昔々、西國のとある山の中に、男が住んでいた。
名を、仙八といった。もっぱら、鉄砲で山の獣を撃つことを生業としている。妻はなく、老いた母も、既に鬼籍の人――つまり、死んでいる。
しかし、仙八には共に暮らすものがいた。老猫と、その子の猫である。
一体、いつごろから飼い出したか、よく覚えていない。当然だ。人ひとりきりの生活では、日々が過ぎることも、一年が巡ることも、いつのまにか自分の上を滑っていって、数えたことがない。気が付けば、その季節に合った動物を追い、季節に合った飯を食っている。
それが、仙八という男の人生だった。
その日も、仙八は狩りに使う弾を作っていた。
溶かした鉛を鋳型に入れ、固める。出来た弾は、いつも木の台に並べていた。
「こら、それで遊ぶんじゃない」
仙八は、老猫に言った。この猫は、いつもそうなのだ。弾が出来ると、その老いた爪先で、玩ぼうとする。全ての弾に軽く触れては、手を引っ込める。いつも、そうしていた。
子猫に、その癖は無かった。
仙八は、何とはなしに老猫の頭を撫でた。ごわり、とした感触が返ってくる。
随分と、歳を取ったと思う。長く、共に暮らしてきたと思う。猫の頭をなで、話しかけるときだけ、仙八は己の生きてきた時間に想いを馳せるのだった。
ある日、仙八は獲物を里で売りに行った。
久方ぶりに、山を下りた気がする。顔見知りの里人が、驚いた顔をしていた。しかし、里人は仙八を久しぶりに見た故に驚いたのではなく――何か別のことで驚いていたようだ。
「化物が、近隣の山に出る」
そう、告げられた。
俄かには、信じられなかった。自分が猟をする山には、そんな気配は微塵も無かったからだ。
しかし、里人は興奮気味に語った。猟師や木こりが、もう何人もやられていると。
「お前さんの腕がエエのは、誰でも知っとる。じゃが、いつかは……」
いつかは、己も喰い殺されるというのか。
しかし、仙八の帰る場所は、仙八の家しか無い。あの山の中の、傾いた家が、帰る場所だ。
仙八は里人が止めるのをあしらって、山へと帰っていった。
随分と、遅くなった気がする。陽が傾いて、あたりは茜色に染まっていた。
逢魔が時。
山賤の彼が、そんな言葉を知っていたかはわからない。しかし、この赤い世界は、人に夜の懐かしさと恐ろしさを思い出させる。
陽が暮れる前に、家に着こう。そう思って、足を速めた。
ふいに、後ろに気配を感じた。
振り返る。誰も居ない。赤く染まった木々が、さざめきという無言を返してくる。
「もし……」
声に、仙八は勢いよく振り返った。耳元で、風の切れる音がした。
地蔵。苔むした横顔。
その隣に、女がいた。
黄昏の中、女は若いように見えた。しかし、そうでもない気がする。しかし、見たことのない顔であるのは確かだった。
「仙八さま、でいらっしゃいますね?」
確認するようでいながら、確信の籠もった声だった。
仙八は、警戒しながらも「そうだ」と答えた。
「化物が……あなたさまの首を、狙うとります」
女の言葉は、単刀直入そのものだった。
仙八は面食らった。そして、様々な考えが頭の中を駆け巡る。
この女は誰だ。何故、この女がそんなことを知っているのか。この女こそ、その化物ではないのか。
「化物は、弾の数を知っとりましょう」
仙八の当惑も知らず、女は告げた。
「隠し弾を、そぅと持ちなさいませ」
慣れぬ、しかし知っている単語に、仙八は更に怪訝そうな顔をした。
隠し弾とは、「南無阿弥陀仏」の文字を刻んだ、霊験あらたかな弾丸のことだ。これで倒せぬ化物は無いという。
しかし、隠し弾を使った時、猟師はそれを最後の弾丸とせねばならない。二度と、鉄砲を握ってはならない。そういう、定めなのだ。
猟師としての生に、幕引く弾なのである。
「誰にも、誰にも知られんように」
女は、念を押した。騙そう、謀ろうというような、声では無かった。妙に、迫力があった。
気が付くと、仙八は地蔵の前で一人立っていた。
あたりを見回す。しかし、大分濃くなった茜色だけが、視界に入った。
鉛を流し込まれたような気分で、仙八は家に帰っていった。
翌日。
仙八は、山に出ていた。いつもの猟だった。
前の晩には、いつもの様に、鉛玉を鋳ている。老猫がじゃれついてくるのも、いつものことだった。
しかし、今日は鹿や兎を撃つ気には、なれなかった。
化物
女が告げた単語が、胸の内で渦巻いている。
里人たちの話は、本当だったのか。俺は襲われるのか。
恐ろしい考えと共に、自分の中の矜持が浮かんでくる。
ずっとずっと、腕のいい猟師だと言われてきた。自分でも、時々そう思ってしまうことがある。
ならば、化物。この鉄砲で、撃ち殺してやる。
そう、考えていると。
カサリ、と藪が揺れた。
胸の痛くなるような、叫び。大鷹の如き爪が、飛び出してきた。
山猫――!
まるで、藪の塊だ。大きい。
山猫は俊敏な動きで地面に降り立つと、仙八に向き直った。仙八もまた、毛のかしらも太る気分を押さえつけ、鉄砲を構えた。
銃声。一つ、二つ、三つ。当たらない。山猫の動きは、どんな山鳥や猿にも勝った。素早い。
鋭い牙、爪。ぎょろぎょろした眼に見据えられると、こちらは目を閉じたくなった。
また、銃声。四つ、五つ。しかし、また躱されてしまう。
距離を取った山猫が、まるで嗤っているように感じた。
化物は。
我が弾の数を、知っている。弾切れを、狙っている。
だから、今は攻撃してこない。ひたすら、弾を躱すだけなのだ。
仙八の背中に、ぞくりとした感覚が植え付けられた。胸が高鳴る。不安と恐怖で、今にも心の臓がはち切れそうだ。鉛の弾丸は、残り二つ。この二つを撃ったら、あの山猫は、迷うことなく、この咽喉を引き裂きに来るだろう。
震える腕を押さえつけ、仙八は引き金を引いた。六つ、そして七つ目の銃声。
弾は、当たらなかった。
刹那、勝ち誇ったような咆哮が山中に響き渡る。山猫が、吠えたのだ。仙八は、逃げた。木と藪だらけの斜面を、仙八は転がるように逃げた。
追い詰められた。山猫は、仙八が恐怖するのを楽しんでいるようだった。仙八は、がっくりと肩を落とした。死を覚悟したように、立ちすくむ。
山猫は、嘲笑うように仙八を睨むと、ゆっくりと身構え――そして、飛び掛ってきた。
その瞬間。
仙八は、鉄砲を構えた。震えは、止まっていた。
「南無阿弥陀仏」
引き金を引いた瞬間、仙八はそう呟いていた。
銃声。
次の刹那、山中に山猫の咆哮が響き渡った。思いがけぬ痛みへの、叫びだった。血を撒き散らして、山猫はのたうちまわる。そして、仙八に背を向けて、逃げ出そうとした。藪に飛び込み――そう遠くへ行かないうちに、その気配が消えた。
「やった……」
仙八は、思わず呟いていた。勝った、ということよりも、呆然とした気分の方が強かった。
「南無阿弥陀仏」の刻まれた、隠し弾。それを、山猫は受けたのだ。
本当ならば、今すぐにでも、逃げ帰りたかった。だが、山猫が死んだことを確かめねば、禍いは続く。血の跡が、転々と続く藪に、仙八は足を踏み入れた。
何歩、歩いただろう。
ふと、草の途切れた場所が見えた。
何を見ても驚かない覚悟ではあったが、仙八は目を見張った。
血溜まり。そして、獣の死骸。
老猫。
死んでいたのは、共に暮らしていた、あの老猫だった。胸を確かに撃ち抜かれ、絶命している。しかし、それ以上に、仙八は驚いていた。老猫の死骸を、膝に乗せるものがあったのだ。
あの女だった。女は、泣いていた。
「哀しや、哀しやなぁ」
咽喉を引き絞るごとき声で、女は泣いていた。
「悪鬼魍魎に堕落せしといへども、我が母や……」
涙は、うっすらと女の頬に滲んでいるだけだった。
しかし、女は胸の張り裂けそうな声で、泣き叫んでいた。
「哀しや……」
女は、立ち上がった。
両手に、老猫の死骸を戴く。着物の胸や太股に、べったりと血糊が着いていた。女は、仙八に何も言わず、背を向けた。否、はじめから気が付いていなかったのかもしれない。
女はそのまま、人の入れぬ藪の中へと消えていった。
風のように、音も無く。
仙八は、全てが終わったことを悟った。
家に、帰り着いた。
戸を、開けた。いつもと同じ、匂いがした。けれども、命の気配は、自分ひとりだけだった。
その日、仙八はいつまでも起きていた。猫たちが帰ってくるのを、待っていたのかもしれない。
「…………」
どうでもいい考えばかりが、浮かんでくる。
もう、人が襲われることはない。里人が聞いたら、大喜びして自分を勇者と讃えるだろう。
しかし。
己が、話しかけるものはもう誰も居ない。鉄砲も、取ることはない。
気が付くと、仙八は、泣いていた。
一体、何年ぶりであろう。この胸の痛みは。
何が悲しくて泣くのか、仙八にはわからなかった。ただただ、眼が干からびるまで、仙八は泣いた。
仙八の、仙八たる生。
それが、終わったのかもしれない。
だから、彼は、泣いていたのかもしれない。
そののち――。
隠し弾の定めどおり、仙八が再び鉄砲を取ることは無かった。
山を下りた男は、今もまだ、息はしている。しかし、それもやがて絶えるだろう。その間、何を思うのか。他人には、わからぬことである。
この物語は、わたし、筆者が旅の途中で立ち寄った寺で、聞いた話である。
老いた住職が、寂しそうに話してくれた。
そのかたわらに、錆びた鉄砲が、一丁、置かれていた。
|