昔々のものがたり。
生命を慈しむ大河の源流は、清らかな山にある。
その麓には鮮やかな緑が、鬱蒼と茂っていた。
その山の奥深く、寄り添って生きる、二つの生命があった。
片方は、鹿。
片方は、烏(からす)。
その鹿は体躯大きく、毛の色は雪よりも清らかな白。その白があまりに無垢なので、陽光が射せば、毛先が虹色に染められる。鹿は賢く、優しい心を持っていた。
その烏は、体躯小さく、羽の色は闇よりも艶やか。強い翼は、森と山をあっという間に飛び抜ける。鹿の心根をよく知って、良き友としていつも彼に寄り添っていた。
ある日、鹿は烏をともなって、麓の川辺まで下りてきていた。麓とはいえ、緑は十二分に濃い。
渇いた喉を潤そうと、鹿は川に近づいた。川の水は、このところの大雨で、濁って大きくうねっていた。けれども、浅瀬は澄んでいる。
「落ちないでよ」
「大丈夫だよ」
鹿の角に止まっていた烏の言葉に、鹿は苦笑した。
冷たい水に口を付ける。薄く薄く、草葉のような味がした。
「た、た、助けて……」
突然、耳を掠めた音に、鹿は首を上げる。烏が角の上でよろめいた。
「どうしたのよ、急に〜!」
「いま、"助けて"って声が……」
白い首を巡らせて、鹿はあたりを見回した。
いた。上流から、人間が流れてくる。淡水の波に揉まれながら、腕がもがいている。そのまま男は流されていくかと思ったが、山から垂れていた細枝が、彼に手をさしのべた。
「天地の神々よ、どうか我を助け給え……!」
いまにも千切れそうな枝につかまり、男が叫ぶ。その悲痛な声が、鹿の耳を震わせた。
烏は鹿の意図を悟り、角からパッと飛び立つ。
「助けるつもりなんでしょ! 駄目よ、あなたが溺れちゃう!」
一歩踏み出した鹿の目の前を、烏が塞ぐように飛ぶ。
「人間なんか、助けなくていいよぉっ!」
「それでも」
鹿は、烏を押し退けると、そのしなやかな脚で、川岸を蹴った。
「僕の心には反せない!」
派手に水の音が上がり、鹿は深緑の水の中へ沈んでいた。
流れは、思ったより速い。重厚な波が、身体中を揉んだ。それでも鹿は水面に浮かび上がると、男のところまで泳いでいく。
男が、鹿の角にしがみ付いてきた。鹿は何とか身体を潜り込ませて、男の身体を自分の背中に乗せた。
岸を目指す。あえぎながら、泳ぐ。気が付けば、男の襟元を烏が足でつかんで支えていた。
「ハァ……ハァ……」
鹿は、泳ぎ着いた。よろよろと這い上がる。
背中に乗っていた男は、どさり、と地面に落ちた。烏は、すでに鹿の方へと寄り添っている。
鹿もまた、地面にへたり込んだ。白い毛から、水がしたたり落ちていた。
「生きてるよ」
鹿が心配そうに首を伸ばすので、烏が代わりに男の息を確かめる。
「まったく、甘ちゃんなんだから! 人間なんか助けたって、いいことないのに!」
「そう言わないで……哀しくなるな」
「う……、だって、あなたが溺れたら、大変じゃない」
「そうだね」
鹿は、烏の頭を舐めた。礼のつもりだった。
脱力して倒れこんでいる人間の男には、顔に傷があった。溺れたときに傷つけたのか、もとからあったのか。鹿たちには判らなかった。
「うう……」
男が、気が付いた。
男はひどく驚いたようだったが、すぐさま跪いて拝礼した。
滑稽なまでに、礼を述べ立てる。
「まこと、あなたは山の神様です。どうか恩返しをさせてください」
「人間!」
烏が、苛立ったように声を上げた。
「さっさとここから去れ! いま起こったことは忘れ、他言するんじゃないよ!」
「こら、そんな風に言うんじゃない」
鹿が戒める。
「でも、恩返ししたいというなら……決して人に他言しない、というのは、ありがたいと思います」
鹿の言葉にようやく、男は何度も何度も礼をして、去っていった。
さて、男は自分の国に帰っていった。
その国の王というのが、珍しい物を大変好む人柄であった。天下の宝をあまねく集め、それを知らせた者にも千金を与えて報いる。そういう人だった。
男は、早速あの鹿のことを申し上げようと考え付いた。あの時は、感情に任せて恩返し、などと思ったが、よくよく考えれば相手は畜生である。そもそも、礼を感じる必要も無い。
男は王に目通り叶うと、言葉巧みに美しい鹿の様子を述べ立てた。王はその話に、目を輝かせんばかりに喜び、すぐさま多くの従者や猟師たちを連れて、くだんの山へと行幸なさった。
王の一行が山へ入った。その人の多さに、静かな山はあっという間に騒がされる。
その騒がしさを聞きつけた烏は、空高くからその一行を見ることにした。
すると、多くの人間が弓矢を持ち、獣を追い立てる声などもする。驚いて、さらによくよく見ると、前に鹿が助けた男がいるではないか。顔に傷がある。間違いなかった。
「た、大変!」
烏は翼を翻すと、山奥の洞窟へと一直線に飛んでいった。
暗く涼しい岩屋の中で、鹿は眠りこけていた。烏は羽音も慌しく岩屋に飛び込んだが、鹿は目を覚まさない。
「起きろ、この馬鹿っ!」
烏は、くちばしで鹿の耳をくわえると、きゅーっと引っ張った。鹿が驚いて、目を覚ます。
「な、なんだよー」
鹿はまだ眠い目をむりやり開けて、ぷるぷると毛に包まれた耳を降る。
「人間の軍勢が、この山を取り囲んでいるんだ!」
烏が、まくし立てるように叫んだ。
「たくさんたくさん、弓矢を持っているよ! どうしよう! あなたを殺すつもりなんだ!」
「どうして、僕が殺されるってわかるのさ?」
「あの男がいたんだよ! あなたの助けた男が!」
「ええっ!?」
そこでようやく、鹿は眠気が覚めた。
「だから言ったじゃない! 人間なんか、助けるもんじゃないって」
烏は翼を広げ、せわしくあたりを飛び跳ねる。
「ああっどうしよう。早く逃げよう! もっと山の奥まで行けば、きっと……」
「……いや、もう逃げ場はないと思う」
「そんな!」
鹿は、なにかを覚悟したような表情をした。
「でも、一言、言うことがある」
岩屋から出ると、鹿は大きく息を吸った。喉を反らし、鳴く。高く澄んだ鳴声が山中に響き渡り、人間たちもそれに気付いた。
鳴き終わった瞬間、鹿は飛び出していた。
「鹿だ! 白鹿がいたぞー!」
鹿は、人間の一行の中に飛び込んだ。そのしなやかな脚で地面を蹴り、人の林の中を駆け抜ける。
突然のことに、人間たちは弓に矢をつがえることも忘れて、道を開けた。
丹塗の立派な輿の前まで来ると、鹿は速度を緩め、ゆっくりと歩み寄った。輿の周囲にいた人間たちが、弓を構える。
「皆、撃つでない!」
輿の中から、王が止めた。
鹿は、輿のそばに、顔に傷のある男を見つけた。男はどこか怯えたように、王に述べ立てた。
「こ、この鹿です! どうです、見事なものでしょう。さ、疾く疾く捕らえさせなさってください!」
「鹿といえど、恐れずにここへ来た。儂になんぞ、言うことがあるのだろう」
王は、鹿の眼に、並々ならぬ憂いがあるのを、見て取ったのかもしれない。死、以外の憂いを。
有無を言わさぬ王の言葉に、男は黙った。
鹿は輿の前に立つと、首を柳の枝のように垂れた。
「人間の王と、お見受けしました。畏れながら、申し上げます」
鹿は、淡々といまに至る次第を申し上げた。
ずっとこの山奥に住んでいること。
それが偶々、麓の川に出た折、王の隣にいるその男を助けたこと。
人間に害されることを恐れて、男に「喋らないで欲しい」と言ったこと。
「僕は、僕の心に正しく従って、生きてきました。それなのに、ここで命が失われることとなろうとは……」
うなだれたまま、鹿は切々と語った。
そして、ようやく頭を上げ、鹿は顔に傷のある男を見つめた。
「僕があなたを助けたのは、他意あってのことではありません。溺れて神に祈った、あなたの声があまりに可哀相で、気が付けば河に飛び込んでいたのです」
人間たちは、黙りこくっている。
恩知らずの男ですら、なにも反論しなかった。
「それなのに……なにゆえ、このようなむごい仕打ちをするのですか」
恨み、というよりは、残念そうな声だった。
その声を聞いて、人間の王は深く深く溜息をついた。
「まこと、この鹿の尊い行動は、山の神である」
王は、顔に傷のある男を睨みつけた。
「それなのに、この男はなんと浅ましい! 恥を知れ!」
王の一喝。その怒りを解した兵士たちが男を取り囲み、捕らえて引きずっていった。
男の雑言が一瞬聞こえたが、それは木々の囁く音がかき消してくれた。
「誇り高き鹿神に、人間を代表してお詫び申し上げる。この山には、今後一切、人が立ち入らぬようにいたしましょう」
王は、輿から降りて跪くと、丁寧に詫びを述べた。周囲の人間たちも、平伏していた。
やがて、王の一行は、整然と山を下りていった。
鹿はそれを見届けると、烏とともに深山へと戻っていった。
「…………」
「あ、あのさ」
戻る道すがら、ずっと黙ったままの鹿に、烏はなんとも声をかけかねていた。
「……僕は、間違っていたと思う?」
珍しく気弱なことを言う鹿に、烏は「自信を持ちなよ」と軽く翼で小突いた。
「間違っていたなら、あの時、お前はあの人間を助けなかっただろうね」
目の前に広がる木々を見ながら、烏は答えた。
「お前は自分の心に従う、どうしようもない頑固者だけど……でも、そういうところが好きだよ、わたしは」
烏の言葉に、鹿はようやく目元を緩ませた。まるで微笑んでいるように、見えた。
「ありがとう、友」
「どういたしまして、友」
昔々のものがたり。
美しい心を持つのは、獣ばかり。裏切るのは、人の心のみ。
白と黒の生命は、ともに、深い緑の中へと消えていった。
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