龍は吟じて虎は咆え
壱ノ二.異変は西より


 一艘の早舟(はやぶね)が水路を滑り、王都に急報を持ち込んだ。
 軍師は、そう国王に伝えた。

 それは、国の西方からの知らせだった。
 異民族が国境をおかし、次々と村や砦を襲い出したことが報告された。ついには、西の要衝である花白(カハク)という土地まで、落ちたという。
 事態を重く見た国王は、軍師たちの助言も得て、王国軍の出陣を指示。国王みずからが兵を率いての、征行(いくさ)となった。


「お疲れでございましょう。お休みください」
「玉髄(ギョクズイ)」
 緊張にあふれた陣の中、営舎に戻った王――晃耀に、声をかける者がいた。
 まだ少年と言えるほど若い王は、その声にすこしだけほっとした表情を見せた。
 晃曜に声をかけたのは、玉髄だった。玉髄には、すこしばかり武の心得がある。そのため、晃曜が護衛として連れてきたのだ。
 しかし実のところ、王の護衛には、正規の近衛軍がついている。玉髄のつとめは、どちらかと言えば、晃曜の身の回りの世話だった。
「玉髄も来てくれてよかった。いくさの陣は、息がつまるものだね」
「ええ、僕もですよ」
 友に言うような気楽さで、晃曜はすこし愚痴をこぼした。玉髄は丁寧な口調を崩さず、かすかに苦笑して応じた。二人は幼馴染だった。いまは有事の時、幼馴染同士には戻れない。
「……さすがに、すこし疲れたな。玉髄、しばらくひとりにさせてくれないか」
「御意」
 侍従は一礼し、王の前から下がった。
 外から王の姿が見えぬよう幕を下ろし、ふたたび御召(おめ)しあれば参れるよう、営舎の隅に座り込んだ。

「……無理もない、か」
 ややあって、玉髄は、小さくつぶやいた。
 晃曜とは、同じ歳で幼馴染だった。
 思えば長いつきあいで、おたがいの気心はよく知っている。玉髄には、その親友が本当に疲れていることがよく感じとれた。無理もない。国王は初陣(ういじん)なのだ。
「僕だって、息がつまるものな……」
 そして、玉髄も初陣だった。腰の剣が重い。
 幸い、侍従というのが彼の立場なので、前線で戦うことはまずないだろう。しかし行軍の負担や、兵士たちに満ちる緊張感には、体を締めつけられるような圧迫感があった。
「…………」
 眼を閉じる。外はすでに、陽が落ちた。脚が疲れて、すこし重たくなっているのを感じる。
「!」
 気配を感じて、玉髄は眠りかけていた意識を覚まさせた。
 入り口に立っている兵が、訪れた何者かに一礼しているのが見えた。
「我が君に目通りを」
 敵ではない。男の声がして、武官が玉髄の前に立った。その顔を知っている。王国軍の、将軍のひとりだった。
「我が君には、お休み中であられます。火急(おいそぎ)のご用件であれば、お通しいたしますが」
玉髄は暗に、用件をここで述べよと言った。自分が取り次ぐ、とも言っていた。戦時中であるので、少々悠長だなどと謗られそうだ。
「もう、お眠りになったの?」
「いえ、おひとりでお心を静めておられます。余人を入れるな、との仰せでございました」
「おい、玉髄」
 いらだった声が、玉髄の前にいた将軍のうしろからかかった。背も高いが肩幅もある、獅子のような男が将軍の横に立つ。この男もまた、将軍だった。常に先陣をつとめる彼は、味方からも怖れられる風格がある。
「まったく……侍従のくせに、やけにデカイ顔するじゃねーか」
「我が君の御命令であれば」
「ここは後宮じゃねぇよ。戦のあいだは、将軍が我が君に目通りするのは当然のこと。ぐだぐだ言わず、通してもらおう」
 重厚な声で、皮肉を言われた。玉髄は、思わずムッと口をつぐむ。
「剛鋭(ゴウエイ)、ぐだぐだ言ってるのは君だよ。余計な時間がかかるじゃないか」
 もうひとりの将軍が、先ほどと変わらぬ調子で同僚をたしなめた。
「フン、こいつはちっと応用力が足らねぇんだよ」
「それは失礼いたしました」
 不機嫌そうな声色を隠そうともせず、玉髄は頭を下げた。
「英凱(エイガイ)、剛鋭、なにかあったのかい?」
 不穏な空気を和らげるように、晃曜が顔を出した。将軍たちが礼をし、玉髄も頭を下げる。
「これは、我が君。お休みのところを……」
「よい。それよりも――」
 晃曜が、国王に戻った。
 将軍たちは、戦(いくさ)全体に関する報告をいくつか持ってきていた。特に変事があったわけではなさそうだ。

 玉髄は、すこし下がった場所で、それを聞いていた。
 王は、すこしでも多くの情報を聞いておこうと、熱心に耳を傾けている。なにせ、彼は軍の総帥と言えど、実際は初陣だ。戦の実践に関しては、末端の兵士よりも素人だろう。
 そんな彼にいま、軍の状況を話しているのは、一人は最前線に出るべき将軍、もう一人は兵站を担当する将軍だ。戦のことは、よくわかっている。
 彼らのほかにも将軍はいるし、なによりこの軍には、兵法を司る参軍たち――そしてその長、軍師がいる。本当なら、軍師にいろいろ聞くのが一番早いだろう。
「登紀はどうしてる?」
 登紀(トウキ)とは、すなわちこの国の軍師の名だ。
「軍師殿ならご心配はいりません。いままさに、我が国を護る策を練り上げております」
「信じている、と伝えてくれ」
「御意」
 二人の将軍が、拝礼する気配があった。

「……玉髄」
 軍人たちが去ったあと、王――晃曜が、小さく呼んだ。玉髄は表情を変えなかった。
「気にしないで」
「わかっています。慣れてます」
 晃曜が、なにを言わんとしているかは、わかった。すこし笑って、玉髄は応えた。
「玉髄は、こんな侍従の職で終わるような器じゃない。予はそう思う」
 晃曜は、二人きりのとき、時々こう言った。
 腐るな。小さくなるな。
 王はそう、励ましてくれる。
「それは、大きすぎる評価です。僕は、そんなに大器じゃない」
 玉髄はいつも否定する。謙遜ではない。馴染みであるがゆえの贔屓目だと、玉髄は本気で思っている。
「そうやって、お前は自分を卑下するけど……お前を信じている予に対して、不敬じゃないか?」
「は……」
 王の口調が、冗談めかして笑っている。彼はいつもこうやって、玉髄を叱ってくれる。
「だから、大器になって? 期待してるから」
 夜の暗さごしには、晃曜がどんな表情をしているかはよくわからなかった。しかし、確実に彼はいま、微笑んでいる。そう思った。
「努力します」
 玉髄は、またすこしだけ笑って、頭を下げた。

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初出:2009年己丑9月1日