あの人との恋は……いったい、なんだったのだろうか。
夢だったの?
現だったの?
わたしから、あなたを奪ったこの世は。
悪しき夢よりも、にくらしい――。
その女。
人は、彼女を「浮かれ女」と呼んだ。
人から人へ、まことしやかに口伝えられる噂が、もっとも人々の耳を楽しませた時代。彼女には、あまりにたくさん、恋の噂があった。
その女。人は、彼女を。
――和泉式部。
そうも、呼んだ。
燃えるような、恋だった。
子まで生した夫もかえりみず、あでやかに、落ちた恋。その恋ゆえに、夫どころか親にまで縁を切られた。それでも、愛さずにはいられなかった。
その愛だけで、十分だった。
しかし。
あやまち――そう、人はこの恋をあやまちと言うのだろう。
あやまちには、代償が求められる。
それ、なのだろうか。
彼女の恋人は――死に連れ去られた。
彼の死は、昨年、夏も終わりの頃。二十六という若さで、彼は亡くなった。彼が遺したのは、悲しみだけ。塞がらない胸の穴を、遺して逝った
彼女は、すべてを失った。
彼女のすべてだったものを、失ったのだ。
それから、時は過ぎゆき、また夏がめぐってきていた。春のあたたかく曖昧な日差しは失われ、影を強める光が、あたりを満たしている。だがそれも、すべてを失った女には、関係の無いこと。
儚い終わりを迎えた、恋の抜け殻。それが、いまの彼女だった。
その、すべてを失った女――和泉式部は、ひとつ、ため息をついていた。
抜け殻のまま季節を過ごし、頭はぼうっとしている。それなのに、目はよく外を見ている。人が目に留めないただの草、その青さも、心に染みいってくる。
そのとき。
カサリ、と草を踏む音がした。庭の透垣のあたりに、人の気配がする。
(いやだ……またかしら)
式部は、端近にいた己の気配を消しながら、また憂鬱になった。
恋多き女――その噂は、男たちの心をくすぐる。恋のために、頼るべき家族まで犠牲にした女とは、いかなる女人か。その好奇心ゆえに、式部に文を送ったり、はなはだしき時には覗きにくる者もいる。
式部は、それをどうとも思わなかった。思えなかったのだ。あの恋以来、心が死んでいる。たまに、その心の穴を埋めてくれそうな文をよこす者もいた。式部はそれを受け入れて――そして、別れる。それを繰り返した。
そしてそれは、恋多き女の「噂」を、さらに鮮やかに彩った。
また式部に興味を持った、「好き者」が庭に入り込んだ――式部は、そう思っていた。
「あの……式部様」
そんなことを思っていると、透垣の気配が、そう呼んだ。聞き知った声だった。見れば、あどけない小さな影。亡き恋人に仕えていた小舎人童だった。
「まあ……そなたは」
懐かしさに、式部は声をかける。久方ぶりにほほえんで、その少年を呼び寄せた。
「お久しぶりでございます。宮さまが亡くなられたので、用事もなくては失礼かと思って……遠慮させていただいておりました」
「そんな気を回さずとも……。そなたのことは、あの方の名残とも思っているのに」
童と話を交わすと、式部の心は、ほぐれるように昔を思い出す。
不思議と、憂いの気持ちは湧いてこなかった。
いままでは、昔を思い出して嘆くばかりだったというのに。亡き恋人――弾正の宮との、愛。それは喜びに満ちていた。それなのに、死の別れが、それを悲しくしていたのだ。喜びの頃を思い出して、式部は微笑みをよみがえらせた。
「あの方が亡くなられて、それからどうしていたの?」
「山寺に参ったりしておりました。ですが、近頃は……帥の宮さまのおそばに」
「帥の宮……?」
「弾正の宮さまの、弟宮さまです。弾正の宮さまの御代りとも思って、お仕えしています」
童の言葉に、式部はようやく、記憶から噂話を思い起こした。
「でも……噂では、近寄りがたいほど上品なお方とか。昔のように……とはいかないでしょう?」
「いいえ。そうは噂されてはおりますが、本当は、親しみやすいお人柄にていらっしゃいますよ」
噂と違う人柄……式部は、身をわきまえず、そこに己と通ずるものを感じた。
あの方の、弟宮。
顔は、似ていらっしゃるのか。
声は、似ていらっしゃるのか。
親しみやすいお人柄……あの方と、同じように……。
悲しみで開いた心の穴に、なにかが入り込むような。そして、揺さぶられるような。
そんな感覚を、式部は覚えていた。
「……それで今日、式部様をお訪ねすると申し上げましたら」
童の言葉に、式部はハッと我に返った。そして、はしたなくもあれこれ想像していた自分に、わずかに赤面する。
「式部様?」
「ああ、いえ。なんでもないわ」
童が、式部の様子に首をかしげる。式部は、内心慌てて、とりつくろった。ほう、とすこしだけ強く息を吐き、心を落ち着かせる。
(可笑しいわね……)
内心、自分を笑う。悲しすぎて悲しすぎて、季節のうつろいさえ悲しかった身なのに。こんなことで、心が動くなんて。そう思った。
「式部様にこれを、と……」
童は、式部のそんな思いには気づいていない。すらすらと言葉をつなぎ、花のついた枝を、式部へと差し出した。
「こ、れは……」
それは、橘の枝だった。白くかぐわしい花が、式部の視界に入る。
のびゆく青葉の大気に、ふわり、甘いその香り。
さつきまつ 花橘の香をかげば
「昔の人の――」
式部は、思わず、口にしていた。
――袖の香ぞする
たった一枝の橘なのに。
式部の心は、繚乱する花びらのように、乱された。「その香りが、昔愛した人の匂いと同じだから」――そう、詠まれた花の、白い香りによって。式部の心には、亡き恋人の影が、くゆった。
「どのように、お返事を」
童が、式部に言う。式部はまた、自分の心に乱されていた己を恥ずかしく思った。そして、返事を、と言われても。下手なことを書いて、妙な評判が立つのも心苦しい。けれど――。けれど、できることなら、あの方の思い出をともに感じられたら。
そんな想いもあって、式部はすこしばかり歌を詠んで、差し上げることにした。
すった薄墨が、硯のうちに揺らぐ。
薫る香に よそふるよりは時鳥 聞かばや 同じ声したるやと
兄弟だから、同じ声なのか。
できることならばお会いして、確かめたいような気もする。
心のふるえるままにそんな歌を詠んで、式部はそれを童に託した。
それから、式部はときどき、帥の宮と文を交わすようになった。
あの童に託す、歌のひとつひとつ。
託されてくる、歌のひとつひとつ。
薄様の紙に浮かぶ水茎が、感情を失っていた心を慰めてくれる。
帥の宮からの歌を見ていると、思い出す。鮮やかだった、あの恋を。すべてが、むせかえるほどの香りに包まれていた、あの熱情を。
式部は、薄く笑った。ただ弾正の宮のことだけを悲しんで生きていたのに――我ながら、なんと心の浅いことよ。
惹かれはじめているのだろうか……。
かの人と同じ橘の枝に鳴いている、時鳥――帥の宮に。
(わたしは……もう一度、会いたい……のかしら)
式部には、自分の心がわからなくなっていた。
その時、文があった。その、歌。
語らはば 慰むこともありやせん いふかひなくは思はざらなん
「暮れに……お会いしたい、ですって?」
帥の宮からの文には、そう書いてあった。
(……どうしよう)
返事を書こうとして、手が止まる。筆が、すこし震えた。
(やっぱり、会うのは……)
式部は、ひとつ目を閉じると、
『かひなくや』
お会いしても、仕方の無いこと――そう、文に書きつけた。
「…………」
陽も暮れ、夜のとばりがあたりに下りる。式部は、すでに横になっていた。
「はぁ……」
小さな溜息が、漏れる。眠れない。
「お方様……」
「どうしたの?」
侍女が、式部のもとにやってきた。式部は身を起こし、何事かと尋ねる。
「お客様です。あの、小舎人童が」
(――帥の宮様!)
式部は、意識が澄んでいくのを感じた。
「どうなさいますか?」
「なし、と申し上げるわけにもいかないでしょう。……着替えを」
式部は、胸が高鳴るのを感じていた。
「やっとお会いできて、嬉しゅうございます」
「…………」
式部は、黙っていた。なりゆきで会ってしまったとはいえ、軽々しく言葉を交わす気はなかった。
「兄上の思い出をともに語れたら、と思っているだけです。なにか、ひとことでも……お言葉をいただけませんか?」
「…………」
クスリ、と男が笑う気配がした。
「前々から、お会いなさっている方がいらっしゃるようですが……私は、そのような不躾なことはいたしませんよ」
「そのような……」
式部は、思わず答えてしまった。そして、御簾の内で顔を赤らめる。
「ああ、やっとお声が聞けました」
御簾の外の人が、笑っている。その様子に、式部はまた翻弄された。
からかわれているのだと、思う。彼女には、情人の噂が絶えないのだから。
(でも……)
誤解されたくない。数多く交流を持った男たちの中で、本当に愛した者はいない。――あの方を除いては。
(帥の宮様には……誤解されたくない……)
式部の心には、やっと、そんな願いが浮かび出た。
「どうかなさいましたか?」
「いえ……」
男の問いに、式部は曖昧に答えた。
とりとめもない話で、時をごまかしているうちに、夜は更ける。
「私は……そう軽々しく夜歩きのできる身でもありません」
「……宮様?」
「だけど、今宵ここに来た。……その心、おわかりですか?」
「なんの、ことでしょう?」
その時、衣擦れの音がした。男の影が、動く。御簾の端に、袖の影が射して――男が、すべるように入ってきた。
「――!」
「やっと――お会いできましたね」
「宮……さま」
式部は、呆然とそう言った。
男――帥の宮が微笑む。式部は即座に我に返り、袖を顔にかざして奥へ入ろうとした。
しかし、衣擦れの音は、止まる。式部の体を、男が捕らえたからだ。包み込まれるように、やわらかく、だがしっかりと、とらえられていた。
「声だけ、と申し上げました……」
式部は、声を詰まらせた。けれど、男は腕の力を緩めてはくれない。
「声だけで、いいのですか?」
しなやかな指が、式部の頬をなぞる。式部を化粧する匂やかな白粉が、その指を彩った。
「香りも……確かめたくは、なくて?」
もたれかかってくる、確かな意志を持った男の体。女の足がいざる――だが、男はその紅の袴を押さえ、女の頬にかかった髪を、そっと払った。
「だ……め」
迫る唇。女は辛うじて、拒否の言葉を言おうとする。だが、男は目を細めただけで、女から離れようとはしなかった。
(ああ……)
視界が、暗くなる。崩れ落ちる綾絹が、わかる。体が、軽くなっていく。
(この香りは……花……橘……?)
鮮やかな香りが、鼻先を掠める。だがそれに飽きたらず、香りは式部の頭を満たした。
「やっとふれられた……あなたに……」
確かな温度を持った手が、黒髪に引っかかる。
(……宮さま……)
式部には、どちらの宮を想ったか――わからなかった。
その朝――式部は、白い橘の花の中で、まどろんでいるようだった。
かぐわしい夢の中で、囁かれた言葉。
恋人の常。永遠に愛する、とか。心変わりはしない、とか。そんな儚い夢を、約束された。
帥の宮が去ったあと――式部は、不思議な幸福感と、ぼんやりとした不安に包まれた。
(……宮様)
瞳を閉じれば、その面影が揺れる。それは、帥の宮の影。――式部は、恋に落ちていた。
帥の宮から、手紙が来た。
それを広げる自分の手が、いつもより急いている。
『いま、私がこうしているあいだも、あなたはなにをしているのですか』
『不思議なくらい、あなたのことを想うのです』
そんな困ったことが書いてあって、そして和歌がある。
恋といへば 世の常のとや思ふらん 今朝の心はたぐひだになし
恋なんて、当たり前のことだと想っていたのに。
あなたと別れた今朝の心は、たとえようもなく切ないのです。
(わたくしもです……宮様)
式部も、乱れた心のままに、筆を滑らせた。
世の常の ことともさらに思ほえず はじめて物を思ふあしたは
あの方への追慕だけが、わたしの命だったのに。
あなたの愛にふれたゆえに、あたらしい物思いに沈む朝です。
夏の影が、濃くなっていく。
ふたりの恋は、はじまった。
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