とうに消灯時間が過ぎ、廊下は非常灯だけが明るい。
学棟は闇に包まれていた。教員が研究室に残っているときは、その明かりが廊下に漏れ出ていることがある。しかし漏れるのはわずかな光量であり、夜の学棟を照らすには至らない。
時刻は、午前一時を回っていた。
警備員が学棟の見回りをしている。学園内の警備は、委託を受けた外部の業者が行っている。万が一のときは、学外から応援が駆けつける体勢が整っている。警察や消防への通報を行うこともある。
警備員たちの靴の音が響く二人ひと組だ。懐中電灯の光が廊下の長さに合わせて伸びる。
二人のうちのひとりが、足を止めた。
「どうした?」
足を止めた同僚に、警備員は尋ねる。
「……すまん、先に行ってくれないか」
尋ねられた警備員は、トイレを示した。用を足したいらしい。
「わかった」
さして気にも留めず、警備員は同僚に背を向けて、廊下を再び歩き出した。
「……ん?」
ある部屋の前にさしかかって、警備員は異常に気づいた。
「ドアが開いてる……?」
行方不明になっている岡留の研究室だ。
ドアがわずかに開いている。彼女が行方不明になってから、研究室には鍵がかけられていたはずだ。研究室の予備鍵を持つ誰かが中にいるのか。
警備員はすぐさま考えを改める。研究室の電灯がついていない。教職員や生徒なら当然、明かりをつけるはずだ。生徒は全員帰寮しているはずだし、こんな夜中までほかの教員の研究室にいようとする教職員もいないはずだ。
誰かが鍵をかけ忘れたのか。
それとも何者かが侵入したのか。
「……誰かいるのか?」
ゆっくりドアを開け、懐中電灯で照らす。部屋の明かりをつけようと、電灯のスイッチに手を伸ばす。その腕を、何者かがガッとつかんだ。
「お、岡留先生!?」
懐中電灯の光の中に、女性の顔が浮かび上がる。岡留美之だった。
混乱する警備員の首に、岡留の腕がからみつく。
「ひぎ……アッ!」
悲鳴さえ上がらなかった。
ごきり、と固いものが折れる。警備員は音もなく床に崩れる。
ずる、ずる、と警備員は岡留の研究室の中に引きずりこまれる。白く細い手がドアノブをつかみ、静かにドアを閉じた。
「…………」
ぶちっ。ぶちっ。
がり、くちゃくちゃ、こりこり。
ずるずる、くちゃくちゃ。がりがり。
柔らかいものを喰いちぎる音。固いものを砕く音。液体をすする音。
おぞましい音が闇に解けていく。
その音に誘われるように、もう一人の警備員が岡留の研究室に近づいていく。先ほどトイレで同僚と別れた方の警備員だ。おぼつかない足取りで、研究室の前まで来る。引き寄せられるように、警備員は岡留の研究室へ入っていった。
「中央警備室と連絡が取れない?」
数十分後、学内の異常に気づいたのは、学園の端にある警備員の分室だった。
学内警備のメインとなる中央警備室と連絡が取れない。すぐさま非常事態の通報が行われ、分室の警備員たちが中央警備室へ急ぐ。
「こ、これは!?」
中央警備室には、今夜は六名が詰めているはずだ。だが四名しかおらず、全員昏倒していた。口から泡を噴いている。
分室の警備員たちはすぐさま中央警備室から退室した。
「中央警備室に異常発生! 怪我人が四名いる。毒ガスによる攻撃の可能性あり!」
学園外の本部へ異常を知らせ、
「あとの二名はどこへ?」
「応答ありません!」
「待て、正面玄関前……誰かいるぞ!」
監視カメラの映像に、人影がある。
「様子を見に行ってくれ」
「はい!」
すぐさま二名が正面玄関へ向かう。
「何をしている!?」
男が地面にうずくまっている。バサバサに乱れた髪を気にしようともしない。しゃがんで背を丸め、地面に何かをこすりつけている。
「おい、何してる!? こっちを向け!」
男がゆっくり立ち上がり振りかえる。
「ひ……っ」
「ぎゃあああああああ!」
警備員たちは悲鳴を上げた。
男はみずからの首を真一文字に斬り裂いていた。傷口からあふれる血が、首から下を真っ赤に染め上げている。血に染まった服は、警備員の制服だった。
「あわ……あわわわ」
警備員らは腰を抜かし、ほうほうの様子で逃げ出した。
男はまるで気にしていない。逃げる警備員に背を向け、しゃがむ。また地面をこすりはじめる。男の手には刷毛。男は自分の血で、地面に文字を書いていた。
出血量からすれば、男はすでに動ける状態ではないはずだ。だが男は動いていた。首の傷口に刷毛を突っこみ、血を吸わせては地面に文字を書く。
癸巳ノ日丑三ツ刻
玉石一磨ヲバ渡シ申セ
モシ渡サズバ人間ノ者悉ク手足ヲ切リ骨髄ヲ砕キ鉄ノ湯ヲ以テ喰ラワン
我ハ是レ朱顎王
土蜘蛛ノ王也
男が笑っている。声は出ない。ひゅうひゅうと空気の通る音だけだ。
書き終わった男の頭が弾けた。血と脳漿をまき散らしながら倒れる。文末を飾る花押のように、血の花が咲いた。
|