリコプターで輸送されはじめていた。車はしっかり固定されているらしく、高速を走る車の光が遠ざかり、街の灯が眼下に広がる。
「イズルさん、すこし大げさじゃありませんか」
「すこしってレベルじゃねーぞ!」
冷静なアズマに、リョウはすかさずツッコんだ。
「いやーこっちの方が速いからねー。運転せずに済んでラッキー」
イズルはいつもと同じとにヘラヘラ答える。
「いったい何なんですか、熊野党って!」
「うふふ、歴史が深いとね。いろいろできるようになるかもよ〜」
街が遠ざかる。
「ま、その歴史はいいものだけじゃないんだけどね」
意味深につぶやいて、イズルはハンドルにもたれかかった。 |
二 |
およそ二時間後、一行は熊野妙法山に到着した。
麓の空き地に着陸し、一行はノロノロと車を前に進める。
「うわっ!」
強いサーチライトが、ミニバンを照らす。
「出よう。仲間たちだ」
車から降りると、烏宝印のマークがついた特殊スーツの集団が敬礼する。
「皆、ご苦労様。状況は?」
「道の封鎖、一般人の退避は完了しています」
「すでに地元の戦士で編成した先遣隊が、山中の偵察に向かいました」
麓の空き地に、まるで軍事演習のような光景が展開する。
「妙法山の連中は?」
「それが……数時間前に連絡が取れなくなりました」
「ありゃー先手を打たれちゃったか」
イズルはへらりとした雰囲気を崩さなかった。
「二人とも、こっちへ」
ぽかーんと突っ立っていたアズマとリョウと手招きする。
空き地に立てられたテントの中に入ると、卓上に地図が広げられている。
「山頂までは整備された道路が続いてる。奥地についても、ある程度の道はある。このあたりには神社もお寺もあるし、門前町みたいな感じで人も住んでるよ」
熊野党たちも集まってくる。
「まずはそこを調べようか」
「しかし、山中に隠れられてしまうと、夜間の捜索は困難になりますが」
「いくら神出鬼没とはいえ、生身の人間をたくさん山奥に連れてくのはしんどいでしょー。どっかの施設に隠してあるか、道の近くにいるんじゃない?」
現地と連絡が取れないなら、すでに敵が占拠してしまったのではないか。
イズルはそういいながら、占い道具を広げ始めた。黒い算木を地図の上に置く。
「うーん、乱れてるなぁ」
「山の霊気が、ということですか?」
「うん。おそらく」
「俺たちは、何をすればいいんですか?」
「とりあえず、先遣隊の連絡を待とうかー」
へばっているヒマはない。アズマとリョウもスーツと防具を着こみ、指示を待つ。
「で?」
「……で、とは?」
「長老がたはどうしてるのさ。熊野に地獄からの指名手配犯が入りこんじゃったんだよ?」
「そ、それが……」
若い戦士が言いよどむ。
「義経の侵入を許したは、関東本願に責任がある。そちらで処理せよと……」
「そっかー……ま、いっかー」
「いいんですか!?」
さすがにリョウが突っ込んだ。
「だってしょうがないじゃん。大丈夫、だいじょぶ。僕らには切り札があるしね」
切り札とはもちろん、アズマとリョウ、そして〈大日の法〉だ。
「占い師のカンっていうのかなー。きっと大丈夫だって、感じるんだ」
「そんな楽観的な……」
「あなたといると調子が狂います」
緊迫してるのかしてないのかよくわからなくなる。
そこに、別の戦士が入ってきた。
「竹葉さん! 先遣隊が戻りました!」
先遣隊は無傷だった。
茶髪の少年を一人、連れている。少年は傷だらけで、おまけにひどくおびえている。ガクガク震えていたが、白い布の包みをがっちり抱えこんでいた。
「あの子は?」
「道路を歩いていたのを保護したそうです」
「ふむ」
アズマが少年の顔を見て、何かに気づく。
「お前は……」
「知りあい?」
「俺によく絡んでたグループの……」
つまり不良グループのひとりだ。
「あ……破鍋……破鍋東……!」
アズマの顔を見たとたん、少年はダムが決壊したように涙を流し始めた。
「こ、こ、これを、わたせって」
震える手で、包みを差し出す。
「誰からだ?」
「せ、先輩が、お、おかしく、ば、バケモノ……!」
そのまま少年は頭を抱えて、号泣しはじめた。
「先輩ねぇ。心当たりは?」
「津久田とかいう不良が、よくそう呼ばれていた」
「ふむ。とりあえず、その子は手厚く保護したげて」
「はい」
少年が連れていかれるのを見送って、一同は白い包みに注目した。
「何だい、これ……」
「開けてみましょう」
皆が見守る中、イズルが包みをほどく。ぱらりと布がひるがえり、中のものが転がり出る。
「うわっ!?」
「きゃっ!?」
それは人の腕だった。鋭い刃物で切断されたらしい。切り口には布が巻かれている。
細く白い左腕だ。手首にはブレスレットを着けている。
「――!!」
アズマが目を見開いた。
ピンク色の石がついた、子供っぽいブレスレット。
八幡神社の縁日で当てたブレスレット。
「……ナ、ツキ」
「え――」
「ナツキィィィィィッ!!」
アズマが絶叫した。
その体から放たれた霊力が、アズマとリョウをプルガトリオに転移させた。イズルたちの動きが止まる。
アズマの口から、息が湯気のようになってもれる。
「ナベさん、どうしたの!」
リョウの呼びかけに反応せず、アズマは身をぐっと曲げる。
「待って! 待って、ナベさん」
アズマの顔を見て、リョウは言葉をつまらせた。
鬼の形相だった。怒りに燃える瞳は、爛々と輝く。噛み締めた口元に、牙がのぞく。筋肉はスーツを破りそうなほど盛り上がっている。
「ナベさん、駄目だ! 落ち着いて!」
「邪魔だてするな!」
「わ……っ」
立ちはだかったリョウを、アズマは突き飛ばした。リョウの体は舞い、地面に叩きつけられる。リョウは驚きのあまり、動けなかった。
「ナベさ……!」
アズマが、飛んだ。強靭な両足が大地を蹴り、その巨躯を宙へ放りあげる。
「ナベさんが……飛んでった」
呆然とリョウはつぶやいた。
激昂したアズマには、親友の言葉が耳に入らなかった。届かなかった。リョウはすくなからずショックを受けていた。
「オレも……」
プルガトリオはまだ続いている。イズルたちは固まっている。
リョウは痛む体を起こし、アズマの飛び去った方向を見据えた。
(追うしかない!)
リョウは巻物をスーツの中に突っ込み、携帯からストラップを外す。そして山頂を目指して道路を登りはじめた。 |
三 |
「はあ、はあ……」
道に沿って登っているだけだというのに、ひどく疲れてきた。山頂まではまだまだある。リョウは汗をぬぐった。
「あ……木曽路さん!」
「早瀬さん!?」
道の横、「王子社」と書かれた標識のそばに座りこむ影があった。ホタルだ。
「木曽路さん、木曽路さん!」
泣きべそをかきながら、ホタルはリョウに抱きついてきた。
「早瀬さん、落ち着いて。どうしたんですか?」
「わ、私じゃ人質にならないからって……ひっく、ここに置いてかれたの」
すぐ近くの小さな祠のそばに、ずっと隠れていたのだという。
「義経はどっちへ行ったか、わかりますか?」
「わからない、わからないんです……」
「ともかく、もう大丈夫です。この道を下れば、みんながいます。歩けますか? オレはナベさんたちを追うから……」
「行かないで! いやよ、怖い!」
「早瀬さん……」
「木曽路さん……お願い……ホタルって呼んで……」
「あ……」
しなだれかかる、女の体のたしかな重さ。
「ホタルさ……」
名前を呼びかけた刹那、柔らかい唇がリョウの唇をふさぐ。
まるで映画のワンシーンだ。ピンチの時にキスを交わす場面のようだ。主人公とヒロインの想いが重なって――。
バシン!
「!?」
強い衝撃が全身を貫いた。リョウは倒れた。
ホタルの右手には、スタンガンが握られていた。
「ほ、ホタ……」
「ごめんなさい、こうするしかないの」
ホタルはリョウからストラップを奪い取る。特殊スーツのファスナーを下し、中に隠していた〈大日の法〉をも奪う。
そして無慈悲に、リョウにスタンガンを押し当てた。
二度目の強い衝撃とともに、リョウは意識を失った。
「う……うう?」
どれくらい経っただろうか。
リョウは意識を取り戻した。
「〈大日の法〉……たしかに返してもらった」
揺れる視界が定まる。
「あ……っ」
逆さになった視界の端に、ナツキとカザミの姿が見えた。
そこで初めて、リョウは自分があおむけに拘束されているのに気づく。
「ツキさん! カザミ!」
二人は後ろ手に拘束され、座らされていた。気を失っているらしい。彼女たちのわずかに動く肩を見て、リョウは心の底から安堵した。
「マスミさんも……!」
敵に通じている疑いのあったマスミも、拘束されている。ただ彼女は傷だらけだった。痛めつけられたのだろう。
どこかの建物の中にいるようだった。蝋燭の明かりが、板敷の床をぼんやり照らしている。
「目が覚めたか」
狩衣姿の男が立っていた。
「義経……?」
目をこらすと、義経ではなかった。
「あっ! たしか津久田――」
アズマにさんざんからんでいた不良が、狩衣を着て立っている。今までにはない堂々とした雰囲気がただよう。
「ほう、この体の名だな」
その男は自分の胸をとん、と叩いた。
「この体……?」
「義経様の依代……」
義経の隣にはホタルがいた。白い衣に赤い袴、千早と呼ばれる上着をつけ、巫女のような格好をしている。拘束はされておらず、まるで義経の隣にいるのが当たり前のような顔だ。
「ほ、ホタルさん! どうして!?」
「こういうことだ」
ツクダの顔をした義経が、ホタルのうしろから抱きつく。ホタルは恍惚の表情を浮かべ、それに身をまかせる。睦まじい恋人の仕草だった。
絶句したリョウに、ホタルがささやく。
「義経様を現世にお戻しし、我が熊野党の惣領になっていただく……」
「な……!」
「そのために……あの不良たちには供物になってもらう。鬼たちは邪魔……」
もはや彼女は朝顔ではない。人々を夜闇に惑わす夕顔だ。
「何てことを! ホタルさん、アンタ、竹葉家に感謝してるって言ってたじゃないか!」
「そう怒るな。すべては謀よ」
リョウの顔を、義経が真上からのぞきこむ。
「さて、我がために、そなたにも協力してもらいたい」
「こ……断る!」
リョウはきっぱり拒絶した。
義経は笑った。この反応は予想していたらしい。
「では……そなたの前生に聞いてみようぞ」
義経は懐から、巻物を取り出した。ホタルがリョウから奪った巻物を渡す。
二つを合わせると、それは黄金の光を放ってひとつになった。
義経は巻物を広げ、文字を読み上げる。
「南無梵天帝釈……」
何といっているのか、聞こえない。
「――!」
ぞく、と寒気がした。嫌な汗が、リョウの体からにじみ出る。
ざわざわと木々が揺れる。下草が騒ぐ。
「――前生の因縁を、思ひ出したまへ!」
義経が言い放った瞬間、黄金の光がリョウを包み込んだ。
「うわあああああああっ」
リョウは絶叫した。脳が揺さぶられる。眼球が痙攣し、世界をないまぜにする。
胸の奥のそのまた奥から、何かが引き出される。
「あ……ああ……」
知らない光景が見える。
山伏姿の仲間。
山中の鬼ヶ城。
捕えられた女たち。
水辺に捨てられた女の屍。
笑う鬼の姿。人喰い鬼の。鬼の鬼の鬼の――。
「京の……平穏を乱す者……斬る、べし……!」
リョウの口から、呪詛がもれた。
光が収束する。義経がリョウの拘束を解いた。
「目覚められましたか、我が大伯父上」
「……誰ぞ?」
リョウの口ぶりは、今までとまったく違う。
「我が名は源九郎判官義経。貴殿の弟、頼信公の遠き裔に候。ゆえに貴殿を、大伯父上と申し上げたてまつりまする」
義経の問いかけも、ひどく丁寧なものに変わっていた。
「大伯父上、御名をお聞かせねがいまする」
「よりみつ――そう、我が名は源頼光」
リョウははっきり答えた。
それは酒呑童子を退治した古の武士の名だ。彼の精神は今や平安時代まで巻き戻っていた。
ホタルがするすると近づき、リョウの拘束を解いた。リョウはゆっくり起き上がり、頭を振る。ぼうっとした目で床を見つめる。
義経がニヤリと笑む。
「酒呑童子が参ります」
その言葉を吹きこんだ瞬間、リョウの瞳に暗い炎が宿った。
「鬼め。首を斬りたれども、舞い戻ったか」
「ええ。討たねば、また人の世が乱れまする」
リョウの瞳の火が、ゆらゆらと揺れて強まっていく。
「どうぞお出ましください、大伯父上」
「うむ」
ふらりと立ち上がったリョウに、ホタルがうやうやしくストラップを差し出す。受け取ったリョウの手の中で、素魄王は現出した。
木戸を開く。和風の古い建築が玉砂利の上に連なっている。
そのすぐ隣からは、欝蒼とした山だ。深い木々が闇を作り、地面の岩は苔むしている。
「南無八幡大菩薩、我を鬼のもとへ導きたまえ……」
青い炎が揺らめくままに、リョウは山中へ踏みいった。
リョウとアズマ。二人は出会った。
深いシダをかきわけ、広葉樹の暗い山の中で、鉢合わせた。
「鬼め……都を侵せし鬼め……!」
「義経の……手先か……武士め……!」
記憶と憎しみが、完全に感覚を麻痺させている。
アズマ――否、酒呑童子が。
リョウ――否、源頼光が。
今が消え、古の闇が戻ってくる。鬼と武士が対峙していた。
「どおりゃああああッ!」
アズマの拳が、リョウに襲いかかった。リョウは飛びあがって躱す。アズマの拳が地面にめりこむ。山の斜面を大きくえぐり、土砂が舞いあがる。
「どこだ!」
ハラハラハラハラ。
ウバメガシの緑色の葉が、シダの上に降りかかる。
「おおおおッ!」
リョウが真上から、素魄王を振り下ろす。
アズマが躱し、即座に拳を叩きこむ。
「くあっ!」
リョウが転がる。それをアズマが追う。
その騒ぎに、木々から鳥たちが飛び立った。ギャアギャアと鳴き声が耳を荒らす。
暗い森林が割れ、空が見えるようになる。足元で水が弾けた。川だ。
「くっ、ちょこまかと!」
水辺で渡りあい、二人は崖の上で対峙した。
否、崖ではない。滝だ。透明な水が重力によって無数の糸束となり落ちていく。滝壺には白く水がはじけ、どうどうと重い音を立てていた。
しかし二人は動じない。ただおたがいを憎み合うのみ。
「参る!」
さらに十数合、鬼と武士が渡り合う。斬る。殴る。躱す。飛ぶ。
「うう……っ!」
アズマの首に、リョウが素魄王を押しあてる。
リョウの首に、アズマの手が喰い込む。
「う、ぐ、ぐぐ、ぐ」
「おぐ、ぐぐ、ぐ」
一歩も引かない。
アズマの首から血が滴る。
リョウの口の端から泡がこぼれる。
ズ、とアズマの足元が滑る。バランスが崩れた。
「あ……!」
もろともに、滝を落下する。二人は滝壺に吸い込まれた。
しばし、滝の音だけがあたりに響いた。
「かっ、ゲホゲホッ!」
水を吐いて、リョウが岸に這い上がった。全身が痛むのか、顔をしかめている。
アズマは上半身だけ岸に引っかかっていた。気絶しているらしい。起き上がる気配はない。
「鬼め……」
リョウはずるりと立ちあがった。アズマの首に狙いを定め、素魄王を振りかざす。
「……死ね!」
無慈悲に。
刀が振り下ろされた。 |
四 |
「ナツキさん……」
「ごめんなさい、カザミちゃん。巻きこんじゃって」
腕の痛みなどないように、ナツキは笑ってみせた。後ろ手に縛られているので、肩を寄せてカザミをかばう。
「腕を斬られても、気丈にふるまうものよ」
ナツキはただうつむいた。わずかに視線を上げ、ホタルを睨む。
「この世に生まれて十六年、義経の居場所がわからないはずです。速水家が、ずっとかくまっていたのですね」
ホタルは沈黙で答えた。
「わたしたちの行く先々で義経に出遭ったのも」
「私がずっと情報を流してた……」
ホタルは淡々としたものだ。
「あなたたち家族はいびつ……家族じゃない者に、何ら関心も注意も払わない……。特にあなたは……破鍋東しか目になかった。監視はとても楽だった……」
「悪かったわね、興味がなくて」
マスミが目を覚ましていた。ペッと血を吐き出す。
「ホタル、ずいぶん偉くなったわね。うらやましいわぁ」
痛めつけられていても、マスミは憎まれ口を忘れない。
義経が手を伸ばし、マスミの顎をぐっと据える。
「トツクニの仙女よ、その腕が確かなこと、あいわかった。熊野党どもに使役される身、哀れゆえ、我がそばに迎えたきのみよ」
「その割には、アタシは殴るし、ナツキは腕を取られたけど?」
「噛みつきそうな犬は、早めに打って躾けておくべきと思うたゆえな」
「なかなか狂ってていいわね、その言い草」
マスミはニッと口を歪める。目は笑っていなかった。
「わしの仲間となるか?」
「さあ? どうしようかしら」
義経は即座にマスミの頭をつかみ、床に叩きつけた。ナツキとカザミはすくみ上がる。
「マスミさん!」
「仙女よ、あまりわしを弄ぶな」
バン、と扉が開いた。リョウが立っている。
「兄ちゃん!」
「おお、大伯父上。戻られましたか」
「リョウ、くん……?」
ナツキがすがるように見つめ――リョウの手からぶら下がるモノを見た。
「いやあああああああああっ!」
ナツキが悲鳴を上げた。
リョウが持っていたのは、アズマの首だった。
「どうして、どうして、アズマ君、アズマ君、いやああああっ!」
ナツキが狂乱しても、リョウは無反応だった。暗い目をしたまま全身から水を滴らせる。
「義経、義経、どうしてこんなことを!」
泣きながら、ナツキは義経に尋ねた。義経はただ笑う。
「さあ、その首になった鬼のように、貴様も鬼の本性を顕わすがいいわ。さあ牙を剥いてみせよ。角の生いし顔で、わしを憎んでみせよ!」
ナツキは激しく首を横に振った。
「違う、ちがう、そうじゃない。わたしは、わたしたちは、もう、違う……!」
ナツキはただただ泣くばかりだ。
「わたしは……ぁ……」
やがてその嗚咽が途切れる。ナツキの目が、暗く沈んでいた。悲しみが絶望に変わり、精神を停止させていた。
「気を失のうたか。つまらぬのぉ」
義経は興が冷めたようだ。
「弁慶!」
義経が大声で呼ばわると、わきでるように弁慶が巨体を現した。
「欲しがっていたその娘、持ってゆけ」
「え……!」
言葉を失っていたカザミが、血相を変える。
「い、いや! 離して! 離してよぉ!」
カザミは抵抗するが、難なく押さえられる。
弁慶は無言のままカザミをかつぎあげた。
「あ……ああ……」
ナツキがわずかに意識を取り戻す。力なく右腕を伸ばしたが、届かない。
弁慶はカザミを抱えたまま、消えていった。
「う……う……」
ナツキはただ涙を流す。無念の情が流れるばかりだった。
「大伯父上。その女鬼も、斬りてたべ」
リョウはうなずいて、刀を振りかざした。ナツキの白い首をじっと見据えていた。
「もと来た地獄へ戻りたまえ」
義経が冷たく笑い――。
「く、くくく」
別のところから笑い声が起こった。
「く、は、はは」
マスミが笑う。
「あははははははは!」
含み笑いは、高笑いに変わった。
義経があっけにとられ、リョウも刀を下ろす。
「すごいわ、すごいわ、義経。ここまで狂ってるとは思わなかったわ」
場違いなほどケタケタ笑いながら、マスミは義経に視線を向けた。
「わしの仲間となるか?」
「ええ、いいわ」
縄を解かれたマスミは、傷も気にしないかのように髪をかきあげた。
「で、何をしたらいいの?」
「不退の寿命を得たい。その法を教えたまえ」
「つまり、不老不死になりたいってことね」
「できるのか、否か?」
「簡単よ……アタシを抱いて」
すらりと長い腕を、義経の首に回す。
「口を吸って。アタシを悦ばせて」
「誰が媚びろと申した?」
「勘違いしないで。不老たるアタシの精気を、直接アナタにあげるのよ」
マスミはクスクス笑う。
「まあそれだけじゃないのも確かだけど?」
妖艶な視線とともに、マスミは義経の体をなでた。
「アタシも長い間縛られて……久しく忘れていたのよ。肉の悦びを」
はあ、と吐き出す息は色気に満ちている。
「思い出させて……」
二人が口づけようとしたとき――。
「義経様、抱いては……だめ」
ホタルが止めた。義経は怪訝そうに、愛人をみつめた。
マスミが鼻で笑った。
「あらあら、やきもち? アンタみたいな小娘じゃ、英雄は満足させられないのよ?」
「離れて! 離れてよ!」
「あら、こわいこわい」
「ホタル、邪魔だてするな」
しゅ、と刀がひらめいた。
義経の刀が、ホタルの首を貫いた。
「な」
「口応えだけの女は」
「に」
「いらぬわ」
ホタルの口から、プシッと血が噴いた。目を見開いたまま、体がガクガク震えだす。少女はそのまま物のように倒れた。
「利用するだけして、捨てるの? ひどい人ねぇ」
「昔からそうしてきた。夫婦の契り、前生の縁とかき口説けば、どんな女もわしに従い、どんな愚かしいことをもする……」
「アタシもいつか捨てる?」
「そうならぬように、勤めよ」
義経とマスミが、深く口づける。抱きしめあって恍惚とした表情を浮かべ――。
「!?」
突然、義経がマスミをはねのけた。顔色が蒼白になっている。
「な、何を、した……!?」
義経が口を押さえる。
「ばぁぁか」
マスミが、舌を出した。
「房中術、知らないの?」
房中術とは、男女の交わりをもって体内の気を充填し、命を保つ術である。
「男は陽、女は陰。女と接するとき、男はみずからの精気をもらさないようにする。そうしなければ、かえって体を損なう」
出した舌で唇をツウとなめる。
「女は、もれやすい男の精気を吸い放題ってこと」
スックと立ち上がり、手を閃かせる。
応じようとしたリョウの体が、壁に叩きつけられた。彼の全身に、明るい色の糸がからみついてきらめく。その糸でリョウは壁に縫い止められていた。
「げええ、おぅげえぇぇぇ」
義経が嘔吐を繰り返す。口から、白くどろどろした液体が流れ出る。
義経――津久田だった体が倒れた。
液体が徐々に人の形をなす。
「フン、それが本体ね」
エクトブラズムとでも呼ぶべき物体を、マスミは鼻で笑った。
「ナツキ!」
マスミは覇気のある声で叫んだ。ナツキがビクリと震えた。
「約束は、守るわよ」
「あ……」
マスミはホタルを担ぎあげ、アズマの首を奪う。みずからの糸で、ホタルの体とアズマの首を自分の体にくくりつける。
そのまま建物を脱出し、また手を振る。樹齢数百年の杉に糸が絡みつき、彼女を空へと引き上げた。
マスミは体重を感じさせぬ勢いで、山を飛ぶ。
「山全部にプルガトリオ……気張ったわね」
途切れなく手から糸を飛ばし、迷いのなく木々の間を飛びぬけていく。
欝蒼と暗い山、苔むした古い石畳、
「いたわね」
そして難なく、アズマの肉体にたどりつく。水に浸かった巨躯を引き上げる。
太ももに手をすべらせる。タトゥーをなでると、その端を指でつまんだ。ピイッと音がして、タトゥーが皮膚からはがれる。
それは真っ白な糸だった。
「アズマ、まだ死ねないわよね?」
アズマの首に語りかける。
「虚実も生死もないまぜになったこの世界でなら、アンタは生き返る!」
ニイッと笑って、両手をかざす。
「見せてやろうじゃないの、アタシの縫合術をね!」
糸が舞う。針が皮膚を貫く。
アズマの首と体が縫合されていく。外科手術というより、まるで熟練の職人が服を縫っているようだった。ひと針の迷いもない。
「仕上がり」
ぷつ、と糸が切れると、アズマは完全にもとの姿に戻っていた。ただ息はない。見開かれた目は濁っている。
「義経の体が持ってた精気だけど、ガマンしてねぇ」
アズマの鼻に口をあて、マスミはふっと息を吹きこんだ。
ビクン!
巨躯が震える。濁って止まっていた眼球が震えだし、唇がわななく。
「俺は……」
「正気に戻った?」
アズマはハッとして、マスミの腕をつかんだ。
「ッ、ナツキが! ナツキの腕が!」
「みたいね。大丈夫、まだ生きてたわよ」
ぐったり力を抜いたアズマに、マスミは静かに告げた。
言いながらマスミは滝の水をすくい、ホタルの首にかけた。こびりついた血が流れて皮膚があらわになる。傷の様子を見て、ホタルは縫合しはじめる。
「そいつは……」
「裏切り者は、ホタルよ。ま、当然黒幕はほかにいるでしょうけどねぇ」
「……そうか」
「かわいそうな子」
縫合が終わると、ホタルにも精気を吹きこむ。
ごほ、と咳をしてホタルに息が戻った。
「息が……それに、俺も」
アズマが自分の首をなでる。縫合のあとが、徐々に消えていくのがわかる。
「知ってる? この滝には不老不死の宝貝が沈んでるって伝説があるの。その宝貝から霊力が染み出して、この水に染みこんでる。その水のおかげ」
「……また伝説か」
「ふふ、そうねぇ。アンタの人生、伝説でできてるもの」
そのおかげで助かったじゃない、とマスミは笑う。
「まして今はこのプルガトリオ……生死の境すら曖昧になる」
山という異界に近いロケーション、プルガトリオという異界。
それは人間界とは違う、異形の世界への入口だ。人間の常識がくつがえり、妖しき者も力を取り戻す。
山とは、熊野とは、そういう土地なのだ。
「ナツキの腕は、アタシが取りに行ってあげる。アンタはあのクソ義経から、かわいいアンタの友達を助けるのよ。場所はここから西、熊野神社の社殿よ」
「俺は……」
アズマは頭を抱えた。大きな体が縮こまっている。
「こんな俺と、戦ってくれるのか?」
「大丈夫。また一緒に、きっと戦ってくれる」
マスミが言い切る。
「親友、なんでしょ?」
アズマは初めて笑った。
ゴ、と風が巻き起こる。大風に乗ってアズマの体が舞い上がる。
それは鬼神の姿だった。しかし平安を脅かした悪鬼ではない。悪魔の身から、仏の眷族となった夜叉のごときまっすぐな姿だった。
「さて、アタシもアタシの義務を果たさなきゃね。拉致られて、薬奪われて悪用されて……ああヤバ。下手したら滅されるわ」
マスミはブツブツ言いながら、す、と髪をかきあげる。数本の毛が抜けてキラキラと輝く。空を飛ぶ糸の正体はコレだ。
「アンタも連れてってあげたいけど。待ってなさい、そこで」
意識の戻らないホタルを置いて、マスミは手を振った。
「はー……無事かなぁ、みんな」
一方、山の麓では、イズルが一同の身を案じていた。
無理もない。気がつけば、アズマもイズルもいなくなっていた。
「イズルさん」
「何? 何かわかった?」
「関東本願名代、竹葉出。拘束させていただきます」
突然、熊野党の戦士たちが、イズルの周囲を取り囲んだ。
「これはどういうことかなぁ?」
イズルは変わらずのんびりした口調だ。
「速水郷様のご命令です」
「速水……ホタルさんのお父さん?」
八幡神社の神主で、早瀬蛍の父親だ。
「ホタルさんのお父さん、もしかして義経の子孫とか言い出すんじゃないでしょーね」
「その通りです」
「うわ、マジでそんなこと考えたんだぁ。ドン引きかもよ」
それは伝説のはずだった。
しかしそれを信じ――現実になそうという者がいる。
「今宵、義経様が復活なされます。古の熊野別当、湛増の子たる弁慶様も!」
「まあ皇族の子孫と、昔の一番エラいさんの子ねー。なるほど、戴くには一理あるかもね」
「そして全国三千社の熊野社、そして熊野党は一人残らず源氏の御旗のもとにひれ伏すのです!」
「…………」
イズルがツッコむのをやめた。
「……驚きのあまり、声も出ませんか?」
「ううん、知ってた」
「な……!?」
戦士が目をむく。
「君らさぁ、僕が占い師だっていうの忘れてない? 顔を見れば、裏があるかないかくらいわかるよ」
「裏切られていると知って……ずっと泳がせていたと!?」
「君たちがさっくり山を占拠できたのも、義経がさっくり熊野入りできたのも、わざとだよ。僕が手を回しておいたの。今だけは、君たちと僕しかここにいないことになってるよ」
「なぜ!?」
「貴様、妹があんな目に遭っても、そんな悠長に構えていたというのか!」
「君らほんとーに何もわかってないね。僕ら……僕も、ツキちゃんも、アズマ君も皆みんな、権現様の加護を受けてるんだよ?」
当たり前のことを言うように、イズルは平然としている。
「ツキちゃんも、アズマ君も、権現様からいただいた子だしさ。それに――いや、いいか」
ニコニコ笑った顔には、信仰に支えられた確信がある。
「つまり、こんなところで死にはしないってことさ」
イズルの顔は殉教者のようであり、仏への道を思念する弥勒菩薩のようでもある。神仏にすべてを捧げる、ある種の狂気じみた信心深さが、にじみ出ていた。
「あとさ」
イズルがフッと真顔に戻る。
「圧倒的な力でねじ伏せた方が面白いじゃない?」
爆発が起こった。
キラリと、流星のごとき輝きが空を横切った瞬間、ヘリが切断されて爆発した。
「なに……!」
イズルの前に、ハイビスカスが咲く。マスミが立ちはだかっていた。
「華倍美……!」
神人たちが青ざめる。
「マスミさん、無事だったんだねー」
イズルがのほほんと尋ねる。
「長居はしないわよ」
「いーよ、来てくれたんだし。これで敵がハッキリしたよ」
「どうせ、アタシのこと疑ったんでしょ?」
「うん、ちょっとねー」
「そういう正直なトコ、嫌いじゃないわ」
マスミは呆れたように肩をすくめたあと、ニッと加虐的な笑みを浮かべた。
「こいつらどうする? 痛みも感じさせず、頭カチ割ることもできるわよ?」
「カチ割ってもらっちゃ困るなぁ。人死にはいやだよ」
「じゃ、自白剤でも飲ませようか?」
「大丈夫。今頃、黒幕の人も捕まってるよ」
「根回しがいいわね。怖いわねえ、親戚づきあいって」
唖然とする敵を前に、マスミとイズルは世間話でもするようだ。
「さて、とりあえず君たちにはおしおきだ。ウチの神様は寛容だけど、実際この世に迷惑かけてもらっちゃ困るかもよ〜」
イズルの手に、算木の入った箱がある。
「南無帰命頂礼熊野三所大権現」
いとも偉大なる熊野三所権現に、身命捧げ、帰依したてまつる。
古来から彼らが伝えてきた、祈りの言葉だ。
「熊野数秘術、参」
地面に三本の算木がぱらぱらと落ちる。
その途端、神人たちは地面に這いつくばった。
「な、何だとぉぉ!」
屈強な戦士たちが、起き上がれずもがく。まるで見えない重しがあるようだ。
「これぞ算木の妙技、なんて言っちゃったりして」
「下手ねぇ、冗談が。助太刀は?」
「いらないよ」
イズルが算木の入った箱を落とした。カタン、と軽い音がする。箱の中は空だった。
「熊野数秘術!」
イズルが両腕を空に向かって伸ばした。その手から、無数の算木が飛ぶ。
「――千!」
千本の算木が地面に突き立つ。それは彼らをぐるりと囲み、輪になっていた。
突如、地面が揺れた。
「じ、地震!?」
「大きい!」
揺れはどんどん大きくなり、雷のような音とともに地面に亀裂が入る。亀裂はあっという間に大きくなる。
「うわああああッ!」
神人たちは次々とクレバスのように深い亀裂に呑みこまれる。
「権現、憎しと思しめして山を揺り崩し、うち潰したまふ」
古文を口ずさみながら、イズルは亀裂のふちに立った。
神人のひとりがしがみついている。
「なんで若輩者の僕が、大役をまかされてるかわかったでしょ?」
ダン、と神人の手をイズルは踏みつけた。
「力が強すぎてさ、熊野にいるとよくないかもよ〜って言われてたんだよね。だからツキちゃんの養育も合わせて、関東に引っ越したんだ」
「あ……あ……」
「来世に期待するんだね」
カッと、戦士の手を蹴り上げる。戦士たちは地底へと落ちていった。
あたりは静寂に支配された。
「はー……終わった」
地割れなどどこにもない。倒れたはずの機材はただ静かに立っている。
おまけに、地底に落ちたはずの戦士たちが、泡を噴いて地面にぶっ倒れていた。
「つーかれーたなー、もう」
「たかが幻術に何いってるの」
「だってさぁ、僕は能力はあるけど、才能ないんだよねー。うまく能力をセーブする才能が」
「だからアタシが見張っててあげないとダメなのよねぇ」
イズルがフッと笑う。いままでのヘラヘラした笑い顔ではない。信頼する者にむける安堵の表情だった。
「……ありがとうね、マスミさん」
「いいわよ。こうするのが、アタシとアンタの一族で交わした約束なんだから」
マスミが糸を閃かせる。
気絶した戦士たちがあっという間に拘束された。
「ナツキの腕をちょうだい」
「ああ、頼みます」
白い布に包まれた、ナツキの左腕を渡す。
「大丈夫かな?」
「アズマしだい――いや、あの三人しだいよ」
マスミは踵を返し、ふたたび山へと飛んでいった。
カラスの大群が、山奥に向かって飛び立っていた。 |
五 |
アズマはナツキたちが監禁されていた社にたどりついた。
「ナツキ! リョウ!」
開け放された社殿の中に、倒れている若者と壁に縫い止められた親友がいる。
「リョウ!」
アズマは床に落ちていた刀を拾うと、リョウの糸を切った。
リョウは床に崩れ落ち、怪訝そうにアズマを見上げる。
「なにゆえ、助けた?」
「…………」
リョウ――否、頼光の問いに、アズマは答えない。
「何故だ! 鬼よ!」
「正気に戻れ!」
ぱあん。
大きな掌が、リョウの頬を打った。
「……何だったら、納得いくまでやるか?」
平手をぎゅっと握る。次は拳でいくつもりだ。
不器用なアズマには、不思議な術を出す力はない。薬で癒す術もない。
ただ、こうするしか知らないのだ。
「……やめとくわ」
頼光が答えた。
「だって、ナベさん強いもんな」
リョウが、戻ってきていた。
「言ったろう、俺は戦いなんぞしたくない、と」
「そう、だね」
打たれた頬をさすりながら、リョウはすこし気まずそうに笑った。
「こいつは……」
床に倒れている、津久田を見やる。息はあるようだった。
「義経の依代……とか言ってた。でも、義経は出てったよ」
「結局こいつも、巻きこまれただけか」
「義経の本体と、ナツキはどうした?」
「あ……」
リョウはうつむく。
「ツキさんは、どろどろになった義経が連れていった」
「よし、追うぞ」
アズマはさっぱりとしていた。
二人は社殿を出ると、山中が騒がしいのに気がついた。
人の声でも木々のざわめきでもない。
「カラスが……」
山中から集まってきたかのように、カラスが群れをなして飛んでいる。
漆黒の影が無数に集まり、紺碧の夜空にはっきりと浮かぶ。それは渦になって、山奥の上空を飛んでいた。
「あそこか。リョウ、乗れ」
「え」
「負ぶされ。早く!」
「う、うん」
アズマはリョウを背負った。強靭な脚が地面を蹴った。
負われて飛ぶ空は、冷たい大気となってリョウの肺を膨らませる。
「ナベさん……」
リョウはまたうつむいた。
「ごめん……ごめん……」
「何を謝っている」
「オレ……オレの前世、源頼光だったんだ」
「…………」
「ナベさんを、斬ったんだよ」
沈黙が流れる。
「前世って、つらいな」
ぽつ、とアズマが漏らす。
「覚えていると、つらいな……」
「……うん」
「だから、首をつっこむなと言ったのに」
「うん」
また、会話が途切れる。
気まずさはすこし薄れていた。
「前世の俺は……斬られてしかるべき存在だった」
アズマがぽつりつぶやく。
「俺はずっと目を背けていた……。自分からも、使命からも、前世からも……そして」
自分に言い聞かせるような独白だった。
「あいつからも」
「ナベさん……」
「俺は……あいつに、普通に生きてほしかったんだな……」
あいつ――。
ただ一人生き残り、腕を斬られて死んだ彼女に。
地獄で先に命を落とした彼女に。
人として生まれたいま、平穏に暮らしてほしかった。
その気持ちが、あまりに不器用な彼の中で不器用に曲がってしまっていた。突き放すような言動と態度になった。それでも彼女とずっと一緒にいた。
矛盾した二つの行動。その理由は、同じところにあったのだ。
「ナベさんは、ツキさんのこと、本当はずっと――」
好きだったんだね――。
リョウの言葉は、風の中にかき消える。
「俺とお前は、今、人に生まれた。生まれて出会った。使命を負い、たとえ普通の人間と違うとも」
アズマの独白は続く。
「俺は今、人であることを全力で生きたい」
だからこの世を守る。
自分の友人たちを守る。
それはアズマの誓いのようだった。
「なあ、リョウ。俺たちは……」
アズマはやっとリョウに
「親友だろう?」
アズマの声に、わずかに不安げな音が混じっていたのを、リョウは聞き逃さなかった。
「ごめん」も「頼りにしてる」も、その問いかけに中にあった。
「……うん」
リョウも震える声で、しかしはっきりと答えた。
「オレたち、親友だよ」
大きな背中ごしに、アズマが笑った気配がした。
|
六 |
「ツキさん!」
スギの木の頂点に、ナツキが立っている。
アズマとリョウは別のスギに降り立った。
「リョウ、気をつけろ!」
義経の姿がない。ナツキの右手に、義経の刀がある。
「うわっ!」
いきなりナツキがリョウに斬りかかった。リョウは素魄王で受けたが、二人の体は宙に投げ出される。
「義経か!」
アズマがうしろからナツキの服をつかみ、ともに木の上に飛び上がる。
「リョウ!」
「うわ、わ!」
地面に叩きつけられる直前、リョウはネットのようなものに受け止められる。
「え、何?」
「はぁい、天パのぼうや」
「ま、マスミさん!?」
リョウを受け止めたのは、マスミの糸でできたネットだった。
「ナツキの腕、持ってきてあげたんだけどねぇー。アレじゃ無理かな」
見上げると、ナツキがアズマを突き飛ばすところだった。
「ナベさん!」
アズマが地面に降り立つ。
ナツキは荒く息をしながら、木の上に立った。震える右手を腹にすえる。めりこむ勢いで、胃を押し潰す。
「なに……が……!」
ナツキの喉から、ごぽと白い液体がこぼれる。
『出ていけ!』
ナツキが叫んでいる。
『わたしの体は』
支配しようとした者を吐き出しながら、叫んでいる。
『アズマ君だけのものですッ!』
ごぱ、と義経のエクトプラズムが吐き出される。
ぐらりとナツキの体が揺らいだ。木から落下する。
「ナツキ――ッ!」
アズマが叫ぶ。
ナツキの瞳に、ハッと光が戻る。
空中で回転し、しなやかな脚が木の枝を蹴る。夜空に、左の袖を引きちぎり、ひじから先のなくなった腕を伸ばす。
「チャンス!」
マスミが飛んだ。ナツキに向かってまっすぐと。
すれ違いざま、マスミの縫合術が閃いた。正確無比に、ナツキの左腕をつなぐ。
ブレスレットが輝いた。
月が、あたりを照らしていた。
「しっかりやんなさい」
ポン、と肩を叩く余裕をもってマスミがほほえむ。ナツキがうなずく。
「アズマ君、リョウ君!」
「ナツキ!」
「ツキさん! よかった!」
三人は再会を喜ぶ。しかしすぐ気を引き締め、空を見上げた。
『ギイエエエエエエッ!』
エクトブラズムはでたらめに空を飛ぶ。逃げ遅れたカラスが時折、そのドロドロした体に吸収される。
『オオオオオオッ!』
山に満ちる気を吸い込むように、義経が大口を開ける。
「あっ、あれ! 〈大日の法〉だ!」
どこから出したのか、巻物が宙に浮いていた。巻物は義経の口の中に吸いこまれた。
ようやく、義経が人の形を取り始める。もはや小柄な優男の面影は一切なかった。肥大化した姿は、獰猛そうな獣のようであり、巨大な餓鬼のようでもあった。
『何故! 貴様らはともに戦う!?』
義経が三人の襲いかかる。
アズマとナツキは避けたが、リョウは素魄王で受けた。
『鬼と! 人が! 酒呑童子と源頼光が!』
「それは過去だよ。今のオレらには関係ない。オレたちは――」
押し返しながら、リョウは答える。
「親友だもの」
ゴ、と両頬がえぐれ、義経が吹っ飛んだ。
リョウのうしろから、大きな拳と小さな拳が突き出ている。アズマとナツキのダブルパンチが決まっていた。
「リョウ、大丈夫か?」
「うん」
不思議と怖くなかった。だから避けなかった。
二人が加勢してくれると、信じていたから。
三人の心は、しっかり結びついていた。
『キイイェェエ――――ッ!』
義経は狂乱し叫ぶ。
『オオオ南無や梵天帝釈、四大天王、日輪月輪、総じては氏神正八幡、願わくば我が敵を退けたまへ! 我が郎党、出でよ出でよ出でよ――ッ!』
呪詛のような呪文とともに、武者が出現した。
大鎧をまとい、人面の馬に乗った軍勢。絵巻に描かれた、源平合戦の武士たちだ。その顔は地獄の炎にあおられて焼け焦げ、あるいは土気色の肌をさらし、落ち武者の群れといっても過言ではない。
「おい、あれは義経の一党か」
「ええ。本当は義経の復活を待って呼び出すつもりだったんでしょうね」
「あの時と同じだ」
山中に蠢く落ち武者の軍勢を見つめて、アズマがつぶやく。
「地獄で、叛乱軍と戦った時と」
「……! アズマ君、前世の記憶が」
ナツキには答えず、アズマが一歩前に出る。
「南無帰命頂礼梵天帝釈堅牢地神、特に熊野三所大権現に帰命したてまつる!」
いとも偉大な梵天、帝釈天、大地の神々。
そして特に、この土地を司る大権現に帰依し祈りを捧げる。
「出でよ、阿防羅刹ども! 地獄の鬼軍よ!」
ぞる、と世界が揺らいだ。
地面のあちこちに穴が開く。赤く輝く穴の中から、武装した鬼が何百、何千と出現する。
「これは……!」
「アズマ君!」
「行けるな?」
馬が三頭、出現する。金色の鞍と鐙をつけた、角と鱗のある馬だった。
「ああ!」
「ええ、アズマ君!」
ナツキが地面に両腕を押し当てる。二つの赤い円が生じ、武器が飛び出す。
地獄の鬼がもっともよく使う、三つ又の叉だった。
「弓、前に出でよ!」
馬に乗ったアズマが、叫ぶ。
「打て!」
いまだまとまりなく蠢く義経の軍に、矢の雨を降らせる。
「すっげー……」
大江山の人喰い鬼ではない、アズマの姿。地獄鬼軍の総帥・酒呑童子の雄姿。どんな絵巻にもない凛とした姿だった。
リョウもナツキも馬に跨った。ナツキが、三叉の一本をアズマに渡す。
三人はたがいに顔を見合わせ、うなずきあった。
「全軍、突撃!」
プルガトリオが鳴動した。
鬼軍は強かった。いつかの欝憤を晴らすように、義経の軍を揉み潰した。
『おのれ、おのれ、おのれェェェッ!』
押されるばかりの義経が歯噛みする。
『弁慶! 弁慶はいずこ!』
義経は半狂乱になりながら、腹心を呼んだ。
『弁慶ェェェッ!』
「もはやこれまでだ」
「覚悟をお決めなさい」
「武士のくせに、往生際が悪いんだよ」
三人が立ちはだかる。
「我呼召八大地獄第八、無間地獄!」
ナツキが唱える。
義経の足元に、穴が広がる。
『た、たす……け……』
義経の体が徐々に地面の中に引きこまれていく。地獄の最下層へ直結するその穴からは、熱風が吹いてくる。
「終わりそうね」
「マスミさん!」
「今までどこに?」
「うふん、様子見。死人と戦うなんてアタシの仕事じゃないわぁ」
悪びれないマスミに、全員がシリアスな気分を壊される。
でも、これで終わる――そう確信したとき。
「義経様!」
ホタルが飛びこんできた。
「ホタルさん!?」
ホタルはまっすぐに義経のもとに飛び込んだ。
「ちっ、手間のかかる子ね!」
マスミが糸を繰り出して助けようとする。糸はホタルに届かず、燃えあがった。
「しまった! 地獄の熱がもう……!」
「ホタルさん! 離れて! じゃないとあなたまで地獄に!」
ホタルには何も聞こえていないようだった。義経に抱きつく。
「離れません……よしつねさま……」
こちらに背を向けたホタルの表情は見えない。ただ恍惚とした声だけがした。
『あ……あ……』
義経が、この上なく恐ろしいものを見た顔になる。
そのまま、二人はもろともに消えていった。
「ああ……!」
ナツキががっくり膝をついた。
全員が、呆然とその場所を見つめていた。
「まったく、とんでもない悪女だよ。ホタルは」
マスミが垂れた憎まれ口が、手向けの花のように散った。
鬼軍は義経の軍を圧倒し、ことごとく地獄へ連れ戻された。
長く続いた叛乱は、ここで終結した。
「え、えーと、終わってない……」
リョウが青ざめる。
「カザミは! カザミは!?」
「そういえば、弁慶が連れていってそれから――」
「見て! あそこ!」
地面に穴が開く。そこからカザミを抱えた弁慶が姿を現した。
弁慶はあっさりカザミを解放する。
「カザミ!」
「兄ちゃん!」
駆け寄ってきたカザミを、リョウは受け止めた。
「弁慶……!」
アズマとナツキが構える。
「ま、待って! 待って!」
カザミはあわてて両腕を広げ、四人の前に立ちはだかった。
「カザミ、どうして?」
「悪い人じゃないの。あたしのこと、守ってくれたの!」
嘘や脅されてというわけではないらしい。
「……弁慶、なぜ?」
「娘に……似ていた」
青黒い顔の僧兵は、ぼそぼそと答える。
「某はずっと鬼子と呼ばれ忌み嫌われてきた。ただ武を磨いてきた。娘ができたのも、草葉のころがり寝の末よ……」
つまり、夜に乗じて行きずりの女とできた子供がいたということだ。もっとも、弁慶は子供がいたことさえ長らく知らなかった。
「殿の妻が平氏の娘だった。頼朝公の疑いを晴らすには、その妻君を殺さねばならん。しかし殿の御子を宿しておられた妻君を斬るに忍びなく――下女を身代りにした」
現代と違って、下賤の命がはるかに軽い時代だ。父親もわからぬ下女を殺すのに、誰も異を唱えなかった。
「それが某の娘とわかったのは、すべてが終わってからだった」
下女の母親と会ってはじめて、弁慶は思い知った。
「某は……ただ、ただ、必要とされたかっただけだ……」
もしかしたら、家族で生きる道があった。
もしかしたら、主君を英雄たらしめん道があった。
その後悔とともに、すべては終わった。終わってしまったのだ。
「酒呑童子よ、拙僧と戦われい」
「承る」
「アズマ君……」
「手出しをするな」
大男同士が向き合う。
かたや鬼子よ悪僧よと忌み嫌われた男、武蔵坊弁慶。
かたや人喰い鬼から地獄の獄卒を束ねた男、破鍋東。
火花が散った。
薙刀と叉がぶつかり、はじけ、また切り結ぶ。
怖ろしく勇壮で、壮烈で、烈風吹きすさぶ一騎討ちだった。
「アズマ君……どうして?」
「オレにはわかるよ」
リョウはじっとその戦いを見つめた。
「男のロマンってやつかな」
「男の人同士でわかることがあるって……なんか、くやしいです」
「ツキさん、やきもち?」
「えっ」
ナツキが目をぱちくりさせる。
リョウは思わず笑った。
「決まった!」
マスミがうなる。二人が視線を逸らしていたあいだに、決着がついた。
弁慶の巨体が倒れた。
「弁慶さん!」
「あっ、カザミ!」
カザミが弁慶に駆け寄る。
ほんのわずかな時間に、カザミと弁慶のあいだには奇妙な絆が生まれていたようだ。
「許してくれ……悪い父であった……」
カザミが首を横に振る。
弁慶は悲しそうに、それでいて満足そうにほほえんだ。
「カザミ、離れて」
いずれ地獄に落ちる身だ――誰もがそう思っていた。
「何だ?」
月の光が、弁慶とカザミの上に落ちる。
黄金色の光が、あたりを包み込む。
「この光は……?」
「なんて温かな……」
光に包まれた少女は、穏やかな表情で弁慶の頭をなでた。
「お、お……」
弁慶が目を見開く。
「菩薩……よ……」
まるで母に抱かれた赤子のようにほほえんで、弁慶の体が消えていく。
それは神仏が手を差しのべた瞬間だったのか。
それは月光が見せた奇跡だったのか。
わからなかった。
「プルガトリオが、消えるわ」
ザア、とカラスの群が散っていく。
ぶわ、と冷たい風があたりにふいた。胸のすくような澄んだ空気だった。
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