in Buxtehude -どこか知らないところで-



『私は天国を見つけた』

 無線放送に乗って、言葉が流れてくる。

『この Agonie死の苦しみ に閉ざされた世界。その外に、理想郷を』

 人々はその報告に足を止め、驚いたように顔を上げた。その視線の先に、野暮な大きさの受像機。そこに、人影が浮かび上がる。ノイズをかき集めたような、曖昧な像だ。

『息苦しさを、捨てられる、世界だ』

 ノイズの人影。彼は、ここの魔導士だった。
 この閉鎖された世界は、軍人によって支配されている。軍には普通の兵士のほかに、魔法を以って軍務を果たす者がいる。それを、魔導士と言った。
 その魔導士のうち、最も優れていると讃えられた者が、軍を脱走した。
 魔導士が向かったのは、世界の外。世界を包む、苦い水の外。そこは、人が暮らせない――そう、この世界の人間たちは教えられてきた。外へは誰も出ない。誰も行かない。行ってはならない。
 なのに、あの魔導士は。
 軍に反逆して、外の世界へと行ってしまった。
 そしていま――彼は受像機に己の姿を送り、我らの世界へと、訴えかけてきたのだった。

『楽園だ』

 そう、甘い言葉を、不鮮明な画像に乗せてきた。
 急に、動きがあった。人々が、受像機から目をそらし始めた。軍が、動いているのだ。受像機の動力源も切られ、それ以上、誘惑の言葉が流れてくることは無かった。





 その閉鎖世界。
 ひとりの少女が歩いていく。沈んだ表情のまま、ふらふらと体を揺らす。石畳の街は、寒々しい風に蹂躙されても、押し黙っている。
 その時、少女は足を止めた。視線の先には、軍用車がある。少女が二三歩下がったとき、車の中から二人ほど軍人が出てきた。彼らは、まっすぐに少女の元へ向かってくる。
「レナーテ=ヴェレだな?」
「!」
 名前を呼ばれた。
「魔導士ジーモンの件で……」
 軍人がそう言いかけた時――少女は突然、踵を返した。
「待って! 話を!」
「いや!」
 少女は一目散に狭い路地の中へと駆け込んだ。そのまま振り返らず、軍人たちを引き離す。
 軍人たちはあわてて車に戻り、無線機を取った。
「対象が逃亡した。東の方向だ! いそぎ、保護してくれ!」
 保護せよ――その声が、寒い街に伝っていった。

 レナーテ=ヴェレ。少女の名前だ。
 彼女は、あの魔導士の妹――たったひとりの血縁だった。兄が、絶対的存在である軍に背いて、逃亡した。叛逆者の血縁。それだけで、彼女にはどれだけの迫害があるのだろう。彼女はそれゆえに、人々から逃れ、彷徨っていたのだ。
 だが、軍部が動いていた。人を避けていた彼女の前に、現れたのだ。少女は恐れ、逃げた。
 動き回る軍人の目を逃れ、国境の河へと向かった。河の周囲。貧民街が、水面へと溢れんばかりに張り出している。国境。この河を下った先は、――外の世界らしい。
「兄様……どうか、お力を!」
 少女は上着を脱ぎ捨て、水に入った。冷たくは無かったが、苦い水だった。おぼつかない手の動きで水をかきわけ、爪先で尖った砂利の水底を蹴る。
「いたぞ!」
「船を!」
「いや、岸からなんとか捕捉しろ!」
 耳にぶつかる水音の合い間に、そんな言葉が聞こえてくる。
 この河は、境涯だ。浅くとも、禁忌への敷居である。軍人たちも、対応にためらいがあった。
 その時、うしろで水音が起こった。誰かが飛び込んだのだ。そして、幾ばくの時も経たないうちに、少女は水中から引き上げられ、羽交い絞めにされてしまった。
「いや! いやぁ!」
「大人しくせい。別におぬしをどうこうしようというわけではない」
 少女を抱え上げたのは、がっしりとした巨漢だった。その男は落ち着いた声で、少女の抵抗をやめさせようとする。
「少佐! ご無事ですか!」
 その時、陸から声がかかった。声の主は、若い軍人だった。少佐と呼ばれた巨漢は、少女を抱えたまま、そちらの岸へと戻る。
「やっぱり……」
 おびえた少女の顔を見て、若い軍人がつぶやいた。そして、少女に穏やかな声で言う。
「おびえなくていい。私の名はハイン。ジーモンの友人だ」
「む、准尉。おぬし、知り合いか?」
「はい。ジーモンとは、学校で同級でした。君を傷つけるつもりはない」
「にいさまの……?」
「そう。レナーテ、きみのことは、ジーモンから時々聞いた」
 その名前を呼ぶと、少女の体から完全に力が抜けた。

「保護するようにとの命令でね」
 橋の手すりに腰かけて、少女は軍人たちの話を聞いている。
「うん……」
「きみがジーモンの血縁だと知ったら、悪い考えを起こす人間もいるだろうから」
 少女を捕まえて、外の世界を聞き出そうとする者。忌わしいものを見るような眼で、石を投げる者。そんな者たちの手から、少女を保護するように。そう、軍人たちには命令が下されていた。
「でも……軍人なら、にいさまを殺さなくちゃ、ならないのでしょう?」
 少女は、愚かではなかった。軍に保護される――それはおのれが、兄に対する人質となることも意味する。
「軍令に背いた者には、死を」
 少女は、低い声でそう言った。准尉は、それを慰めようと、少女の肩に手を置いた。
「だが、ジーモンは失うには惜しすぎる人材だ。場合によっては……」
「准尉、確証の無いことを言うでない」
 少佐の、静かだが厳しい声が飛んだ。
「……はっ、申し訳ありません」
 准尉は、頭を垂れた。まずいことを言った――そう、彼の表情は語っていた。
 ジーモン=ヴェレは、この閉鎖世界の秩序を乱した。良くて、軍法会議。悪ければ――その姿を捕捉された時点で、射殺されるだろう。
「おじさん」
 少女は、少佐の顔を見上げた。いかつい軍人が、すこし目を見張る。階級以外で呼ばれたのは、久々なのだろう。
「わたし、外の世界には行かないよ」
「そうか、それは賢い選択だな」
「よかった、レナーテ。じゃあ……」
「でもね」
 少女の小さな手の指に、力が籠もる。
「軍を、わたしが吹っ飛ばしたら、にいさまは助かるよね?」
 その瞬間――火花が橋の上を駆け巡った。
 反射的に危険を悟った軍人たちは、素早く橋から退避し――それが終わらないうちに、橋は瓦礫に変わった。轟音が、鼓膜を叩く。瓦礫は、浅い川に落ち、少女もろとも水の中に消えた。
 次の瞬間には、何十本もの水柱が、四方八方に高々と上がった。浅かったはずの川は、あっという間に濁流と霧に包まれた混沌に生まれ変わっていく。
 その爆発は、魔法に起因する。少女の両掌から、雷電に似た魔力がほとばしったのだった。レナーテ=ヴェレ。彼女もまた、魔法を使う者だったのだ。
「呪文も無しに、橋を壊しただと!?」
 なんとか橋から逃げた少佐が、驚愕の声を上げる。訓練された軍人たちも、自分の身を守るので精一杯だ。
「レナーテ! 正気か!?」
 准尉が、上がる水煙に向かって叫んだ。だが、答えは無い。ただ水の轟音だけが響いていた。
 水の勢いが治まったとき、少女の姿はどこにも無かった。
「少佐、お怪我は」
「おお、大丈夫だ」
 濡れた顔をぬぐいながら、たがいの無事を確認する。
「凄まじい魔力であったな。いやはや……あの兄にしてこの妹あり、か」
「あの子も……反逆者になるつもりでしょうか」
 准尉は、表情を曇らせた。声は沈んでいた。
「恐らくな。わしらは、とんでもないのを敵に回したかもしれん」
 閉鎖された、セピア色の世界。その足元が揺らぐ。
 少女は、消えた。外の世界には、行っていないのだろう。だが、その存在は誰の目にも触れなくなった。
 そして、その少女の胸に、宿った志。それを知っているのは、ほんの数名しかいない。
 知っている者は、彼女を恐れるだろうか。それとも、忌むだろうか。どちらにしても――彼女が次を投じる、その瞬間を待つだろう。

 そして、閉鎖世界を、こじ開ける。

 その瞬間まで、あと――。



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初出:2008年09月03日
ときどき、映画のような、面白くて印象的な夢を見ます。
そういった夢の幾つかのうちのひとつから、着想を得た話です。

[tbsf]様から背景画像をお借りしました。