帝姫阿倍天皇(孝謙天皇)の時代。
紀伊国牟婁郡熊野村に、永興禅師という人がいた。彼は海辺の人々に仏法を説き、人々からは「菩薩」、「南菩薩」と呼ばれていた。
ある時、永興のもとに一人の僧がやってきた。小さい字で書いて一巻にした法華経と、白銅の水瓶、縄床(携帯用の坐臥具)だけを持っていた。
僧は一年あまり永興のもとにいたが、再び旅に出るという。僧は縄床を永興に奉り、「山をめぐり、伊勢国に参ります」と言って、旅立った。
それから二年して、熊野川上流で村人が木を切り、船を造っていると、どこからともなく法華経を読む声がする。村人らはそれを尊んで、声の主に施しをしようと山の中を探したが、見つからなかった。
さらに半年後も、同じ読経の声がする。村人らは、永興にこのことを伝えた。永興も山中にその声の主を尋ねたところ、ひとつの死体が見つかった。山の巌に縄をかけ、その縄を両足に結んで、身を投げて宙釣りになって死んでいた。死体は白銅の水瓶を持っており、あの旅の僧であったと永興は悟った。死んだ身でありながら、僧は経を読み続けていたのだ。
(険しい巌から身を投げていたからであろうか)亡骸を回収することもできず、永興は悲しみながら帰るほかはなかった。
さらに三年後、いまだ読経の声がすることを山人が知らせた。さすがに、あの巌の死体も朽ちているだろう、骨を拾って収めよう、と永興が出かけていくと、髑髏が見つかった。髑髏の中では、舌が朽ちずに残り、ずっと経を唱え続けていた。
これは不気味なことではなく、大乗不思議の力、経を読み功徳を積んだ結果である。穢れていずれは朽ちる身を持ちながら、経を読む舌だけが残ったのは、この旅僧が聖であったからだ、というほかはない。
また、吉野の金峯山でも、同じように経を唱え続ける舌を持った髑髏があった。
ある僧がそれを見つけ、清い場所に収めて経を唱えると、その髑髏も一緒に経を唱えたという。 |